2012年12月22日土曜日

3人のちいさな人魚

3週間ほど前だったろうか、我が家で数人が集まってわいわいと夕食をとっていたときに、コンゴ河で捕獲された人面魚をYoutube上で見た、ということが話題に上った。

不気味な姿で本当に人魚のようだったとか何だとか、話に尾ひれが付いて本当のところはわからないが、”人面魚”というとやっぱりちょっと見たくない感じがする。
ワニやら巨大なまずが棲息するアフリカのジャングルを蛇行しながら流れるコンゴ河に住む人魚には、申し訳ないが悲恋の主人公も似合わなければ、可愛いアニメにも不向きだと思ってしまう。
”人魚”はあくまでもきれいな光に満ちた海に住んでいなくっちゃ。

さて、人魚、といって思い浮かぶのは、アンデルセン作、「人魚姫」ではないだろうか。
あの話は最後の最後まで悲恋の物語だった。
失恋ばかりで生涯を独身で過ごしたアンデルセンおじさんの心境が映し出された物語だったのかもしれない。

この「人魚姫」にヒントを得て出来上がったのが、宮崎駿監督の「崖の上のポニョ」だと聞いたことがある。
わたしはこの映画を観ていないが、決して悲恋物語ではないようだ。


我が家の食卓でコンゴ河の人面魚の話題で盛り上がっているとき、わたしがひとり密かに思い出していた物語が、「3人のちいさな人魚」(評論社)だった。

コーラに、フローラに、ベラ。
南国の透き通った美しい海に住む、歌のとっても下手~な3人の人魚たちのかわいくも愉快な物語だ。






ティファニーカラーのブルーの表紙からして、お洒落でしょう。
上品でおしゃれなかわいらしさのあるイラストで、悲恋の”ヒ”もないどこまでも健康的(!)な物語だ。

作者は、ふたりのトレさん・・・・Denise Trez さんと、 Alain Trez さん。
勝手に、おしゃれなフランス人のカップルかな、と想像している。

物語は、3人の人魚たちが歌うあまりにひどい歌声のせいで沈没した客船に乗っていた可愛い女の子を救出したことから始まる。
沈没と言ったって、悲壮感のかけらもない。

人魚たちによって救出された女の子はしばらくかのじょたちと南国の島で暮らすことになる。
人魚たちの暮らしぶりはお洒落で清潔で明るく、海も島もいたってシンプルに描かれる。

人魚たちの日々の生活ぶりがまた愉快だ。
水の入った人魚たち用ベッドと、女の子のためのベッドが並ぶ場面にもうなずいてしまう。
海の底のあこや貝の中から、真珠の粒を集めて、女のこのためにネックレスを作ってあげる場面なんて、大人でさえもうっとりしてしまう。

すっかり人魚たちの生活になじんだ女の子だったが、魚たちに頼んで女の子を人間の住む陸地まで送り届けることになった。
最後に、女の子を送る歌を性懲りもなく人魚たちが歌うのだが、”忘れまじ~”という古典曲のような題名の歌だ、というのがまた笑える。

色味を抑えたページに明るいブルーが入り、人魚たちの住む透き通った光の世界をイメージできる。

1979年発行の絵本は、わたしと娘の大のお気に入りの一冊だ。
寒い日が続く冬の季節にこそ、暖かな人魚たちの南国の生活を想像して縮こまった心身をほぐすのも名案かもしれない。

2012年12月10日月曜日

むこう岸には

小さい頃、自分が住む町だけが、この世に存在する世界だった。
あの山の向こうも、こっちの坂の向こうも、誰も住んでいない何もない森か山か草地だろうと思っていた。
ある時、坂の向こうにも小学校がある、と聞いた。
へえ・・、向こうにも違う町があるのかもしれない。

坂を越えてみたら、わたしの住む町と同じように、バスが通り、パン屋があり、学校があり、町が広がっていた。

小学校の音楽の教科書で歌った、”どこまで行っても 続く道・・・”。
本当にそうだった。
坂の向こうにも、わたしが住む町と同じような町があった。


十何年前になるだろうか、NHKテレビで韓国のドラマ「冬のソナタ」を観た時も、同じ感覚を持った。
海を越えた、いちばん近い外国、韓国にもわたしたちの国ととても良く似た文化を持って暮らし、同じような感情を持って生きる人々がいる、というとても当たり前のことに驚愕した。
欧米の映画は見慣れているから、日本と違う彼らの文化や暮らしはよく知っていたのに。
いちばん近い隣国のことは、ぼやけて素通りしていたように思う。


そんなことを思い出す絵本が、ほるぷ出版の「むこう岸には」だ。


絵本 「むこう岸には」 表紙

川の向こうには、わたしたちと違う人種が住んでいるから、向こう岸には絶対に行っちゃいけません、と大人たちは言う。
どんな風にわたしたちと違うんだろう。
大人が行っちゃいけない、っていうのだからきっと危ないところなんだろう。女の子は漠然とそんなふうに考えていた。

ある日、向こう岸でひとりの男の子がこっちに住む女の子に手を振って笑いかけている。
女の子も手を振ってみた。
そして、またある日、岸辺にボートがたどり着いて、向こう岸から男の子が手招きをしている。
女の子は、それに乗って向こう岸に行った。

なんだ、少しわたしたちとは違うけど、わたしたちと同じように家族仲良く暮らす人々がいるんだ。
男の子の家族の中で楽しい時間を過ごして、また女の子の住むこちら側に帰った。
そして、ふたりは仲良しになる。

わたしたちの夢は、いつかこの川に橋を架けること。
そうしたら、いつでもわたしたちはこっちとあっちと会いに行けるんだもの。

この物語の冒頭に、作者のマルタ・カラスコさんの言葉が載っている。
世界平和を強く願うメッセージ。
チリの有名なイラストレーターだったマルタさんは2008年に亡くなっている。
絵も文章も彼女の手によるこの絵本は、マルタさんの遺作となった。

女の子が着る白いワンピースは、子どもの純粋無垢な心を象徴しているように思える。
大人は何にでも境界線を引いてしまうけれど、子どもの心にも、大人の考える境界線を植えつけてはいないだろうか。



12月2日の日曜日、キンシャサで第1回日韓親善ゴルフコンペが開かれた。
これまでの両国間の難しい歴史関係、そして今も領有地の問題が存在するわたしたちの国同士。
そんな中でこの企画は画期的なことだった、と思う。
キンシャサのゴルフクラブには多くの韓国人がメンバーでいるが、今までは挨拶程度しか交わりがなかったように思う。
そんな交わりの少ない日本人、韓国人間で、ゴルフコンペの企画を立て、コンペが行われ、夜は表彰式を兼ねて食事会を持ち、楽しい交流を持った。
きっとこれからは、ゴルフ場であってもキンシャサのどこであっても、立ち話の光景があちこちで見られることだろう。
キンシャサの小さな交流かもしれないが、大きな一歩だったと思う。



アフリカ大陸の地図を見ると、国境線が見事きれいな直線に引かれていることを見つけるだろう。

1884年、当時のヨーロッパ列強13カ国が参加したベルリン会議で、アフリカにおける植民地が分割され、列強の意のまま境界線が決定した。
”アフリカの年”と言われた1960年、多くの独立国が誕生したとき、植民地時代に引かれた直線の境界線がそのまま国境になった。列強が引いた境界線は、当然、民族とは無関係のものだった。
同一民族が離れ離れになったり、対立する民族が一緒にされたり。それが後の民族紛争の原因となる。
また、経済的に豊かな土地と貧しい土地が同一国家に組み入れられたことで、後に、豊かな土地が独立運動を起こすことにもなった。

わたしたちが現在住むコンゴ・キンシャサ(コンゴ民主共和国)は元ベルギー領。
コンゴ河を挟んだ対岸は、コンゴ・ブラザビル(コンゴ共和国)で元フランス領。
ふたつの国の首都同士が対岸で向かい合っている珍しい地域だ。
もとは、ここには中小の王国が割拠していたはずだ。それが、ベルギー領とフランス領に分けられ、その境界線のままそれぞれが独立した。
向かい合ったそれぞれの首都が、一つの経済圏を形成してると言われるが、両都市間は、フェリーで結ばれるだけだ。(空路もあるが。)
現在、両都市間に橋を架けようという計画案が浮上しているのだそうだ。
実現すると2kmほどの長い橋になるのだろうか。
橋の建設が両国間にどんな影響をもたらすのか。
3つの地点の候補が挙げられているそうだ。他方向から調査、検討する必要があるのだろう。

垣根のない交流。
交流があって初めて、真の理解が生まれる。
そんな生き方を自身でも心がけたいし、子どもたちにもさりげなく示してゆきたい。

2012年12月6日木曜日

クリスマスまであと九日~セシのポサダの日


コンゴのブラックウッドで作られたイエス降誕人形
 いよいよ、12月。
世界のいろいろな町で、クリスマスイルミネーションが瞬いている様子が目に浮かぶようだ。

キンシャサは、雨季真っ只中。
暑くて、クリスマスの雰囲気は感じられない。
また、クリスマスイルミネーションも今のところ見かけない。

キンシャサの我が家にもクリスマスの雰囲気を運びたくて、以前、中村寛子シスターに教えていただいたLimete5番通りにあるカトリック教会のブティックに、イエス降誕の木製人形を買いに行った。
ブティックを入ると、正面に大きな馬小屋がこしらえられてマリア様、ヨセフ様、3人の博士に羊飼いたちの人形が置かれていた。クリスマスが来るのを実感した瞬間だった。

その日購入した降誕の人形が、上の写真のものだ。
この人形たちをリビングに飾りながら一冊の絵本を思い出していた。

ひとりの女の子を通して、メキシコのクリスマスを描いた「クリスマスまであと九日~セシのポサダの日」だ。



絵本「クリスマスまであと九日」の表紙


アメリカの絵本作家、マリー・ホール・エッツとメキシコの作家、アウロラ・ラバスティダの共作で、日本では冨山房が最初、「セシのポサダの日」の題名で出版し、その後、しばらく品切れが続いていた。

その、品切れ状態が続いている時だった。
娘は幼稚園の先生にセシちゃんのこの絵本を読んでもらって以来、大のお気に入りとなったのだが、本屋では見つからない。
たまたま近所の文庫の会でこの本を見つけてからは、よく借りてきて読んだことを懐かしく思い出す。

そしてしばらくして、「クリスマスまであと九日」の題で(”セシのポサダの日”は副題となって)、再版されたのだった。


メキシコでは、クリスマスの前の九日間、毎晩どこかの家で”ポサダ”というパーティーが開かれるのだそうだ。
そのパーティーで、紙粘土でできた大きな張子の”ピニャタ”の中にたくさんのお菓子やくだものを詰めて庭にロープで吊るし、目隠しをした子どもたちが順番に棒を持ってピニャタを割る、という大きな楽しみがあるのだ。

メキシコの(おそらく)裕福な家庭で愛情いっぱいに育つセシという女の子が、お母さんから我が家でもポサダを開きましょう、と言われる。
市場に行ってセシちゃん自身のピニャタを選んでいいと言われて選んだのが、金色に光る大きな星のピニャタだった。
セシちゃんがポサダを迎えるまでの日常を、メキシコの町や、学校、市場の様子、お手伝いさんたちとの交流を確かなデッサン力と豊かなタッチで描いている。
1959年初版というから、きっと当時のメキシコの人々はこんな日々を送っていたのだろうとうかがい知れて楽しい。
メキシコを愛したマリー・ホール・エッツの温かな視線がこの作品の端々に注がれている。




セシちゃんの家の庭で開かれた、待ちに待ったポサダの様子が見開き2ページにわたって丁寧に描かれている箇所がある。表紙にもなっている場面だ。

セシちゃんが市場で選んだ大きな星が、満タンのお菓子を詰めて吊るされているのが見える。
きらきら光って、セシちゃんには「大切なわたしの星」だと思えてしまう。
メキシコの民族衣装を着ておめかしをしたセシちゃんとお友だちが、誇らしげにマリア様、ヨセフ様の人形を持って、ろうそく行列の先頭に立って行進している。
まるでセシちゃんのかわいらしい歌声が聴こえてくるようだ。

仲良しの人形をいつも抱えるはにかみ屋のセシちゃんが、クリスマスの行事を経て一段階、成長する様子もまた微笑ましい。

1960年にコルデコット賞(アメリカ)を受賞している。

コンゴの人々をこんなに優しく豊かに描写する絵本があればなあ。

世界中のキリスト教の町々で行われるクリスマスのイベントを、今年も楽しく想像してみよう。

2012年12月3日月曜日

外村吉之介 少年民藝館



少年民藝館 表紙

前回、「直感こども美術館 プリミティブアートってなあに?」の写真図鑑絵本(?)を紹介した。
だったら、あの本もぜひとも紹介しなければ!、と強く思ったのが、これ!

外村吉之介さんが愛情深い文章でつづる、「少年民藝館」。
1984年初版。用美社からの出版だったが、長い間の品切れを経て、数年前(?)に筑摩書房から再版された。

柚木沙弥郎さんの染め絵の装丁が、ページをめくって広がる、民芸品の素朴な”用の美”の世界を予告してくれるようだ。

やはり、夏の絵本屋で取り上げた本だ。
生活の中でどっかりと生きる、主張のない”ものたち”の美しさを大きなサイズの写真で見せてくれる。
外村吉之介さんは、倉敷、熊本の民藝館を創設し館長も務めたかただそうで、かれの文章にも、生活の中で生き続けてきた”用の美”を温かい目で見つめる姿勢を感じる。

アジア、欧米、アフリカから、食器、染織、玩具などが集められ、外村さんの優しい審美眼で紹介されている。

やはり一家に一冊、老若男女どなたにも楽しんでもらえる本だと思う。



ここで思い出されるのが、デンマークの首都コペンハーゲンにある、デンマーク工芸博物館だ。
数年前にここを訪れた時、さすが家具の国、シンプルな”用の気品”が漂う椅子たちがずらりと展示されていた。
ああ、ここは、生活の中で育まれ、シンプルにそぎ落とされた美しさを見せてくれるところだ、と感動した。
そして、ここには何と、日本の、わたしが小さい頃御用聞きの叔父さんが必ず着けていた、藍色の厚手キャンバス地(?!)の「前掛け」が展示されていた!!
デンマークの人たちは、遠く離れた日本の醤油や酒造会社の前掛けの中にも、”用の美”を見つけていたのだ!


デンマーク工芸博物館 椅子のコーナー

柳宗悦たちが、生活道具に”用の美”を見出し、民藝運動を起こして、わたしたちにもかれらの考えが浸透してきたように思う。
ある時、娘の友人のお茶会の会場に行くと、柳宗悦の書の古い掛け軸があった。
小ぶりの正方形に近い、抹茶色を使った掛け軸だった。
漢詩で表された宗悦さんの書に、「着飾らずありのまま、そのままで茶の一服を楽しむ。」、といった内容が読み取れ、彼の一貫した生きる姿勢を感じたものだ。


さて、今回は、コンゴの太鼓、”MBUNDA”と、マラカスを紹介しようと思う。




コンゴの太鼓、”MBUNDA”



コンゴのマラカス




どちらも、中村寛子シスターがいらしたンガリエマ修道院のお御堂でも礼拝の中で聖歌を歌う時に実際に使われているものだ。
我が家のリビングに置いて目で楽しみ、そしてわたしは鼻歌交じりで、これらアフリカの打楽器で遊んでいる。

2012年11月30日金曜日

直感こども美術館 プリミティブアートってなあに?



西村書店から出版されているこの写真集。
こども、と言わず、老若男女、一家で楽しめる本だと思う。

”Primitive art” を辞書で引いてみると、”原始美術” と記されているが、とんでもない!

まだ、”芸術”という概念がなかったころ、ただかれらの生活の中で使われるものとして作られた”もの”たち、そんなものたちの「用の美」を、アートとして一つのカテゴリーに高めたものを言うのだろうと思う。

この本には、アフリカ、南米、エスキモー、オセアニア、アジアなどの世界の民族の中で生まれ育まれた生活の中のアートが多く紹介されている。
本の最後には、世界地図が載っていて、どこからの作品なのかを知ることもできる。

夏の絵本屋でも取り扱った本で、ひそかに人気のあった本だった。

さて。
キンシャサの我が家のアートを紹介すると・・・。



これは、「SUKU」という両サイドから飲む木製の杯。
コンゴのBandundu州のKahungula村のもので、契約成立、結婚式の契りだけでなく、喧嘩の仲直りのときにもお酒を入れて両口から飲んでめでたし!、めでたし!、というときに使われる杯だと聞く。最長部分12cmほど。



下のマスクは、ピグミー族のもの。
コンゴ、Province Orientale州のEpulu村からだそうだ。
ピグミーのマスクだからか、他の民族のものより小ぶりだ。



ピグミー族面




上の写真は、木製の賢者の像。ハート型の顔が楽しい。
1人の人間に、いくつもの能力が潜んでいることを表しているのだそうだ。
コンゴ、Lehgaからのオブジェだ。高さ27,8cm。
後姿が、ドラえもんに似ていて、なんともいえない愛嬌がある。

以上の3点は、キンシャサの、CENTRE CULTUREL BOBOTO(イエズス会運営のボボト文化センター)内の、ANTIKAというアンティークショップで購入。
この店で扱われるものには、資料を取り出して説明をしてくれるというサービスもある。


下の木製像は、Tetelaから来たもの。
女性の幸せのお守りの像だと聞いた。
ちょっと上向き加減で、真っ直ぐ遠くを見つめる目に幸せ感漂う(?)。
これは、キンシャサのドロボー市場で購入。






上の額に入った織物は、クバ族の草ビロードの織物だ。クバ王国は、コンゴ河の支流、カサイ川とサンクル川に挟まれた逆三角形のなだらかな丘陵地帯に広がっている王国だそうだ。いろいろなパターンの幾何学模様がおもしろい。
キンシャサ、ドイツ人経営の、”SYMPHONIE DES ARTS”店内の、ぼろ布の山から見つけ出して、他店で額装した。


我が家のプリミティブアートを眺めるたびに思い出す、”直感こども美術館 プリミティブアートってなあに?”の本だ。

2012年10月7日日曜日

赤羽のかわいいカフェ

お久しぶりです。
本当にお久しぶりです。

娘のYukiです。
はい。ゼラルダに憧れた少女です。
そんな少女も今年6月に元気な女の子を出産し、お母さんとなりました!笑
南フランスのAntibes(アンティーブ)で親子3人、元気もりもりに過ごしています。



ゼラルダに憧れ、食いしん坊で、だからお料理が好きな私が、可能ならば今すぐにでも行きたい(そして働きたい…笑)カフェをご紹介します!

場所は、去年の夏に絵本屋さんL’éléphant vert(L’éléphant vert~夏の絵本屋~のようす)をOpenしていた場所!

Café l’ange de l’angle(カフェ ランジュ ド ラングル)という名のカフェです。


ホームページもほんわか温かい雰囲気で、今はこのホームページにおじゃまして、カフェにいる気分を味わっています。
http://cafelangedelangle.com/

今年4月にOpenしたばかりだというカフェ。

Menuもどれも美味しそう…
コーヒーももちろん美味しそうですし、FoodやDesertもどれもこれも美味しそう…
ワインやビールも…!


JR赤羽駅からのんびり歩いて5分、東京メトロ赤羽岩淵駅の改札口を出て階段を上ったところからだと歩いて3分もかからない…っといった場所に位置するカフェです。


Café l’ange de l’angleのオーナーの方に、私はまだお会いしたことがないのですが、なんだかすでにお会いしたことがあるような気がしてしまっています。

このカフェにおじゃまできる日が待ち遠しい。なぁ。

良い日曜日となりますように!


***** ***** ***** *****
Café l’ange de l’angle
http://cafelangedelangle.com/

東京都北区赤羽1-28-9
tel. 03 5939 6160

火-土 : 11h00-22h00
日   : 11h00-19h00
定休日 : 月

2012年9月12日水曜日

ゼラルダに憧れた少女



料理を運ぶ少女(後方)がゼラルダ
 

かれこれ20年以上も前に、この絵本、”ゼラルダと人喰い鬼”の主人公、ゼラルダという可愛らしい料理名人に憧れた女の子がいた。

そのゼラルダは、フランス(?)の田舎の農家に父親と二人で暮らし、6歳のころにはすでに一通りの料理を作ることができた。

父親が丹精込めて作った農作物や酪農品を荷車に積んで町へ運ぶ日、父親が病気になってしまい、多分まだ6歳だか7歳だか8歳だかのゼラルダが野を越え山を越えて、売り物たちをいっぱい積んだ荷車を引いて1人で町に向かうことになった。

一方、町では人間でもまだ肉の柔らかく臭みのない子どもを大好物とする人喰い鬼が、子どもをさらって食べるので、親たちは子どもたちを自宅に監禁し、町には人っ子一人姿を見せなくなっていた。

食糧としての子ども達が消えてしまったので、腹を空かせた空恐ろしい顔をした人喰い鬼が、山道を歩いていて小さな女の子、ゼラルダを発見!!
しめたっ!!
久しぶりにおいしい人間の子どもにありつけるぞ!!

ところが、あまりにお腹が空きすぎて脳震盪を起こし気絶した人相最悪の人喰い鬼、とは知らない我らがゼラルダは、あら、かわいそうなおじさんだこと、きっとお腹が空きすぎているんだわ、と可愛らしい誤解をし、荷車の商品を全部使って人喰いおじさんのためにちゃちゃっ、と豪華ご馳走を作り上げた。

世の中に人間の子どもよりうまい、こんな美味しいものがあったのか、と料理をすべて平らげ感動の渦中の人喰いおじさんは、かれのお城にゼラルダとお父さんを、専用料理人として招き入れた。

ゼラルダの作る料理に参ってしまった人喰いおじさんとその仲間たちは、人間の子どもを食べることをすっかり忘れてしまった。

忘れてしまったどころか、あれだけ恐い最悪人相をしていたおじさんがにこにこ顔のおじさんになり、街じゅうにまた溢れ返った子どもたちに、キャンディーまで与えたりして、すっかり平和な町になった。

やったね!でかしたぞ!我らがゼラルダ!!


小さく可愛いゼラルダが作る料理をごらんあれ!!

各料理に番号が付いて、名前の注釈が添えられている

さて。
ゼラルダに憧れた少女はこのページを開いてはうっとり眺め続けていた。
右ページ上の赤いパンプスを履かせられた、”七面鳥の丸焼きシンデレラ風”には特に魅せられたらしく、このページに穴が空くのではないか、と思われるほど、時間さえあれば、というか時間を捻出しては、このページをうっとり眺め続けた。

そうして、ゼラルダもその女の子も、6歳、7歳、8歳・・・・・と歳を重ね、料理名人、に近い(!)、料理大好きな女性となり、ワインが大好きで、ワインに合うおつまみなんかもちゃちゃっと作る女性になった。

ゼラルダは、魅力的な女性に成長し、あの強面の元・人喰いおじさんはとっても良い人になって二人の間に愛が芽生え、ついにかれらは結婚した。
そしてこの絵本の最後のページでは、二人の可愛い男の子と、生まれたばかりのこれまた愛らしい女の赤ちゃんを抱っこした魅力的なゼラルダ母さんと、更にまた幸せ満面、にこにこ笑顔のステキな(元・人喰い鬼)父さんの、こんな幸せ家族がいるのかと羨むくらいの5人家族が一枚のページに収まっている。

ところで。
ゼラルダに憧れ続けた少女も、魅力的な(母は信じている!)女性となり、人は決して食わないけれど、甘いものが大大大好物の、改心後のゼラルダのダンナサマに瓜二つのフランスの男性と出会い、恋が芽生え、結婚し、そして玉のような女の子が生まれ、南フランスのとある町で幸せに暮らしています、とさ。

ゼラルダ一家の次男(?)は、我が妹を美味しそう・・・と見つめていて(背後にフォークとナイフを隠し持っていたりして。)、血は争えない、というか何と言うか・・。
作者のユーモアがまた楽しい最後のオマケ付きだ。

ゼラルダ母さんの料理の腕できっと一家は後々まで末永く幸せに仲良く暮らしたことでしょう。

最後に。
この絵本の表紙に描かれる人喰い鬼、ってこんなに恐い顔をしていたのだ。

ゼラルダと人喰い鬼(トミー・ウンゲラー作 評論社)


この表紙をクリアーし、表紙をめくった者だけが楽しめるとってもファンタスティックな物語。
どうぞ、お楽しみあれ!!

しつこく追伸。
ゼラルダに憧れ続けた女の子。
わたしの料理好きは、母の影響では決してなく、”ゼラルダと人喰い鬼”のゼラルダと、”リーヌスくんのお料理教室”(文化出版局 絶版)のリーヌスくんのお陰なんです、と言っているのだとか。

2012年8月14日火曜日

木槿(むくげ)の咲く庭~隣国を想う

ロンドンオリンピック、男子サッカー3位決定戦、日本ー韓国戦が終了し、韓国の銅メダル獲得が決定した時、韓国の一選手が、「独島は我々の領土」という予め準備されていたメッセージを掲げて、フィールド上を走っている映像を観た。

韓国の人たちの愛国心の強さを改めて強く感じ、日本への強い敵対心にやっぱり・・と悲しく思った。

そしてまた、韓国の選手のように「竹島は我々日本の領土」とメッセージを掲げて主張する日本の若者がいるだろうか、という思いも過ぎった。



26、7年も前のことだが、ネパールの首都カトマンズにいたときの話だ。
隣人は韓国の家族だった。

隣、といっても、塀に囲われていて、塀伝いに路地をぐるっと回って隣家の門に行かなければならなかった。
その路地を2歳にならない娘と散歩していて、よく隣家の二人の兄弟に出会っていた。
6歳と4歳くらいの兄弟で、チュンニイくんとチュンスウくんと言った。
娘は、その兄弟たちに出会うと嬉しそうに後を追って、兄弟たちも娘の手を引いて遊んでくれた。
ある時、お兄ちゃんのほうが、「ネパール人か?」と訪ねてきた。
「 Japanese だよ。」
そう言ったとたん、表情が激変した。
ジャパニ、ジャパニ、と叫んで、遊んでもらおうと追う娘を突いて押し倒したり、娘の首を絞めたり、私が娘をかばって引き返していたら小石を投げられたり、年端のいかない子どもたちにすら日本人を憎む心が存在するのか、と愕然としたことがあった。

それから、兄弟たちは路地に現れなくなった。
何日か経って、娘は彼らを慕って路地に出て彼らを求めて隣家の門をくぐり、庭に入っていった。その時、初めて彼らのお母さんに会った。
わたしは、日本人だと知って態度が変わった兄弟たちの親に会うのが怖かった。きっと彼らの両親も日本人を嫌っているのだろうと思った。
母親はとても礼儀正しい優しい女性だった。
そして、その後出会った父親も紳士的な方だった。
その後、彼らとはとても良い交流を持つことができた。

あのときの幼い兄弟は、今では30歳を過ぎたくらいだと思う。
あのサッカー選手とそんなに歳は違わないはずだ。



一昨年の夏の絵本屋で、「木槿の咲く庭」(新潮社)という本を置いた。


木槿の咲く庭~スンティとテヨルの物語 表紙

 槿(むくげ)は、韓国の国花だそうだ。
この「木槿の咲く庭」は、朝鮮が日本の統治下に置かれていた時代、1940年の創氏改名の時から終戦、開放までの約6年間のことを、テグに住む金(キム)一家の兄弟、10代のスンヒィとテヨルの目線で交互に記される日記形式で進む物語だ。
作者は、リンダ・スー・パーク。1960年生まれの韓国系アメリカ人2世の女性だ。
彼女が両親から聞いた話や体験を元に生み出された物語で、原書は英語で書かれている。

とても重い題材でありながら、一貫して物語には軽やかな風すら感じられる。
子どもの目線で描かれているということと、朝鮮民族として誇りを持って生きようと諭す両親の存在があったからかもしれない。或いは、韓国系アメリカ人2世の作者が一時代置いたクッションの役目を果たしたのかもしれない。

原題は、上の表紙写真左下に青字で書かれている。

"When my name was Keoko   a novel of Korea in World War Ⅱ"
~わたしの名前が清子だったころ  第二次世界大戦中の朝鮮の物語

作者は2作目のこの著書で、2003年度  国連ジェーン・アダムス賞(児童書の平和賞)を受賞している。

厳しい直接的な日本批判の表現は感じないまでも、日本軍の理不尽な要求、態度には目を耳を覆いたくなる。
でも、今に生きる日本人として、日本人が当時、朝鮮半島で行ってきたことを知らなければならないと思う。わたしたちは学校で習わなかったことを、誰からも教えられなかったことを「物語」を通して見なければならないと思う。
「良質の物語」を選んで読みたいし、子どもたちにも読ませたい。

そして、中立の歴史を知って、広い視野を持って、しっかり土台を作って、自分の国を大切にする心を育んでほしい。
もし、間違った史実を主張する人がいたら堂々と訂正できる人、自身の意見をしっかり伝えられる人になりたい。
偏った愛国心ではなく、素直な愛国心は隣国の人たちの愛国心も尊重できるのだと思う。


明日、8月15日は日本では終戦記念日。
隣国では、日本の植民地支配から解放された日として国民の祝日だと聞く。
光を取り戻した日、国権を回復した日、という意味で、”光復節”というのだそうだ。
辛い話だ。


紙は燃やせても、言葉は焼けない。
言葉は封じられても、思いは消せない。
思いを消すために、人を殺すというのか。 (「木槿の咲く庭」より)


お互いを思う気持ちを持てたらなあ。

2012年8月9日木曜日

かさどろぼう

葉っぱの傘 (知人のfacebookから引用)

知人のfacebookで、こんな詩的な写真を見つけた。
タイで撮影されたようだが、出所はよくわからない。

わたしは、なんとも自然な感じで葉っぱの傘を差して歩く男性の、この写真のとりこになってしまった。

この写真からすぐに連想されたのが、絵本「かさどろぼう」(徳間書店)だ。
スリランカのシビル・ウェッタシンハさんの作・絵で、薄緑色のポップな絵の表紙から惹きつけられる絵本だ。
裏表紙の一筆書きのような絵も楽しい。
イギリスの作家・サトクリフの物語の翻訳を手がける猪熊葉子さんの訳も魅力だ。

以前は福武書店から出ていたが、しばらく絶版状態になっていた。そして、徳間書店から復刊され心底ほっとした。


絵本 ”かさどろぼう”の表紙

手元にかさどろぼうの絵本がないから、確かではないが、物語の最初に、葉っぱの傘を差して往来する村の人たちの絵があったように記憶している。まさにこの写真のような人が見開き2ページにいっぱい!という場面だった。(わたしの夢の中の映像かな??だったらお許しください。)

キリママおじさんは、町の人たちが差している傘を見て、村に1本買って帰るのだが、帰り着いて店でコーヒー(セイロン紅茶ではないのね!)を飲んでいる間に傘を誰かに盗まれてしまう。何度買って帰っても、コーヒーを飲んでいる間に傘は無くなってしまう。
盗んでいく者は誰だ?
キリママおじさんは夕焼けの森(モノクロの森にあかね色の夕陽が射すこのページがまたきれい!)に入り込み、とうとうみつけたかさどろぼうの正体は・・・。

森の中の木の枝から枝へ張った蔓植物にカラフルな傘が何十本も掛けられ、一本だけ開いて掛けられた傘にちょこんと座って満足気にニコーっと微笑む森の住人ーアジアだから、おそらくオランウータンの子どもーが描かれたページには思わずこちらもニコーっと微笑み返してしまう。

大らかなキリママおじさんは一本だけ、オランウータンの子どもに傘を残してあげる。
そして、おじさんは村で傘屋を開く。
まったくこの話は、”ぶっそう”なところがかけらもないのだ。

この物語も我が家の子どもたちのお気に入りだった。

力強い筆さばきと、緻密な筆遣いとが同居するシビルさんの絵は独特だ。
キリママおじさんの顔に、日本の奴凧の顔が重なる。

夏の絵本屋では、ガラス作家の廣田理子(ひろたあやこ)さんにお願いして、キリママおじさんのカラフルな傘たちをガラスでイメージしてもらい、ペンダントヘッドやピアスに仕立ててもらった。それらの作品がさらに「かさどろぼう」の世界に連れて行ってくれたように思う。

キンシャサで傘屋さんを見かけたことはない。
今は乾季だから雨は本当に一滴も降らないから、傘の「カ」の字も見かけないし、一年のうちそんな季節が半分もあるのでは商売上がったりだろう。
雨季が始まると、路上に傘売りの人が現れるけれど。

外見を重視する(?)キンシャサの人たちには、素朴な葉っぱの傘なんて考えられない、かな、多分。

2012年8月8日水曜日

タイからのゾウさん


タイ土産のチョコレートの箱
キンシャサの大学で日本語教師をしている慶応大学の学生のボー くんが、夏休みを利用してタイに行ってきた。
お土産です、と言って我が家に持ってきてくれたのが、(上の写真の)箱蓋にゾウの絵が描かれたアーモンドナッツ入りミルクチョコレートだった。
足には”足輪”が、牙にも”牙輪(!)”がはめられて、背中には、タイシルクと思われる布が掛けられている。おしゃれな母娘ゾウかな。タイ王国らしいゾウさんたちだ。

夏の絵本屋さんの名前がゾウだったなと思って選びました、とボーくん。
とっても嬉しかった。

そして、開けてみて感動の極みに!!
15頭ものチビゾウのチョコレートがズラリ~!!、と並んで入っていたのだ。


開けてびっくりタマテバコ~♪

どうしても食べたくなって一個、パクリ!
そうしたら、夫からもパクリ!と食べられてしまった。(あーもったいない・・)


ところで、アジアゾウとアフリカゾウの違いは??

アフリカゾウの耳に比べて、アジアゾウの耳のほうが小さいのだそうだ。
ディズニーの物語「ダンボ」は耳が大きすぎて、仲間たちにいじめられる話だったが、アフリカゾウの耳も大きいのだ。
フランスの絵本、「ぞうのババール」のババールたちも耳が大きい。
アフリカのサバンナに住むゾウたちだ。
娘の描くゾウさんマークも耳が大きいはず。
(と思ったら、フレアー耳になっていた。でもまあ、大きい耳だということにしよう。)

ゾウさんを主人公にした絵本には、「ぞうのババール」(評論社)のシリーズと、「ぐるんぱのようちえん」(福音館)があるなあとか、絵本のことに考えが移っていく。


中央アフリカにいるとき、南西部のコンゴ共和国国境近くのジャングルまで5日間の行程で象を見に行ったことがあった。
バヤンガ、という地域だった。
ジャングルに大きな塩沼地帯が広がっていて、そこへ塩を求めて200頭もの象が集まってきていた。
その沼地に出るまで、徒歩でジャングルをくぐり抜け、小川を渡った。その小川を渡るために出発前に工事用長靴を買って行ったのだが、前日の雨で増水した小川には長靴は”無用の長(!)物”だった。わたしは運転手のジャックおじさんに、娘は夫に、息子は冨永さん(現コンゴ民大使)におんぶされて渡った。
そして、遂にジャングルに広がる沼地にたくさんの象が群らがる光景が目に飛び込んできた時には大感動だった。
子どもたちは覚えているだろうか。

沼地入り口に高さ10mくらいの木製のやぐらが組まれていて、上ってみると、アメリカ人女性がひとりでノートと双眼鏡を手に、象の観察をしていた。
よくもまあ、こんなジャングルの真ん中に独りで棲み付いて象の生態観察を続ける若い女性がいるものだ、と驚いた。
彼女の夫はゴリラの研究者で、国境を越えたコンゴ共和国のジャングルに入ってこれまた独りでゴリラの生態観察を続けていると言っていた。
1993年のことだ。
彼ら夫婦は無線で連絡を取り合っていると言っていた。
中アとコンゴ共和国国境にはジャングルが立ちはだかり往来不可能らしく、二人が出会うにはそれぞれが首都に出て飛行機に乗ってパリ経由だかカメルーン経由でどちらかに行くしかないのだと聞いて、開いた口がふさがらなかった。
そんなにも二人が肩入れする象とゴリラの魅力、っていったい何なのだ??不思議でならなかった。

外見からしてアメリカ人らしい彼女は、象観察やぐらから200mくらいのところに小屋を建てて住み着いていた。独りで、夜は真っ暗なジャングルで、時には象が踏み込んで(多分、大蛇も?!)来るという環境の中で、日がな一日象の観察を続けているのだ。
夫との交信に使う無線機のある小屋も案内してくれた。敷地内には彼女が自身でパンを焼くという大きな石窯が作られていた。自給自足のサバイバル生活だった。
あれから、20年近く。
彼女たち夫婦は、今、どこでどんな活躍をしているのだろう。


ゾウさん型のチョコを頬張りながら、またもやあれこれと思いをめぐらすキンシャサの夜。


人形作家のナンシーさんが作ってプレゼントしてくれた、”みどりのゾウさん”。
東京の自宅に残してきたけど、元気でいるかなあ~。

またいつかの夏に、みどりのゾウさんと共にたくさんのお客さまをお迎えして絵本談議に花を咲かせる日が来ることを、遠く日本を思って楽しく空想している。

2012年8月2日木曜日

赤い目のドラゴン

キノボリトカゲ

これは、キノボリトカゲというのだそうだ。国語辞典によると、琉球諸島に生息するトカゲだそうだ。
わたしのいるコンゴ・キンシャサでもこんなトカゲにあちこちで出会う。

そんな時、決まって思い出すのが、絵本「赤い目のドラゴン」(リンドグレーン作・岩波書店)だ。
1人の女性が(わたしはもちろんリンドグレーンさんを重ねる。)幼い頃の思い出を静かに語る、という形で進む物語だ。

ある日、弟とふたりで豚舎で赤い目をした子どもドラゴンに出会う。このドラゴンは変なものを食べ、いたずらをしたり、すねたりして、「わたしたち」に可愛がられて暮らすのだが、いつものように一日が終わり、温かいベッドが待っている幸せを思う夕暮れ時に、「わたしたち」のドラゴンが涙を流してさよならをし、きれいな夕焼け空の中に飛んで行ってしまう。

「12月2日の夕方のことでした。」
透き通った北欧の夕暮れの冷たい空気の中にいるような感じがしてくる。
スウェーデンの田舎の夕焼けに染まった景色が大きく描かれ、夕陽に向かって飛んでいくドラゴンを見つめる姉弟の、突然の別れの悲しみを共に感じてしまう。

娘が幼稚園に通園していた時、「この絵本を先生が読んでくれてとっても良かったからお家に持って帰ってお母さんと弟と読みたいと思って借りてきたの」、と持って帰ってきたのがこの絵本との出会いだった。
母子で読んでいって見開き2ページの夕焼けの光景の場面を開いた瞬間、わたしは子どもたちの前で大泣きしてしまった。
ドラゴンとの別れの悲しみを夕焼けの光景がとてもよく表していた。
そしてわたしが小さいとき、家族一緒に夕焼けを見ながらよく散歩した思い出が蘇ってきたのだ。
夕焼けの美しさには、どことなく別れの悲しみを感じてしまう。


絵本 ”赤い目のドラゴン”表紙

1995年、この絵本を持って、家族でスウェーデンを旅したことがあった。
ストックホルムのホテルのフロントで、リンドグレーンさんの描く田舎町に行きたいことを話すと、フロント係の若い二人の女性は、リンドグレーンさんの本の大ファンだという日本の母子を大歓迎してくれた。そのときはリンドグレーンさんは高齢ながらも存命だった。
「彼女はわたしたちの誇り!現在も子ども病院を作ったり、教育に関するご意見番でもあるのよ。」 
”わたしたちの大切なおばあちゃん”といった面持ちで誇らしげに話してくれた。

リンドグレーンさんの出身地は遠いから滞在期間にゆとりがあって車がないと無理だから残念だけど今回の旅では無理だわねえ、と言うことで、ストックホルムから列車で1時間のところにある、”ウップサーラ”の町を推薦してくれた。
その町について何の知識もなく、とにかく訪れてみたのだが、ウップサーラ大学と民族資料館と、普通の住宅街の広がるきれいな町だった。
訪れてみて、フロント係のお姉さんたちが勤務中にもかかわらず、あそこでもない、ここでもない、と地図を広げて、リンドグレーンさんの描く雰囲気に似た町を、わたしたちの旅日程に合わせて選んでくれた、彼女たちの「意図」がとてもよく感じられる町だった。


キンシャサで出会うトカゲくんたちは、そんなことも思い出させてくれる。


「わたしは、そのばん、本をよみませんでした。おふとんをすっぽりかぶって、あかい目をしたみどりいろのわたしたちのドラゴンのことをかんがえてなきました。」
わたしにもそんな晩が幼いときにあったなあ・・となんとなく思い出す静かなフレーズだ。

ずっと、きっと、子どものころの心を持ち続けて物語を織っていったリンドグレーンさん。
アフリカに住んでいると、リンドグレーンさんは、北欧の短い夏しか知らない子どもたちに、南国の太陽の下で生きる動物を物語の中でプレゼントしたかったのかもなあ、と思ってしまう。

わたしの大好きな大切な絵本だ。

2012年7月17日火曜日

タンタンも冒険したコンゴ・キンシャサ


この本は、福音館発行のペーパーバック版”タンタンのコンゴ探検”(原題:”TINTIN AU CONGO”)だ。
物語の作者は、ベルギー人のエルジェ(Herge)。
タンタンの冒険シリーズは、ブリュッセルの新聞社の週1回発刊の子ども版の企画として誕生したのだそうだ。
そう、もともとエルジェは新聞記者だったのだ。


タンタンの冒険シリーズは、1929年の”タンタン、ソビエトへ”から、1976年の”タンタンとピカロたち”まで計23冊が、「7歳から77歳まで」をキャッチフレーズに、世界60カ国のそれぞれの言葉で出版されているのだそうだ。

日本では福音館から、そのうちの21冊が出版されている。


”タンタンのコンゴ冒険”が新聞に掲載されたのが1930年。翌年に、シリーズの中では2番目の物語として白黒版で出版されている。

物語は、少年新聞記者タンタンが愛犬スノーウィと共に、ヨーロッパ,北米、南米、アフリカ、インド、中国を駆け回り(残念ながら日本へは来ていない。)、ついには月旅行にも出かけ、その当時の政治や社会状況を反映しているシリーズもの、と言えるのだろう。
構成は、漫画タッチだ。吹き出しを使い、コマ割りが小さくて、絵本というより「漫画」だと思う。

タンタンがコンゴ・キンシャサに来た1930年、というのはコンゴ・キンシャサがまさにベルギーの植民地だった時期だ。当然、物語中でも当時のベルギーの世相を反映した描写が見られる。
登場する黒人たちは、腰蓑(こしみの)をまとっただけ。戦闘場面では槍と盾を持ち、どんぐり眼に分厚い唇で描かれ、何故だかお金持ち黒人マダムは裸足なのに白手袋と毛皮コートを着せられている。アフリカの人たちを愚かで怠け者で低等な人たちとして描写している。

それが理由で、今世紀に入って、イギリスの人権機関から批判を受け、南アフリカ共和国では、公用語の一つ、アフリカーンス語の出版が停止されている。
また、地元のブリュッセルでもコンゴ出身大学生が「植民地主義のプロパガンダだ。」と主張し、出版停止の訴訟を起こす事態を招いた。
また、イギリス、アメリカの書籍チェーン店で、タンタン・コンゴ冒険の本を児童書コーナーから大人向けコーナーに移す現象も起きている。

エルジェ本人は、戦後の1946年にカラーの改訂版が出版された時に、植民地支配に関する部分だけを削除した、ということだ。

英語版では、子ども向けのカラー版が出版されたのは2005年、と新しく、巻頭には、「当時のヨーロッパ人のステレオタイプ的な見方に基づいてアフリカの人々が描かれ、不快に感じる読者もいることでしょう。」というコメントが添えらたらしい。

わたしの手元にある、福音館ペーパーバック版にも、「この本には、2つの問題~① コンゴの人々の描き方、と② 野生動物への野蛮な考え方が含まれている。この本が生まれた時代~植民地全盛の歴史的背景を考慮して読んでいただきたい。そして、タンタンが生きた20世紀の時代変遷を見つめ、人間が犯してきた愚かな行為にも思い至ってほしい。」という添え書きが1ページ目に載っている。

そんな差別表現や描写の問題をひとまず無視して読んでみるとしよう。

コンゴ冒険の物語の冒頭に、タンタンの愛犬スノーウィが犬仲間に、「退屈しのぎに、ライオン狩りでもと思ってさ。」とコンゴ行きのいきさつを語っているように、ライオン狩り、ヒョウ狩り、ゾウ狩りが出てくる。他に、オウム、ワニ、鹿、猿、蛇、サイ、かば、きりん、バッファローも出てきて、アフリカの動物が出てくるたびに子どもたちはタンタンの活躍とともに楽しめると思う。

大きい子どもたちには、もっとアフリカを知るキイワードが目白押しだ。
日本にも昔存在した蚊帳、アフリカ探検と言えば短絡的に描写されるサファリルックとジープ(もう過去の物だが!)、酋長と呪術師、祈りの対象となる木彫りの像、丸木舟も出てくる。


さらに注意深く読むと、当時のアフリカをしっかり描いるなあと感心してしまうものたちが多く登場する。

当時、教会を建て、病院と学校を作って開拓の原動力となった神父様たちキリスト教布教者の存在。
現地の不甲斐無い戦闘隊と対比して「ヨーロッパ仕込みの精鋭揃い軍隊」という触れ込みの軍隊。(先進国の国々は自分たちの国益のために、かれらを操りアフリカの政府を優位に動かしてきた、と言えるのではないか。)
アフリカ探検を阻んできた、河に多く点在する”滝”。(今も、滝が大型船を内陸部までの運航を阻害している。)
「ヨーロッパの有名動物園御用達の密猟プロ」の暗躍。(こういう人たちがいるから、欧米の動物園で珍獣を見学できるということも知ってほしい。また、タンタンが仕留めたゾウの象牙をかついでいる場面も登場する。)
コンゴの最初の探検家・スタンレーのあだ名が、後に植民地の支配体制を総称する言葉となったことも知れる。(ベルギー人にとって、スタンレーさんは馴染みの探検家なのだろう。)
外国人用の豪華ホテルの存在。などなど。


もちろん、現在のコンゴ民主共和国の人々が暮らす町や村には、もはや大型の動物たちはいない。ケニアのサバンナの動物たちが棲むのは、国立公園という保護された地域なのだ。

そして、腰みの姿に槍と盾を持ったアフリカの人にも、もちろん会えない。(この国の首都・キンシャサはビルが林立し交通渋滞甚だしい都会だ。)

ただ、今も蚊が媒体となって発症するマラリアは広く存在し、日本のNGO団体が蚊帳を現地に送ってマラリアでの死亡率を減らそうと活動したり、先進国から武器類が入り込んで(槍や盾では決してない!!)天然資源の採掘権奪還を目的に戦闘を続ける地域が存在し、密猟者たちで動物たちは激減している、という事実は、現在も進行中だ。

タンタンは、大型客船でコンゴ入りし、サバンナに迎えに来たセスナ機でコンゴを飛び立っている。
現在は普通に旅客機が飛び交っているけれども。


アフリカの何十年も前の姿と、現在の姿と。
小さな子どもたちが混同してしまうのは仕方ないが、大きい子どもたち(!)は、どうかしっかり昔と今の線引きをしながらタンタンのコンゴ冒険を楽しんでほしい。


最後に、作家・曽野綾子がアフリカの日本人宣教師を支援しアフリカを訪れた感想を述べている箇所を抜粋する。

「アフリカは強靭な大陸であった。けなした意味でもなく、褒めた意味でもない。ただ、日本的判断を大きく超えた人間の生の闘いが挑み続けられている土地であった。」
(「生きて、生きて、生きて」海竜社刊より)

2012年7月10日火曜日

アフリカの夕暮れ


これは、絵本”だれかが星を見ていた”(アスクミュージック出版)からのものだ。
動物園勤務経験のあるあべ弘士氏の絵には、大雑把なのにしっかりサバンナの動物たちが描けていると感心する。
動物たちの一頭一頭のシルエットが夕陽の雄大さを教えてくれる。
わたしの大好きなアフリカの夕暮れの絵の一つだ。


     辛夷白み夕日の魔法まだとけず

日本の友人から送られてきた俳句(小野はなさん作)の、”夕日の魔法まだとけず”という言葉から中央アフリカ バンギにいた頃、飽きもせず毎夕、西側ベランダから緑濃い熱帯雨林に沈まんとする大きな夕陽に見入っていたことを思い出した。

そのうちに、熱帯雨林が広がる地平線に巨大な夕陽がドロリ、と呑み込まれてゆく様をどうにか表現したいと思うようになり、これは絵では表現できない、そうだ俳句でしか表現できないのだ、と思えて、毎夕、地平線にとろけるように消えてゆく夕陽を前に、紙とペンで格闘しいくつもの句を書いてみたものの、どれとしてぴったりくるものはなかった。

さだまさしの”風に立つライオン”を聴くと、やはりバンギの夕日を思い出す。


バンギは北緯4度くらいにあったから、ほぼ一年中夕方6時前後が日没時間だった。
夕陽がジャングルの丸く広がる地平線に近づくと、さらに真っ赤にトロリとなり、地平線のジャングルが燃えるのではないか!と思えるほど、太陽がドロリと溶けて呑み込まれてゆく。
地平線に太陽の端っこが当たってから上端まですっかり呑み込まれてしまうまでわずか数分だった。それから、ジャングル一体に静寂観が徐々に広がり,と同時に、赤色から赤みがかったむらさき色へ。そしてきれいな透明なむらさき色があたり一帯を制したか、と思ったら、さーっと”墨の一筆”のように黒色が加わり、夜を迎える。
その刻一刻と色彩が変わり、昼から夜へ移っていくひとときを、わたしは毎日見とれていた。


そのむらさき色が広がる瞬間を描いた絵本がある。


”ぼくのだいすきなケニアの村”(BL出版)だ。
今、わたしの手元にこの絵本がないから、その夕暮れの場面を描いたページをお見せできないのが残念だが、表紙に描かれているケニアのある村に住む元気いっぱいの少年が一日の冒険を終え夕暮れ時を家路に急いでいると、遠く我が家の前で少年の母親が立っている。
おかあさーん、と少年が走って、笑顔で腕を広げた母親のふくよかな胸元に帰った瞬間、夕暮れはむらさき色となり、夜を迎えんとするケニアの村だった、という場面がなんとも幸せで、わたしは大好きだ。

今、日本で、夕暮れまで冒険いっぱいめいっぱいの遊びを終えて満足げに家路に戻る子どもたちっているのかなあ、とか思ってしまう。
また逆に、今わたしが住むコンゴ民主共和国の東部で戦闘状態が続く村では、こんな長閑な子どもらしい生活を送って母親に愛情いっぱいに迎えられる子どもたちっているのかなあ、とも思い至る。


さて、もう一つ、夕暮れではないが、夜明けの美しさを描いた絵本も紹介したい。


”よあけ”(福音館)だ。
作者のユリー・シュルビッツは確かポーランド人だ。唐詩”漁翁”(詩人 柳宗元作)をモチーフに描かれた絵本だと聞くが、東洋の文芸・美術に造詣が深い作者の感性が光る。
湖畔で夜を明かすおじいさんと孫の二人が、夜明けと共に湖に船を漕ぎ出す場面の美しさは格別だ。前編、無音のままで読み終わる絵本だ。

まったくの余談だが、学生時代、一夜漬け専門だったわたしは、ラジオ深夜放送を聴きながら徹夜したものだ。深夜0時を回り3時台までは夜中と理解していて余裕なのだが、ラジオ放送も4時になると”おはようございます!”という雰囲気に変わり、そうなると焦りが出始める。そして夜が白み始め、ああとうとう一日が始まった、と心までしらじらした心境になる。

そんな夜から朝の狭間でよくラジオから流れていた中島みゆきの”時代”の、♪廻る廻るよ、時代は廻る♪という歌詞を、わたしは♪周る周る4時台は周る♪と聞き間違って、ああ、4時台が周って、朝が来る~!、と焦りまくっていたことを懐かしく思い出す。

余裕のある時の夜明けは、まさにユリーさんの描く、闇夜から透明なブルーに変わってゆく”よあけ”をわたしは静かに堪能していた。


話をまたアフリカの夕暮れに戻そう。
キンシャサの真っ赤な夕陽は、雄大なコンゴ河に沈んでゆく。
キンシャサはバンギとは赤道を対称軸に真反対の、南緯4度辺りだから、やはり一年を通して日没は夕方6時前後だ。
コンゴ河の十数メートル(と遥か遠くから眺めるわたしにはそう見えるだけだが・・)直上まで来ると、夕陽はコンゴ河の水蒸気に隠されてしまって見えなくなる。
真っ赤な夕陽が地平線に呑み込まれることは決して、ない。

それでも、やっぱり、アフリカの夕暮れは壮大な儀式を思わせる。

2012年4月18日水曜日

”Le Paradis des BONOBOS”~コンゴに棲むボノボたち

ご無沙汰しています。キンシャサから母の寛子です。

キンシャサに着いた今年1月1日。リビングでやれやれ・・とくつろぐわたしに、夫から「ホレッ!」と1冊の本を手渡されたのが、この「Le Paradis des BONOBOS」(Seuil jeuness 刊)だった。
コンゴ民主共和国のしかも限られた4州にしか棲まない、人間に最も近いと言われる類人猿・ボノボの保護のためにNGO活動を展開するフランス人女性(ベルギー人かも)、Claudine Andreさんが監修して出版された本だ。

クロディーヌさんと、彼女たちのグループ、ABC(les Amis des Bonobos au Congo)が運営するサンクチュアリ,”Lola Ya Bonobo"で保護されているボノボたちと一緒に写った写真がこの本をめくると載っている。 当初、ボノボたちのサンクチュアリはキンシャサのアメリカンスクール敷地内にあったが、後にキンシャサ郊外の森を買い取り、ボノボたちがより喜びそうな環境へ移転したそうだ。
”Lola Ya Bonobo"は現地の言葉、リンガラ語だ。フランス語では、”Le Paradis des Bonobos"。まさにボノボの楽園だ。
夫は昨年夏、ボノボの楽園を訪れた時に、売店でこの本を購入。わたしがキンシャサに来たときにプレゼントしようと思って取っておいたのだそうだ。
そして、とうとう、先月、わたしはこの"Lola Ya Bonobo"に行って来た。

水辺が好きで、木々を軽々と飛び移るボノボたちにうってつけの環境だった。ボノボたちは、果物、葉っぱ、木の実、小さな虫たちを食糧とし、狩はせず、とても繊細な平和的な動物だそうだ。地上では、2本足歩行もし、すっきりした体型で、観察していると本当にわたしたち人間に似ている。

この本は、クロディーヌさんへの質問形式での自己紹介で始まる。

彼女の父親がコンゴで獣医さんをしていて子どもの頃コンゴで育ったのだそうだ。そういう環境下にいたから物心ついたときから自然や動物達が身近にいたのだそうだ。4歳の時には1匹の小猿さんと仲良しだったそうだ。

そして、彼女が47歳の時キンシャサの動物園で、両親を食肉用に殺されて衰弱したボノボの孤児を売ろうとしていた人から引き取り、助からないだろうと言われたそのボノボ孤児の命を救った、ということから彼女の闘いが始まった・・・という。


次項から、ボノボの動物学的な位置づけ、ボノボの特徴と絶滅状態にある現状について、ABCが運営する"Lola Ya Bonobo"の案内と役割について、そしていよいよボノボを森へ還す時のことがイラスト入りで分かり易く説明され、最後にこれからの展望~観光に力を入れたら良いこと、若い世代にボノボを知ってもらうためにサンクチュアリに招くことなど~で締めくくられている。


何よりも、人間にいちばん近い類人猿、ボノボの存在を多くの人々に知ってもらい、コンゴ民主共和国の限られた場所にしか生息していず、コンゴ民主共和国の国力が衰退し国民の生活苦からボノボが絶滅の危機に瀕していることなどの実情をPRしてゆくことだろうなあと感じた。


この本には、サンクチュアリで撮影されたボノボの可愛らしい写真がたくさん掲載されているのも魅力だ。


そろそろ、日本ではゴールデンウィークの話題が出始めるころだろう。そのころから、わたしは「夏の絵本屋」の準備に本格的にとりかかっていた。

昨夏は、レイチェル・カーソン著「センス・オブ・ワンダー」を下地にした選書だった。

今夏は、残念ながらコンゴにいるから見送りだ。

もし、「夏の絵本屋」を今夏も開店できていたら、間違いなくこの「Le Paradis des BONOBOS」の本を紹介するのになあ。

ぜひ、皆さんにコンゴに棲むボノボたちのことを知ってもらいたい。

2012年4月10日火曜日

夏の絵本屋さん~過去の案内ハガキ

娘のYukiです。

写真を整理していたら、2009年~2011年の3回の夏にOpenしたL’éléphant vert(緑のゾウの絵本屋さん)の案内ハガキが出てきました。

知り合いのデザイナーの方が快くデザインを引き受けてくださり、こんなにかわいい案内ハガキを作ってくださった時は感動しました!

                          17~30.08.2009 L’éléphant vert

                          01~29.08.2010 L’éléphant vert

2011年の案内ハガキはお人形作家でいらっしゃるNancy Scarletさんが手がけてくださいました。


 03~30.08.2012 L’éléphant vert


この”タコみたい…”とも言われてしまう(笑)ゾウは、私が中学の頃から良くノートや至る所に落書きしていたゾウさんです。
小学生の頃に住んでいた中央アフリカ共和国で、ピグミー族の案内のもと、森の中に住む野生のゾウを見に行ってからゾウが好きになりました!懐かしい思い出の1つです。



母の夢である絵本屋さんを、毎年たくさんの方々がご協力くださって、L’éléphant vert(緑のゾウの絵本屋さん)として開催できていたのだなぁっと、写真を見ながら改めてしみじみ感じました。

また次回、今までのL’éléphant vertの様子を写真を交えてお伝えしたいなぁっと思っています!

懐かしい絵本を発見!

娘のYukiです。

先日、私の住む町、Antibes(アンティーブ)の図書館に行った際、懐かしい絵本を発見しました。
『雨、あめ』(作・絵:ピーター・スピア/出版社:評論社)


フランス語でのタイトルは、直訳すると、『雨が降っているよ』(?)になるのでしょうか。
この絵本は、字のない絵本。
雨の日が好きになる絵本です!

フランスで、幼い頃よく読んでいた(眺めていた!?)絵本と出会うと、懐かしさからホッとした気持ちになります。

アンティーブの図書館は、近代的な巨大な建物で、内装も茶系の木造建築でモダンで落ち着く空間。
絵本コーナーも充実していて、赤い椅子がかわいらしい居心地の良い空間です。

まだアンティーブの図書館には数回しか足を運んだことがないのですが、また懐かしい絵本との再会、そして新しい絵本との出会いが今から楽しみです。

2012年2月2日木曜日

フランスの小さな町の図書館

娘のYukiです。

日本と同じく、こちらフランスも、全国各地で冷え込みが激しく、パリは日中でも氷点下だとか。
私のいる南フランスも、珍しく寒さが続いています。
全国各地が悪天候でも、ここだけなぜかお天気が良いのが自慢~!っと良く耳にするのですが、さすがに週末から週明けにかけて、雨降りの日々が続きました。
昨日今日は清々しい晴天です!

さてさて、先週まで夫の実家のあるアルプス山脈のふもとの町、Saint Jean de Maurienne(サンジャン・ド・モリエーヌ)に滞在していたのですが、ここが本当に田舎町!
町中の人が知り合いっといっても過言ではないくらい。
「あらまぁ!あなたTOKYOから来たの~!?退屈でしょ、この町だったらぁ~。」
なんてことをしばしば言われていましたが、「はい、退屈な町です!」なんて返事ができる訳もなく…笑

小さな町だけれど、お気に入りの場所ができました!
図書館!です。
小さな町だけれど、立派なモダンな2階建ての図書館。
広々していて、大人向けの本の数の少なさが益々目立ってしまっているのですが、子供向けの本や絵本は充実しています!
雰囲気もかわいいし、お昼過ぎの人が少なそうな時間帯にここでのんびりするのがお気に入りでした。
お昼過ぎはほぼ貸切状態!
午前中は、かわいらしい生意気そうなおしゃまな幼稚園生が先生に引き連れられてどばぁぁぁ~~~うじゃうじゃ~~~っといて、ちょっと居場所がなくなってしまうので…笑
チビちゃん達に混ざって絵本を読むのも楽しいのですが!


予定のない日はこの図書館に行き、絵本を読んだり、勉強コーナーの日差しの入る窓際の机で書き物をしたり。
絵本コーナーに散りばめてある色とりどりの様々な形のスポンジの椅子に、不安定な状態を上手にコントロールしながら(大人用ではないのは確実…)、たくさんの絵本を読みました。

Laure Igami(ロール・イガミ)という題名の絵本は不思議な絵本でした。
ロール・イガミという日本の紙(和紙のことでしょうか)でできた女の子のお話。
ぺランと薄っぺらい紙でできたロールちゃんは、本棚で退屈のあまり、ある日旅に出る~というお話です。
なぜ日本の紙なんだろ…。不思議な名前だし、不思議な絵だけれど、印象的な絵本でした!



今私がいる南フランスにあるAntibes(アンティーブ)の町にも、大きな近代的な建物の立派な図書館があります。
ここは本、絵本、雑誌、CD、DVDと様々な文献や書物が充実しています。
絵本コーナーは木材と赤が内装のポイントとなっている温かい空間。
また絵本をご紹介しますね!
こっそり写真も撮れたら一緒にご紹介しますね!
(サンジャン・ド・モリエーヌの図書館は貸切状態で撮影し放題!でしたが。)

2012年1月15日日曜日

ゴリコちゃん緊急手術

ご無沙汰しております。
娘のYukiです。

年末のとある夜のこと。
町中が眠りにつこうとしている頃…
事件は起こりました。

「きょぉわぁぁぁぁ~~~~!!!おぉぉぉ~~~!」
なんとも言えない叫びが聞こえてきました。

夫の叫びです。


何事かと思って、叫び声のする寝室へ行ってみると…
なんとも悲しい表情をした夫がおろおろとゴリコちゃんを抱いていました。


ゴリコちゃん。
昨年夏のみどりのゾウの絵本屋さん(L'ELEPHANT VERT)にお越し頂いた方は、この愛くるしいゴリコちゃんとご対面した方もいらっしゃるかもしれません。
ゴリコちゃんは絵本屋さんで人気者でした。
人形作家さんが手作りしたパペット人形、ゴリコちゃん。
以前、母のブログ記事にも書いてあった通り、私達の養女となり、ここフランスまで一緒に来ました。

そんな私達の養女のゴリコちゃんに事件は起きました。
ゴリコちゃんの愛くるしい足の指がポロリッっと取れてしまったのです。



夫は、「おぉぉぉ…」 なんとも悲しい表情…
どうやら、寝る前のひと時、ゴリコちゃんとじゃれあっていたらポロリッっと指が取れたらしい。
ゴリコちゃんには申し訳ないけれど、そんな様子を目前に、私は大爆笑してしまいました。
「おぉぉぉ…大変だぁ…どしよ…」 相変わらずおろおろしている夫。

背の高い夫は…お猿さんみたいだから…同類のゴリコちゃんに起きたただならぬ事件に動揺してしまったのでしょう。


ゴリコちゃん緊急手術。
「私にまかせとけぃっ!」
夫の見守る中、無事に手術は終了しました。

2012年1月3日火曜日

アイルランドの浦島太郎

成田からパリに向かう機内で、アイルランド出身の29歳の青年ポールさんと隣り合わせになりました。
彼が隣席に座った時、村上春樹の英書と日本語の漫画本を携帯していたので期待感がありましたが、予感通りの気さくな好青年でした。
ほとんど日本語で会話できたのもラッキーでした。
ポールさんは現在、ダブリン大学で留学生の研修に携わる仕事をしていて、以前は大阪の高校でAETとして働いていたのだそうです。
今回、日本へはプライベート旅行で、大阪の知人を訪ねて日光を周ったのだと満足した表情で話していました。
あなたはコンゴで何をしたいですか、と問われて、コンゴの民話を集めたいなあと話すと、それはおもしろそうです、どこの国にも昔から伝わる話がありますからね、と言って、アイルランドに伝わる話を一つ教えてくれました。
彼は、アイルランドにも浦島太郎にそっくりな話があるのですよ、と話し始めました。
浦島の太郎さんは助けた亀の背中に乗って海の中の竜宮城へ連れて行かれたけど、アイルランド
の太郎さん(名前聞くのを忘れた!)は、助けた馬の背中に乗って海に浮かぶ島に連れて行かれて厚遇されたのだそうです。おもしろ楽しく、月日の経つのも夢の内・・・おいとまを告げて彼の故郷に帰ってみると知らない人ばかり。玉手箱を持たされたのかは聞かなかったけど、島で過ごした数日間は実は何十年もの時間で、彼はハッと気づくとおじいさんになっていました、という話なのだそうです。
彼は大阪の高校でこの昔話を題材に英語の授業をしたのだそうです。
話は逸れますが、わたしは浦島太郎の話と、40年以上も前に流行ったフォークソング「帰ってきたヨッパライ」とそっくりだと思うのです。
浦島太郎は亀に乗って酔っ払い運転をし、はっと気づくと竜宮城という天国にいて、♪天国良いとこ一度はおいで♪酒は美味いしネエチャンはきれいだ♪んっわ、んっわ、んっわっわあ~♪
みたいな。重なると思うんだけどなああ・・・。
ま、そんなような愉快な話、賢者の話、いろいろ聴いて集められたらなあ。
さて、そのポールさん。日本のお正月のおせち料理もお屠蘇も経験ないのだそうです。
わたしたちが日本に戻ったら今度は日本の正月を楽しむために日本にいらっしゃいな、と再会を約束しました。
わたしたちもいつかダブリンを訪ねてもみたい。
あ、そうだ。
わたしが、「我が家にはアイリッシュハープがあってね。日本のICU大学でアイリッシュハープの講習をするレベッカさん夫妻から購入したのよ。」と言うととても喜んで、アイルランドのユーロ硬貨のデザインはアイリッシュハープが使われているんだよと教えてくれました。
見てみたいなあ、そのアイリッシュハープのユーロ硬貨を!