2018年3月20日火曜日

童謡 春よ来い

    
      ”春は名のみの風の寒さや~♪”

「早春賦」の出だしだ。
ここ3,4日、春めいた陽気で、ベランダの蘭の花がいっきに咲いた。
っと思ったら、今日は一転。小雨がぱらついて寒い寒い。
三寒四温で春が近づくとは言うけれど。
まさに、春は名のみの風の寒さ、だ。

息子のところの孫娘が今月、初節句を迎えた。
そんなわけで、今月のわたしの鼻歌は、「春よ来い」だ。

♬1 春よ来い 早く来い
   歩きはじめた みぃちゃんが
   赤い鼻緒の じょじょはいて
   おんもへ出たいと まっている

いいなあ、この詩。
なぜだか、かわいくって、みぃちゃんのよちよち歩きのすがたが目に浮かぶ。
どうしてだろう。
ああ、そうだ。
この詩には、幼い子の言葉がそのまま使われているのだ。

じょじょはいて。
おんもへ出たいよぉ。
春よ、来い来い、早く来い。

みぃちゃんのよちよち歩きがはっきり見えてくる。

「唱歌・童謡ものがたり」読売新聞文化部(岩波書店)

久しぶりにこの本をめくってみた。
30年近く前になるだろうか、読売新聞日曜版の一面に唱歌、童謡誕生の背景を紹介する企画が連載されていて、小さい頃に父が童謡、唱歌の絵本を買ってきては挿し絵をめくって歌を聴かされて育ったわたしには、日曜版のその企画が待ち遠しかった。
そのときに、童謡、唱歌の詩が2番、3番と最後まで載っていて、ああ、童謡、唱歌は最後まで歌ってこそ、感動がさらに膨らんで伝わってくるのだなあと思った。

その後、夫のキンシャサ勤務に伴ってコンゴ民主共和国に赴き、一時帰国で健康診断を受けに行った御茶ノ水の書店、丸善に平積みされていたのが、この本だった。

わあ、懐かしい!
ページをめくるまでもなく、即決でレジに走って入手した本だ。
2013年10月16日第1刷発行、とある。

「唱歌・童謡ものがたり」は、春、夏、秋、冬に分けてそれぞれ15~20篇ほどの歌が紹介されている。作詞、作曲者の紹介から、その歌の作られた時代などの背景まで、興味深い記事だ。(全71曲)
最初に紹介されている歌は「早春賦」。
そして次が「春よ来い」。

「春よ来い」の作曲は広田龍太郎。
作詞は相馬御風(そうま・ぎょふう)。
かれは、早稲田大学の校歌の作詞もした人だ。
故郷の新潟県糸魚川市に戻ってからは、良寛の足跡をたどって世に紹介した最大の功労者なのだそうだ。彼自身も、良寛のように村の子どもたちと無心に交わった希代の思想家、芸術家だと記されている。

♬2 春よ来い 早く来い
   おうちの前の 桃の木の
   つぼみもみんな ふくらんで
   はよ咲きたいと まっている

おうちの、前の、桃の木の~♪
”の”が4つも重なって、とても軽やかな、春らしいリズムを醸し出しているなと思う。

でもね。
春よ来い!、といちばん待ち望んでいるのは、赤ちゃんを抱えてずっと家内で育児をしていたお母さんだよね。
わたしの娘は11月生まれだった。
とびきり寒い冬を過ごして、早く春よ来い来い、と待っていたことを懐かしく思い出す。もちろん、まだまだ娘は歩くことはできなかったけど、娘を抱っこして緑の春風の中を歩きたかった。もう30数年前のことだ。

娘は現在、春遅いアルプスの町に暮らしながら、幼稚園に通う孫娘と、きっと、春を待ちわびていることだろう。
もうひとりの娘も、昨年12月に生まれた孫娘を抱っこして窓越しに外を眺めながら、やっぱり、春よ来い来い、と歌っているのだろう。

春よ来い 早く来い
ふっくら 小さな手をつなぎ
春の野花の 道のなか
散歩をしたいと まっている

~なんて続きは、いかが?(寛子作)

2018年3月6日火曜日

雪山讃歌

雪に輝く北アルプス(雪山写真のHPより)
南仏Antibesからアルプスを望む(2015年2月、本人撮影)

雪よ岩よわれらが宿り
おれたちゃ町には住めないからに
おれたちゃ町には住めないからに

シールはずしてパイプの煙
輝く尾根に春風そよぐ
輝く尾根に春風そよぐ

けむい小屋でも黄金(こがね)の御殿
早く行こうよ谷間の小屋へ
早く行こうよ谷間の小屋へ

テントの中でも月見はできる
雨が降ったらぬれればいいさ
雨が降ったらぬれればいいさ

吹雪の日にはほんとにつらい
アイゼンつけるに手がこごえるよ
アイゼンつけるに手がこごえるよ

荒れて狂うは吹雪かなだれ
おれたちゃそんなものおそれはせぬぞ
おれたちゃそんなものおそれはせぬぞ

雪の間に間にきらきら光る
明日は登ろよあの頂(いただき)
明日は登ろよあの頂(いただき)

朝日に輝く新雪踏んで
今日も行こうよあの山越えて
今日も行こうよあの山越えて

山よさよならごきげんよろしゅう
また来る時にも笑っておくれ
また来る時にも笑っておくれ



2月最後の日曜日のこと。夫の母校のある鳥取の工芸展が目黒のギャラリーで開催されているというので、二人で中目黒の駅に降り立った。
信号を渡っていると、チャイムが街中に響いてきた。
懐かしいこのメロディーは何の曲だったかな?
「オーマイダーリン、オーマイダーリン」という詞がふっと頭に浮かんだ。
そして、なぜだか雪を被って真っ白の山々の景色も浮かんできた。
はて?
ますます混乱してきた。
雪山の景色は、平昌オリンピックで感動をもらっていた選手たちの活躍と重なったのかな。
そして。突然、♬ユキヨ イワヨ ワレラガヤドリ♬ の歌詞が口についてきた。
ああ、そうだ!「雪山讃歌」だ。

あらためて詩として読むと山を愛する山男たちの心情が浮かび上がってくる。
調べると、メロディーは、アメリカ民謡。1849年あたりのゴールドラッシュに沸いたアメリカで働く男の娘、クレメンタインが過って川に落ちて亡くなるという悲しい話らしい。
その歌を京大山岳部の部員たちが愛唱歌にしていて、ある冬の数日、山の悪天候で足止めに合った部員たちが嬬恋村の温泉宿で、主将の西堀栄三郎を中心に独自の詞を付けようということでできた「雪山讃歌」なのだそうだ。
西堀栄三郎は後に第一次南極観測越冬隊長となっている。
タロとジロの物語で知られる「南極大陸」としてテレビドラマ化され、西堀さんをモデルにした役を香川照之が熱演したらしい。(原作は、北村泰一著「南極越冬隊 タロとジロの真実」)

「南極大陸 タロとジロの真実」北村泰一著(小学館文庫)


冒頭に「雪山讃歌」の詩(詞ではなく、あえて”詩”と書きたい。)を載せてみた。
しみじみと良い詩だなあと思う。

どうしてこの”いとしのクレメンタイン”が京大山岳部の愛唱歌になったのか。
愛しのクレメンタインが川に落ちて亡くなったということと、部員仲間が山で滑落死したことを重ねているのだとも聞いた。
ゴールドラッシュに沸くアメリカ新大陸で労働者として生活した荒くれ男たちと、「俺たちゃ、街には住めないからに」、吹雪も雪崩にも「俺たちゃ、そんなもの恐れはせぬぞ」と詩にした山男たちと。
同じ心意気みたいなものを感じてしまう。

平昌オリンピックで「限界なんて忘れよう」と力を出し切って雄姿を見せてくれた選手たちの姿とも重なってしまう。

「雪山讃歌」が誕生した鹿沢温泉には、この歌碑が立っているのだそうだ。
また、嬬恋村では正午を告げる防災無線のチャイムにも「雪山讃歌」のメロディ―が使用されているとも知った。

でも、どうして中目黒の街に「雪山讃歌」のメロディーが流れてきたのだろう。

山(と言っても険しい山ではなかっただろうけど)に登ることが大好きだった父がよく歌っていたなあ。と書いたが、わが父は今年95歳になり、元気に独り暮らしをしている。この前も、電話先で、この歌をリクエストしたら、しっかり、時々間違えて(!)歌ってくれた。

アルプスの山々 ”猫の頭”の愛称で知られる猫の耳のような山も見える。(2018年2月娘の夫撮影)

「雪山讃歌」の歌のすばらしさを思い出させてくれたことに、ありがとう。

2018年2月14日水曜日

かまくらへのあこがれ

秋田乳頭温泉 かまくらの街路灯~友人のFacebookより

九州で雪が積もったと日曜日のニュースで伝えていた。
わたしの故郷、北九州市の八幡でも雪は積もるんだけどな。
ただ、数十センチも積もらないだけ。
平昌オリンピックに出場したフリースタイルモーグルの村田愛里咲選手は福岡県北九州市出身だとテレビで何度も紹介されていたが、きっと雪のない地方から冬のオリンピック選手が誕生したことが珍しかったのだろう。
雪が降らないことはない。ただ、たくさんの積雪がないだけのこと。

わたしの小さい頃は、冬になると雪だるまを毎年こしらえて楽しんでいた。
でも、かまくらを作るほどたくさんの雪は積もらなかった。
だから、かまくらへのあこがれは強い。

雪国の子どもたちがかまくらの中で餅を焼いたり、みかんを食べたりしているのを見るたび羨ましく思ったし、かまくらの中に神棚があるのも神聖な感じがして、ますますあこがれが膨らんだものだ。

冒頭の写真は、友人がFacebookに載せていたもの。
静かで美しい光景だ。秋田の乳頭温泉の光景ということだ。
小さなかまくらが並んで、中に灯りがちらちらと燃えて、雪道をほんのり照らしてる。

友人からのこの写真を見て思い出した絵本がある。
荒井良二作の「きょうというひ」だ。


絵本「きょうというひ」荒井良二作(BL出版)

銀色を背景にして雪の結晶が舞い降り、その中で温かくロウソクの火が燃えている。


きのうのよる ゆきが ふりました
あさひが ゆきをてらして きょうというひの はじまりです・・・


おんなのこはセーターと帽子とマフラーを編んで、雪の原に出かけます。
そして、ロウソクが入るくらいの小さないえを作ります。
せっせ、せっせと。
たくさん、たくさん。

女の子は小さないえのひとつひとつにロウソクを入れて、火を灯します。


おんなのこのロウソクのいえ

きえないように きえないように
きえないように きえないように

女の子の小さな祈りが聴こえてくるようだ。


雪の原のちいさなかまくらにたくさん灯ったロウソクたち

きょうというひの ちいさな いのりが きえないように
きえないように 


おんなのこの祈りで染まっていく夕暮れ時。
ロウソクの火と夕焼け空が混じり合ってなんとも言えない朱色に染まっていく。
響きの美しい「灯ともしごろ」~ひともしごろ~ということばが美しく再現される。
たくさんのロウソクの灯りで。

おんなのこの小さな祈りがひろがっていく。


・・・よるに また ゆきがふりました


音ひとつ聞こえてこない、静かな絵本だ。
今日はバレンタインデー。
平和でありますように。

2018年1月31日水曜日

寒い日のお楽しみ~2冊の絵本とともに

毎日、寒い日が続いている。
赤道直下のキンシャサから帰国して久しぶりの冬だから、ますます寒さが身に応える。ヒートテック下着を2枚重ね着しているのに、寒い寒い!

でもなぁ。
50年前のわたしの故郷、北九州の八幡の冬はもっともっと寒かったな。
冬の朝、土の中に埋まっている宝石の原石のようにキラキラと輝く霜柱を踏みながらサクサクという感触を楽しみながら登校していたし。

洗濯物を干したまま朝を迎えた時は、洗濯ものたちに”つらら”がぶら下がっていた。(当時は、脱水機付きの洗濯機なんてなかったしな。)

そして、何よりの楽しみは、冬の夜バケツに水を入れてベランダに出して寝ると、朝には、しっかり全面に氷が張っていた。2、3センチの厚さはあったはず。

それから、手袋にそっと雪の一粒を受けて、小さな六角形の雪の結晶を観たりもした。
家に帰りつくと、ストーブの前に陣取って、母の温かい手でかじかんだ耳たぶを覆って温めてもらったな。


今冬、いちばんの冷え込みになると天気予報で聞いて、よし、氷を作ろう!と、夜、プラスチック容器に水を張ってベランダに出しておいた。



しかし、この通り!
なんとがっかり! 氷は半面にやっと数ミリ程度張っただけだった。


その時、思い出した写真絵本がある。
「ひとしずくの水~A DROP OF WATER」(あすなろ書房)だ。

写真絵本「ひとしずくの水」(あすなろ書房)ウォルター・ウィック写真

”水”のいろいろな状態の瞬間を撮ったこの写真絵本は、まさにわたしの宝物だ。

水がぽたりと静かに滴る瞬間。

水がしぶきを上げて落ちる瞬間。

王様の冠になった! 

わたしは、幼稚園で毎月配本されていた絵本の中に、雨が地面に跳ねる一瞬を王冠のように描く絵を見て、わあ!雨って跳ねたときに王冠みたいになるんだ!と感動して以来、雨が地面に着地する瞬間を幾度となく観察してきたが、この絵本の写真家が本当に水が冠のようになった一瞬を映像としてとらえていることに深く深く感動してしまった。

表面張力、毛管現象、蒸気、気化、液化。
霜、露。
くもの巣にくっついた露のしずくの美しいこと!

水滴ビーズのネックレス!

そして、氷、雪。
雪の結晶の美しさといったらなかった!
自然が作った、二つと同じ結晶はないという摩訶不思議さにはまいったな。

写真絵本「ひとしずくの水」より


こんな美しい自然からのプレゼントに魅了されて、雪の結晶を撮り続けた写真家がいた。
それを知ったのは、絵本「雪の写真家 ベントレー」(BL出版)を通してだった。

絵本「雪の写真家 ベントレー」(BL出版)J.B.マーティン作 M.アゼアリアン絵

150年以上も前にアメリカの豪雪地帯に生まれたベントレーは、最初は、手書きで根気よく雪の結晶を描き続け、両親にカメラを買ってもらってからは顕微鏡写真を工夫に工夫を重ねて撮り続け、庭で幻燈会を開いて皆に雪の結晶の美しさを観てもらって楽しむのだった。
小さな村で暮らすひとりの農夫が自然の美しさに魅了されて、皆にも観てもらいたいと写真を多く撮りためて、ついにべントレーは世界的にも雪の専門家として認められて、写真集が出版された。
写真集が完成してわずか1か月後に亡くなったベントレーの記念碑が村の真ん中に建っているという。

  ”雪を愛したベントレー”
  ジェリコが生んだ
  世界的な雪の専門家

作者のジャクリーン・ブリッグズ・マーティンは、ベントレーについて、
”誰も気づかなかった美をみつけ、それを他の人にも見せたいと願ったウィリーの夢と努力、そしてお金ではなく雪の美しさこそ『宝物』であるという信念が、私の心を強く動かしたのです。”と語っている。

メアリー・アゼアリアンによる木版画の挿し絵がこの絵本の魅力を倍増している。
また、この絵本は1999年度のコールデコット賞を受賞している。

  ”Sense of Wonder”

この気持ちを忘れずに生きてゆきたい。



















2017年12月19日火曜日

NHKカルチャーラジオ 「大人が味わうスウェーデン児童文学」

10月から3か月間、スウェーデン語翻訳家の菱木晃子さんの案内で、「大人が味わうスウェーデン児童文学」という講座が始まった。
”大人が味わう”、という言葉からも分かるように、菱木晃子さんの解説がなんとも温かく、人生を幾分たりとも長めに生きてきたわたしたちだからこそより深く理解できるでしょう~という視点がうれしく、おもしろい。

カルチャーラジオのテキスト
まずは、スウェーデンの児童文学の下地になっている、北欧神話、民話から入っていった。

そして、「ニルスのふしぎな旅」。
この物語が生まれた興味深い背景を知り、また改めて読んでみたい!、と強く思った。
漫画家、文筆家のヤマザキマリさんも愛してやまない「ニルスのふしぎな旅」。
この物語の魅力を別な角度から知ったように思う。

さらに、絵本「三人のおばさん」を通して見る、絵本作家、エルサ・ベスコフさんの生い立ち、教育観。かのじょも幸せな満ち足りた子ども時代を過ごしたからこそ、美しく物語を創作することのできた絵本作家だったのだ。

次に、待ちに待った我らがアストリッド・リンドグレーンさんの登場。
「長くつ下のピッピ」、「さすらいの孤児ラスムス」、「はるかな国の兄弟」の三作品を通して解説される。
菱木晃子さんも語るように、リンドグレーン作品には、大きく二つのグループに分けられると思う。
一つは、現実の場所を舞台にして、子どもたちの冒険や日常生活を明るく快活に描いたもの。もう一つは、空想の世界で物悲しくも壮大で神秘的に描いたもの。
どの物語の中にも、リンドグレーンさんの子どもたちへのまなざしの優しいことをひしと感じる。
リンドグレーンさんは、「あそんであそんで、あそび死にしないのが不思議なくらいあそんだ子ども時代だった。」と表現(菱木晃子さん訳のすばらしいこと!)するくらい、大人に見守られながら幸せな子ども時代を送り、それがどんなにか人生を送る中で大切なことだったのか、に思い至る、と言っている。

最後の月は、1980年代後半から約20年間にわたるスウェーデン児童文学の第三次黄金期だと菱木晃子さんが位置づける、ポスト・リンドグレーン時代の幕開けに出版された物語について語られる。
リンドグレーン作品を読んで育った世代が作家となり、また、スウェーデンにおける家族形態の変化も見られる中で発表されていった作品の数々。
この時代のうねりの中にもしっかりと受け継がれている、子どもたちへの温かいまなざしとエールが感じられると解説されている。
菱木さんのいう、「子どもの人格を尊重し、一人ひとりの個性を大切にしようとする」スウェーデン人の考え方。べスコフ、リンドグレーンから繋がっていく精神を感じる。

その中で、先週は、「ステフィとネッリの物語」が取り上げられた。
スウェーデン第2の都市、イェーテボリのユダヤ人家庭に育ったアニカ・トールによる物語だ。
第二次世界大戦前、ウィーンからイェーテボリ沖の小さな島に引き取られたユダヤ人姉妹が主人公で、1996年にアニカ・トールのデビュー作として、まず「海の島」が出版されている。
ステフィは12歳、ネッリは7歳。その後さらに彼女たちの物語は3冊編まれ、1999年に四部作「ステフィとネッリの物語」が完結する。
こんな出来事が第二次大戦中にスウェーデンの小さな島で起こっていたなんて。
かれらが過ごした6年間のスウェーデンの島での生活は、思春期にあたるステフィと、まだ幼く人生の大半を気持ちの上ではスウェーデン人として生きたネッリの、それぞれの成長物語でもある。
菱木さんは、「10代から、その親の時代、そして、第二次世界大戦を経験した世代、と三代にわたる幅広い読書層を獲得した。」と語っている。(著者自身の脚本で、スウェーデン国内ではテレビドラマにもなったそうだ。)
最後は、慣れ親しんだスウェーデンの島を離れて、実父と共にアメリカに行く決心をした姉妹が、島の人々と別れ出帆する場面で終わる。
辛い別れがあってこそ、次の舞台へ移れるんだという現実にわたしも共に向き合って、かれらの幸せを心から願ってページを閉じたことを思い出す。

菱木晃子さん案内の講座もあと2回を残すのみ。
最後は、スウェーデン児童文学の第三次黄金期の男性作家ウルフ・スタルクの二つの作品を取り上げるそうだ。
最期まで、目が(耳が!)離せない。
わたしは菱木さんの訳が大好きだったが、かのじょの温かい語り口に、ますます大ファンになってしまった!
いつか、いつか、お会いできますように。
楽しい、「大人が味わうスウェーデン児童文学」世界へのご案内をありがとうございました。

2017年10月23日月曜日

物語 ”ちいさな国で”

1990年代のブルンジが舞台になった物語を読んだ。


著者は、ガエル・ファイユ。
1982年にブルンジ共和国でフランス人の父と、ルワンダ難民の母との間に生まれ、2009年にフランスへ移住。ミュージシャンとして活躍しながら、本書で作家デビュー。このデビュー作で、高校生が選ぶゴングール賞、FNAC小説賞を受賞している。

コンゴ民主共和国の東側に、北からウガンダ、ルワンダ、ブルンジと3つの小国が並ぶ。
その南端の、タンガニーカ湖に面し、反対側にはタンザニアと国境を接する小国、ブルンジ共和国が舞台になっている。

ブルンジで政変が起こったのが1993年で、11歳の主人公ギャビーは、父親(母親とは別居している)と妹と3人で首都のブジュンブラの、とある袋道にある一軒家に住んでいて、いたずら仲間や近所の人々(その袋道の隣人のギリシャ人女性から主人公は読書の楽しみを教えてもらう。)と幸せに暮らしていたが、政変を境に生活は少しずつ崩れていく。

1994年、隣国ルワンダでツチ族の大虐殺が始まった。
行方不明になっていた母親が変わり果てた姿で帰ってきた。

そして、ブジュンブラも紛争状態となり、物語の中では、主人公兄妹は二人だけでフランスへ発つ。

20年の年月を経て、主人公のギャビーは懐かしいブジュンブラの袋道に帰ってくる。
いたずら仲間だったアルマンと再会し、地区の一杯飲み屋で旧交を温めるが、お互いに古傷には触れない。優しい時間。
ギャビーは旧友に、読書の楽しみをおしえてくれた女性の残した蔵書を引き取るためにブジュンブラに帰ってきたことを告白する。
そして、旧友と再会した飲み屋で、さらに衝撃的な再会を果たすのだ。
その場面でこの物語は幕を下ろす。

この物語は、母親がツチ族ではあるが、ブルンジ共和国で過ごした幸せな少年時代を過ごした少年の思い起こす話が骨格として進むだけに、ツチ族の大虐殺後に起きる、人々の心の精神崩壊の悲惨さがとてもショッキングにあぶり出される。

当時のルワンダに住み、大人のツチ族自身の女性が隠遁生活を綴った、「生かされて」という本を思い出した。日本で2006年10月に初版が発行された本だ。




この「ちいさな国で」。
著者、ガエル・ファイユの自伝的小説とされる。
美しい詩的な表現力は、袋道の隣人、ギリシャ人女性の蔵書で培ったものなのだろう。
主人公がブジュンブラの住み慣れた袋道を出発するときに、女性が、時間がないからと、彼女の本のページを破って一篇の詩を渡す。わたしの思い出に、ここに書かれている言葉を胸にとどめておいて、いつかこの詩の意味がわかるはず、と。

訳者のあとがきで、著者が持つ、文体の独特なリズム感~アフリカならではのユニークな表現や喩えを、心地よいリズムを刻みながら淀みなく繰り返される見事な文章に、フランス本国で大人気の、かれのラッパー&スラマーとしての本領発揮だと大絶賛している。

平和だった少年時代の思い出話があって、それ故に、大虐殺がもたらす陰が凄みを与える。
余韻の残る物語だ。
2017年6月、日本で初版発行。早川書房から。

2017年9月19日火曜日

アーサー・ビナード ”ここが家だ”~ベン・ジャーンの第五福竜丸

先週の土曜日、赤羽の青猫書房でのアーサー・ビナードさんの講演に参加した。
かれは50歳くらい?のアメリカ人。来日して日本語を習得し、今では、執筆も日本語で行っている。いわむらかずお著の”14匹ねずみ一家シリーズ”の英訳もしているのだそうだ。

わたしは、アーサー・ビナードさん、と聞いて、ベン・ジャーンさんの絵とともに著した”ここが家だ”を懐かしく思い出した。


”ここが家だ”~ベン・ジャーンの第五福竜丸 表紙

わたしが最後に開いた、2011年の夏の絵本屋~”センス・オブ・ワンダー”を囲んで、の時に取り上げた書籍のうちの一冊だった。
2011年3月11日の東北大震災で、まだまだ混乱状態の続く日本に暮らし、未来を支える子どもたちと共に自然の現象に身を置き、目を凝らし、不思議だなあ、きれいだなあ、と感動する心を持って生きていきたい。そんな絵本や、物語、詩集を選書してみようと思っての、「2011年・夏の絵本屋」だった。

”ここが家だ”は、画家ベン・ジャーンさんが描いた、第五福竜丸のビキニ環礁での水爆実験被ばく前後の乗組員の一連の絵と共に、かれらの記録を記した物語だ。
ビキニ環礁で超極秘裏に行われたアメリカによる水爆実験。
世界中で、Happy dragon という名で知られる悲劇の第五福竜丸の乗組員たちにふりかかった思いもしない出来事。
現在、どこかの町でこの船が展示されて、水爆の恐ろしさをひそかに伝えていると聞く。

わたしは、ずっと、この第五福竜丸の乗組員の悲劇、不運を、悲しみを持って見てきた。
でも。
アーサー・ビナードさんは、かれらは、勇敢なすばらしい行動を示した人たちだったのだ、と言い切った。
確かに、漁業操業中に期せずして被ばくした乗組員たちは、悲劇の不運な人たちではあったが、かれらはそれだけで終わらなかったのだ、と。

世界一を誇るアメリカの軍隊!水爆実験も超極秘裏に進められ決行され、終結される予定だった。
その、実験の海域で操業していた第五福竜丸。船長の久保田さんはじめ乗組員たちは、西に太陽のように光るものを見たのだった。
西に昇る太陽はない、とすぐに異変を察知した久保田さんは、第二次大戦中、スパイとしての任務も併せ持って漁船の操業に従事していたという経験の持ち主だったのだ。
ぴかっと光って嵐のような天候に激変したことにさらに異様なものを感じた久保田さんは、とにかく、アメリカの無線機器のレーダーに第五福竜丸の存在を感知させたら一貫の終わりだと直感。大戦中、スパイの任務も併せ持って操業していた漁船が、無線レーダーから突然消え、消息を絶つという異様な経験を何度もしていた。とにかく、アメリカ軍がビキニ環礁海域に日本の漁船がいるとレーダーが感知することを回避すること。そのために日本に第五福竜丸から無線を発信してこの異変を知らせることを禁止し、万が一、アメリカ軍が第五福竜丸の存在を感知して尾行が始まり、これで最後だと思ったときにのみ海上保安庁に交信する、これは最後の発信になる、と覚悟した。
乗組員は、嵐のように吹き荒れる海に瓶を入れ、いくつもサンプルを集めたとも聞く。
そして、すぐに母港の焼津に向かって最短の航海コースを取るとそれこそアメリカ軍の思うつぼだ、ともかく、ビキニ環礁海域から早く逃れることだと決断し、コースを真北に取り、アメリカ軍の無線海域からの脱出を図った。
そして、第五福竜丸が焼津港に近づいたとき、折しも、焼津港は捕獲した漁船の水揚げ最盛時刻だと知った久保田船長は、沖で待機し、その時間を避けて入港。
航海途中で、すでに乗組員たちは体調に異変をきたしていた。
入港後、船長はじめ乗組員たちは、海上保安庁にすぐにビキニ環礁で見たことを知らせ、サンプルを渡し、病院へ搬送された。

乗組員たちは、その後、悲惨な状態で亡くなった。
しかし、かれらの取った行動が、アメリカの水爆実験の悪行を世に知らしめたのだった。
水爆は、広島や長崎の原爆の比ではないものすごい威力を持っているという。

アーサー・ビナードさんは、幼い頃、自宅にあったベン・ジャーンさんの描く第五福竜丸の画集を傍に育ったのだそうだ。ビナードさんの父親の蔵書だったとか。
そうして、ベン・ジャーンさんの絵と共に、第五福竜丸の乗組員たちのことを描いてみようと思ったのだった。

アーサー・ビナードさんは、世界で最初に原爆投下された広島に家族と共に住み、世界の原子力を使った地球上の悪行を見つめている。

彼は言った。
世の中に出回る情報は、すべて操作されている、と。
政府、企業などの都合の良いように変えられ、表現方法でいかようにでも変えられるのだと。
第五福竜丸の被ばくについても、日本政府は、乗組員たちが取った勇気ある行動、残したデータを封印?し、アメリカの悪行をおおっぴらには暴いていないし、批難さえもしていない。

個人個人がしっかり見る目を持って生きて行かなければと改めて思った講演だった。

センス・オブ・ワンダー。
不思議だなあ、どうしてだろう、きれいだなあ、おかしいぞ。
心を持って生きていきたい。