2017年12月19日火曜日

NHKカルチャーラジオ 「大人が味わうスウェーデン児童文学」

10月から3か月間、スウェーデン語翻訳家の菱木晃子さんの案内で、「大人が味わうスウェーデン児童文学」という講座が始まった。
”大人が味わう”、という言葉からも分かるように、菱木晃子さんの解説がなんとも温かく、人生を幾分たりとも長めに生きてきたわたしたちだからこそより深く理解できるでしょう~という視点がうれしく、おもしろい。

カルチャーラジオのテキスト
まずは、スウェーデンの児童文学の下地になっている、北欧神話、民話から入っていった。

そして、「ニルスのふしぎな旅」。
この物語が生まれた興味深い背景を知り、また改めて読んでみたい!、と強く思った。
漫画家、文筆家のヤマザキマリさんも愛してやまない「ニルスのふしぎな旅」。
この物語の魅力を別な角度から知ったように思う。

さらに、絵本「三人のおばさん」を通して見る、絵本作家、エルサ・ベスコフさんの生い立ち、教育観。かのじょも幸せな満ち足りた子ども時代を過ごしたからこそ、美しく物語を創作することのできた絵本作家だったのだ。

次に、待ちに待った我らがアストリッド・リンドグレーンさんの登場。
「長くつ下のピッピ」、「さすらいの孤児ラスムス」、「はるかな国の兄弟」の三作品を通して解説される。
菱木晃子さんも語るように、リンドグレーン作品には、大きく二つのグループに分けられると思う。
一つは、現実の場所を舞台にして、子どもたちの冒険や日常生活を明るく快活に描いたもの。もう一つは、空想の世界で物悲しくも壮大で神秘的に描いたもの。
どの物語の中にも、リンドグレーンさんの子どもたちへのまなざしの優しいことをひしと感じる。
リンドグレーンさんは、「あそんであそんで、あそび死にしないのが不思議なくらいあそんだ子ども時代だった。」と表現(菱木晃子さん訳のすばらしいこと!)するくらい、大人に見守られながら幸せな子ども時代を送り、それがどんなにか人生を送る中で大切なことだったのか、に思い至る、と言っている。

最後の月は、1980年代後半から約20年間にわたるスウェーデン児童文学の第三次黄金期だと菱木晃子さんが位置づける、ポスト・リンドグレーン時代の幕開けに出版された物語について語られる。
リンドグレーン作品を読んで育った世代が作家となり、また、スウェーデンにおける家族形態の変化も見られる中で発表されていった作品の数々。
この時代のうねりの中にもしっかりと受け継がれている、子どもたちへの温かいまなざしとエールが感じられると解説されている。
菱木さんのいう、「子どもの人格を尊重し、一人ひとりの個性を大切にしようとする」スウェーデン人の考え方。べスコフ、リンドグレーンから繋がっていく精神を感じる。

その中で、先週は、「ステフィとネッリの物語」が取り上げられた。
スウェーデン第2の都市、イェーテボリのユダヤ人家庭に育ったアニカ・トールによる物語だ。
第二次世界大戦前、ウィーンからイェーテボリ沖の小さな島に引き取られたユダヤ人姉妹が主人公で、1996年にアニカ・トールのデビュー作として、まず「海の島」が出版されている。
ステフィは12歳、ネッリは7歳。その後さらに彼女たちの物語は3冊編まれ、1999年に四部作「ステフィとネッリの物語」が完結する。
こんな出来事が第二次大戦中にスウェーデンの小さな島で起こっていたなんて。
かれらが過ごした6年間のスウェーデンの島での生活は、思春期にあたるステフィと、まだ幼く人生の大半を気持ちの上ではスウェーデン人として生きたネッリの、それぞれの成長物語でもある。
菱木さんは、「10代から、その親の時代、そして、第二次世界大戦を経験した世代、と三代にわたる幅広い読書層を獲得した。」と語っている。(著者自身の脚本で、スウェーデン国内ではテレビドラマにもなったそうだ。)
最後は、慣れ親しんだスウェーデンの島を離れて、実父と共にアメリカに行く決心をした姉妹が、島の人々と別れ出帆する場面で終わる。
辛い別れがあってこそ、次の舞台へ移れるんだという現実にわたしも共に向き合って、かれらの幸せを心から願ってページを閉じたことを思い出す。

菱木晃子さん案内の講座もあと2回を残すのみ。
最後は、スウェーデン児童文学の第三次黄金期の男性作家ウルフ・スタルクの二つの作品を取り上げるそうだ。
最期まで、目が(耳が!)離せない。
わたしは菱木さんの訳が大好きだったが、かのじょの温かい語り口に、ますます大ファンになってしまった!
いつか、いつか、お会いできますように。
楽しい、「大人が味わうスウェーデン児童文学」世界へのご案内をありがとうございました。

2017年10月23日月曜日

物語 ”ちいさな国で”

1990年代のブルンジが舞台になった物語を読んだ。


著者は、ガエル・ファイユ。
1982年にブルンジ共和国でフランス人の父と、ルワンダ難民の母との間に生まれ、2009年にフランスへ移住。ミュージシャンとして活躍しながら、本書で作家デビュー。このデビュー作で、高校生が選ぶゴングール賞、FNAC小説賞を受賞している。

コンゴ民主共和国の東側に、北からウガンダ、ルワンダ、ブルンジと3つの小国が並ぶ。
その南端の、タンガニーカ湖に面し、反対側にはタンザニアと国境を接する小国、ブルンジ共和国が舞台になっている。

ブルンジで政変が起こったのが1993年で、11歳の主人公ギャビーは、父親(母親とは別居している)と妹と3人で首都のブジュンブラの、とある袋道にある一軒家に住んでいて、いたずら仲間や近所の人々(その袋道の隣人のギリシャ人女性から主人公は読書の楽しみを教えてもらう。)と幸せに暮らしていたが、政変を境に生活は少しずつ崩れていく。

1994年、隣国ルワンダでツチ族の大虐殺が始まった。
行方不明になっていた母親が変わり果てた姿で帰ってきた。

そして、ブジュンブラも紛争状態となり、物語の中では、主人公兄妹は二人だけでフランスへ発つ。

20年の年月を経て、主人公のギャビーは懐かしいブジュンブラの袋道に帰ってくる。
いたずら仲間だったアルマンと再会し、地区の一杯飲み屋で旧交を温めるが、お互いに古傷には触れない。優しい時間。
ギャビーは旧友に、読書の楽しみをおしえてくれた女性の残した蔵書を引き取るためにブジュンブラに帰ってきたことを告白する。
そして、旧友と再会した飲み屋で、さらに衝撃的な再会を果たすのだ。
その場面でこの物語は幕を下ろす。

この物語は、母親がツチ族ではあるが、ブルンジ共和国で過ごした幸せな少年時代を過ごした少年の思い起こす話が骨格として進むだけに、ツチ族の大虐殺後に起きる、人々の心の精神崩壊の悲惨さがとてもショッキングにあぶり出される。

当時のルワンダに住み、大人のツチ族自身の女性が隠遁生活を綴った、「生かされて」という本を思い出した。日本で2006年10月に初版が発行された本だ。




この「ちいさな国で」。
著者、ガエル・ファイユの自伝的小説とされる。
美しい詩的な表現力は、袋道の隣人、ギリシャ人女性の蔵書で培ったものなのだろう。
主人公がブジュンブラの住み慣れた袋道を出発するときに、女性が、時間がないからと、彼女の本のページを破って一篇の詩を渡す。わたしの思い出に、ここに書かれている言葉を胸にとどめておいて、いつかこの詩の意味がわかるはず、と。

訳者のあとがきで、著者が持つ、文体の独特なリズム感~アフリカならではのユニークな表現や喩えを、心地よいリズムを刻みながら淀みなく繰り返される見事な文章に、フランス本国で大人気の、かれのラッパー&スラマーとしての本領発揮だと大絶賛している。

平和だった少年時代の思い出話があって、それ故に、大虐殺がもたらす陰が凄みを与える。
余韻の残る物語だ。
2017年6月、日本で初版発行。早川書房から。

2017年9月19日火曜日

アーサー・ビナード ”ここが家だ”~ベン・ジャーンの第五福竜丸

先週の土曜日、赤羽の青猫書房でのアーサー・ビナードさんの講演に参加した。
かれは50歳くらい?のアメリカ人。来日して日本語を習得し、今では、執筆も日本語で行っている。いわむらかずお著の”14匹ねずみ一家シリーズ”の英訳もしているのだそうだ。

わたしは、アーサー・ビナードさん、と聞いて、ベン・ジャーンさんの絵とともに著した”ここが家だ”を懐かしく思い出した。


”ここが家だ”~ベン・ジャーンの第五福竜丸 表紙

わたしが最後に開いた、2011年の夏の絵本屋~”センス・オブ・ワンダー”を囲んで、の時に取り上げた書籍のうちの一冊だった。
2011年3月11日の東北大震災で、まだまだ混乱状態の続く日本に暮らし、未来を支える子どもたちと共に自然の現象に身を置き、目を凝らし、不思議だなあ、きれいだなあ、と感動する心を持って生きていきたい。そんな絵本や、物語、詩集を選書してみようと思っての、「2011年・夏の絵本屋」だった。

”ここが家だ”は、画家ベン・ジャーンさんが描いた、第五福竜丸のビキニ環礁での水爆実験被ばく前後の乗組員の一連の絵と共に、かれらの記録を記した物語だ。
ビキニ環礁で超極秘裏に行われたアメリカによる水爆実験。
世界中で、Happy dragon という名で知られる悲劇の第五福竜丸の乗組員たちにふりかかった思いもしない出来事。
現在、どこかの町でこの船が展示されて、水爆の恐ろしさをひそかに伝えていると聞く。

わたしは、ずっと、この第五福竜丸の乗組員の悲劇、不運を、悲しみを持って見てきた。
でも。
アーサー・ビナードさんは、かれらは、勇敢なすばらしい行動を示した人たちだったのだ、と言い切った。
確かに、漁業操業中に期せずして被ばくした乗組員たちは、悲劇の不運な人たちではあったが、かれらはそれだけで終わらなかったのだ、と。

世界一を誇るアメリカの軍隊!水爆実験も超極秘裏に進められ決行され、終結される予定だった。
その、実験の海域で操業していた第五福竜丸。船長の久保田さんはじめ乗組員たちは、西に太陽のように光るものを見たのだった。
西に昇る太陽はない、とすぐに異変を察知した久保田さんは、第二次大戦中、スパイとしての任務も併せ持って漁船の操業に従事していたという経験の持ち主だったのだ。
ぴかっと光って嵐のような天候に激変したことにさらに異様なものを感じた久保田さんは、とにかく、アメリカの無線機器のレーダーに第五福竜丸の存在を感知させたら一貫の終わりだと直感。大戦中、スパイの任務も併せ持って操業していた漁船が、無線レーダーから突然消え、消息を絶つという異様な経験を何度もしていた。とにかく、アメリカ軍がビキニ環礁海域に日本の漁船がいるとレーダーが感知することを回避すること。そのために日本に第五福竜丸から無線を発信してこの異変を知らせることを禁止し、万が一、アメリカ軍が第五福竜丸の存在を感知して尾行が始まり、これで最後だと思ったときにのみ海上保安庁に交信する、これは最後の発信になる、と覚悟した。
乗組員は、嵐のように吹き荒れる海に瓶を入れ、いくつもサンプルを集めたとも聞く。
そして、すぐに母港の焼津に向かって最短の航海コースを取るとそれこそアメリカ軍の思うつぼだ、ともかく、ビキニ環礁海域から早く逃れることだと決断し、コースを真北に取り、アメリカ軍の無線海域からの脱出を図った。
そして、第五福竜丸が焼津港に近づいたとき、折しも、焼津港は捕獲した漁船の水揚げ最盛時刻だと知った久保田船長は、沖で待機し、その時間を避けて入港。
航海途中で、すでに乗組員たちは体調に異変をきたしていた。
入港後、船長はじめ乗組員たちは、海上保安庁にすぐにビキニ環礁で見たことを知らせ、サンプルを渡し、病院へ搬送された。

乗組員たちは、その後、悲惨な状態で亡くなった。
しかし、かれらの取った行動が、アメリカの水爆実験の悪行を世に知らしめたのだった。
水爆は、広島や長崎の原爆の比ではないものすごい威力を持っているという。

アーサー・ビナードさんは、幼い頃、自宅にあったベン・ジャーンさんの描く第五福竜丸の画集を傍に育ったのだそうだ。ビナードさんの父親の蔵書だったとか。
そうして、ベン・ジャーンさんの絵と共に、第五福竜丸の乗組員たちのことを描いてみようと思ったのだった。

アーサー・ビナードさんは、世界で最初に原爆投下された広島に家族と共に住み、世界の原子力を使った地球上の悪行を見つめている。

彼は言った。
世の中に出回る情報は、すべて操作されている、と。
政府、企業などの都合の良いように変えられ、表現方法でいかようにでも変えられるのだと。
第五福竜丸の被ばくについても、日本政府は、乗組員たちが取った勇気ある行動、残したデータを封印?し、アメリカの悪行をおおっぴらには暴いていないし、批難さえもしていない。

個人個人がしっかり見る目を持って生きて行かなければと改めて思った講演だった。

センス・オブ・ワンダー。
不思議だなあ、どうしてだろう、きれいだなあ、おかしいぞ。
心を持って生きていきたい。

2017年7月31日月曜日

星の王子さまと、サハラ砂漠~サンテグジュペリ命日に寄せて

 「星の王子さま」に初めて出会ったのは、わたしが10歳の時だった。

小さいながらも、挿し絵の下手さぐあいに親しみを覚え、内容をどこまで理解していたのか疑問だが、繰り返し読んで楽しんだ物語だった。
何度読んでもつかみどころのない、不思議な想いで読み終えていたのを覚えている。それでも、読み返していた。
フランスのアントワーヌ・ド・サンテグジュペリ作の物語だ。
岩波書店の、内藤濯さん訳のテグジュペリさんの「星の王子さま」の本が、我が家には愛蔵版も含めて数冊、ある。
もうじき還暦を迎えるこの歳になっても、いまだ読み返しているのだった。


星の王子さま (岩波書店)


大人になったある時、序文に見つけたフレーズがわたしの心に響いた。

”おとなはだれもはじめは子どもだった。しかし、そのことを忘れずにいるおとなは、いくらもいない。”

訳者の内藤濯さんは、この序文の冒頭部分に感動して訳に取りかかったと聞いた。
濯さん、70歳のときだったそうだ。

わたしが仲間たちと開いていた夏だけの絵本屋で、この序文と、レイチェル・カーソン著「センス・オブ・ワンダー」を礎に、「子どもと、子どもの心を忘れずにいるおとなのために」という思いを胸に、絵本や物語、詩集、写真集を選書して本屋に並べたことを懐かしく思い出す。

話は逸れるが、訳者の濯さんは、「まず、声の言葉があっての文字の言葉である」と言って、言葉の響き、リズム、音楽性を大切にする方だったとも聞く。
「星の王子さま」を日本で出版するにあたり、「この原文の美しいリズムを訳文に活かせるのは内藤のほかにありません。」と、訳者として白羽の矢が立ったのが濯さんだったそうだ。

(シューベルトの子守歌~ねむれねむれ母の胸に~も、なんと濯さんの訳だった!)
(もう一つ。”洗濯”の濯だから、わたしはしばらくの間、”ないとう たく”さんと読んでいた。ところが、”あろう”さんだったことを、大人になって知った。仏語の”Hello!”~アロウ~「やあ、こんにちは!」。わあ、すごい、音が同じだ!目を輝かせた日をこれまた懐かしく思い出す。あろうさん、がペンネームだったのか、あるいは本名で、それが、仏文学者の道を歩むことになったのか??想像を膨らますのだった。)

さて。話をもどして。
濯さんは、仏語の原文を一節ずつ彼自身が読み上げ、それを日本語にしたものをまた声に出し、編集者が書き上げ読み上げる。読み上げるときは、「ふつうの話し方で読んでください。思い入れなどはしないでください。」と注文が付いて、口述で翻訳作業に当たったのだとか。

わたしは、原文で通読したことはないが、サンテグジュペリさんの仏語文は本当に美しい流れ、言葉遣いなのだろうと想像できる。
息子の母校、暁星学園では第一外国語に仏語を選択すると、ある学年になると、「星の王子さま」を教材として読むと聞いて深く納得するのだった。

「星の王子さま」初版は、1943年4月6日、アメリカの出版社からだった。
王子さまとテグジュペリさんが別れて6年後に書かれたものだと設定されている。

その後、1944年7月31日にかれの操縦する飛行機がマルセイユ沖で消息を絶つ。
今日は、テグジュペリさんの命日だ。


わたしは、パリから夜行便でアフリカに向かう度に、または反対にアフリカからパリに向かう夜行便でいつも楽しみにしていたのが、サハラ砂漠上空を飛ぶことだった。
それは、月夜の晩でなければならないのだが。
青い、海の底のような砂漠が静かに横たわる月夜。
じっと見下ろしていると、確かにテグジュペリさんと星の王子さまが話し込んでいる姿が見えてくる。

あ、いたいた!
王子さまぁ!
テグジュペリさぁん!

楽しい想像だった。

もしかしたら、もうこのサハラ砂漠上空を飛ぶことは人生で最後かもしれない、とキンシャサから意気込んで乗り込んだ6月4日のパリに向かう夜行便で。
せっかくの月夜の晩だったのに、わたしの席は機体ど真ん中の席だった。
機体の前列から最後列まで、窓側の席はどこも満席だった。
しかも、機体最後尾の窓も堅く閉じられていた。
サハラ砂漠を見ることも、かれらに再会することもできなかった。
もしかしたら人生ラストチャンスだったかもしれないフライト。

そして、早朝のパリで乗り継いで、娘一家の住む町を目指して降り立ったところが、リヨン・サンテグジュペリ空港だった。
テグジュペリさんの故郷、リヨン。
大きく、空港の窓ガラスの描かれた星の王子さまがわたしを優しく(!)迎えてくれた。

さらに。
帰国して、友人たちとの再会パーティーで隣り合った写真家、大塚雅貴さんが、かばんから出してきたものが、なんと!


写真集「SAHARA」


写真集「SAHARA」!
もちろん、その場で大塚さんに譲ってもらった。
かれが10年、20年?の長い期間をかけて撮りためた、サハラ砂漠のいろいろな表情の写真たち。
国にしたら・・・北は、アルジェリア、リビアからモーリタニア、マリ、ニジェール、・・・、現在では、立ち入ることもできない区域もあるそうだ。



写真集「SAHARA」より


「星の王子さま」。

星の王子さまは、子ども心が残っていたテグジュペリさんの分身だったのかな。
テグジュペリさんの心の葛藤が分身として現れたのかな。
不時着したテグジュペリさんと、小さな星から降り立った王子さまが寓話のように砂漠で出会って、たわいもない対話をする、というだけの、そのまま、ありのままの物語として読んでいいのかな。
二人の最期も不思議な結末だ。
分身だったのか。
星から舞い降りてきた王子さまと二人だけの世界で出会った話なのか。

わたしは、子どもだった頃の心のままに、この物語に添っていたい。


2017年5月25日木曜日

上智大学で開催中の”Africa Week2017”

上智大学「Africa Week」のポスター(馬野晶子氏facebookより)

娘の母校、上智大学で、「Africa Week」と題されて、アフリカを多方面から捉えて見つめてみようという企画が、5月22日から26日まで開催中だという。
なんとうれしい企画だろう!

その中に、「アフリカの子どもたちと文学」と題された企画を見つけた。
残念なことに、この企画は23日の17:00~18:30に開催され、すでに終了している。

「本企画では、アフリカ各地に広がる豊かな民話について、特に絵本を中心に西アフリカの児童文学を紹介します。」と書かれていて、文学部フランス文学科の学生有志によるカメルーンの民間伝承をフランス語で語る(日本語字幕あり)というプログラムも用意されていたのだそうだ。
また、会場では、アフリカの絵本や絵画の展示も行われる(期間中の展示?)と紹介されている。
主催は、上智大学教育イノベーションプログラム。

特に気になったのは、アフリカ文学研究者の村田はるせ氏による「アフリカの絵本ってどんなの?」と題された講演だ。わたしの記憶に間違いがなければ、村瀬氏は西アフリカのベナンの児童文学を中心にアフリカ児童文学を研究しているかただ。
わたしも聴きたかったな。
わたしの名前の”Iroko”~イロコの木も登場するというベナンの物語についても質問したかったな。

"La Perruche, L'iroko et Le chasseur"~「 インコとイロコと狩人」表紙

アフリカのほとんどの部族が独特の書き言葉を持たない中、旧宗主国の言葉である英語やフランス語が公用語として用いられていて、さらに口承文学と言われるアフリカで、どのように絵本や物語が出版されているのか。現状を知りたいと思う。

コンゴ民主共和国の児童文学の出版状況は貧弱なもので、わたしたちがキンシャサ生活を始めた2012年のころはキリスト教の出版社のパウロ社の出版物を見かけたくらいだった。

2012年当時のパウロ出版キンシャサの本屋内

その後、パウロ書店はごみごみした商店街の一画に移転し、売り場面積も縮小してしまったが、地元の人々の住む地域で、小さいながらもいくつかのパウロ書店が活動しているのを見かけてはホッとしたりしている。
また、6月30日通りに面したところに(2014年だったか)大きな本屋も開店した。
”LIVRES POUR LES GRANDS LACS”(湖水地方の本屋、と訳すのか) というコンゴ民主共和国の本屋だ。キンシャサに2店舗、Bukavu、Kinduにそれぞれ1店舗の計4店舗を構えているのだそうだ。
でも、児童文学のことを訊くと、3,4冊を出してきて、漫画っぽいもの、戦争のような戦ものの内容のもので、がっかりしてしまった。
下の写真は、先週、コンゴの地図を探すために訪ねたLes Grands Lacs本屋の店内の様子だ。


”LIBRES POUR LES GRANDS LACS”本屋の店内と店員さんたち

もちろん、ここで、「インコとイロコと狩人」の本のことも尋ねたが、探し当てることはできなかった。

コンゴの国の公用語は旧宗主国がベルギーだから、フランス語だ。
そして、国語として、リンガラ語、スワヒリ語、キコンゴ語、チルバ語の4言語が存在する。
そのどの言語を使って絵本や物語を出版するのか。また、出版費用に見合い庶民の手の届く範囲内での価格設定のこともある。問題は山積みだ。

最後に、お月さまのことに触れてみたい。
日本では、お月さまには「二匹のうさぎが餅をついている」と教えられ、その歌も存在している。
マリ出身のトアレグ族のひとりの女性から、「わたしたちは、お月様には針仕事をしているおばあさんがいる」と聴かされて育ったという話を聞いた。そして、その歌も存在したのだそうだ。
では、コンゴでは。
ウェッツさんという慶応大学日本語プロジェクトで日本語を習得し、日本人以上に尊敬語を上手に操るコンゴ人の若者から聴いたところでは、「お月さまには、お母さんが子どもをかたぐるましている」と考えるのだと言うのだ。
なんと興味深いことだろう。お父さんではなく、お母さんと子ども、と聞いて、ボノボ(ヒトにいちばん近いといわれる霊長類)が母親社会を形成しているということを思い出し、その関連性にひとり勝手に(?)深く感動するのだった。
ただ、この「お月さまの中でお母さんが子どもをかたぐるまする」歌は存在しないということだった。

ウェッツさんが一昨日、キンシャサに長期滞在して日本語プロジェクトで活動する一人の慶応大学の学生と一緒に我が家に遊びに来てくれた。
そのときに、わたしは、日本には「絵描きあそびうた」というのもあるんだよと話した。
この4月に、かるたあそびで日本語を教えるというかれらの授業に参加したので、ひらがなを使っての「絵描きあそびうた」も参考になるかと思ったのだ。さらには、先月読んだかこさとし著の「未来のだるまちゃんへ」という本の中におもしろい絵描きあそびについて、かこさとしさんが触れていたので。
子どもの頃、多くの方が「へのへのもへじ」で顔を描いて遊んだことだろう。
地方によっては、ちょっと違うひらがなが使われていたりして、そこに興味を持ったかこさんは日本全国の絵描きあそびうた収集をライフワークにしていると書かれていた。
あるとき、女子高で講演したときに教えられたのが、「へめへめしこし」だったというのだ。
ちょっと、この4つのひらがなで人の顔を描いてみてほしい。
なんと!お目目ぱっちりのおちょぼ口の女の子の顔が完成しませんか!
そんなあそびを通して、またこれもひとつの日本独特の子ども文化なのですとコンゴの人々に伝えられて、興味を持って文字を覚えてもらえたら、などと思って、日本語プロジェクトで活動するコンゴと日本の若者に話したのだった。

そして、できたら、わたしもこの国に伝わる子どもの文学やあそびや歌を知りたかったな。
もう時間切れだけど。
でもまたいつかきっと。

と、上智大学のAfrican Weekの企画の話から、逸脱してしまったが、アフリカの子ども文化について、これからもわたしは観続けていきたい。
もし、情報がありましたら、ご教示ください。

2017年4月18日火曜日

NHKカルチャーラジオ 「まど・みちおの詩で生命誌をよむ」を読んで

生命誌絵巻(JT生命誌研究館蔵)

わたしたちが昨年末に、キンシャサの治安不安定を受けて一時帰国を余儀なくされたとき、たまたま本屋で見つけたNHKカルチャーラジオ、2017年1月~3月放送予定のテキスト。

「まど・みちおの詩で生命誌をよむ」(中村桂子著)

NHKカルチャーラジオ 2017年1月~3月放送のテキスト

わたしはちょうど、まど・みちおさんの詩「ぞうさん」(こぐま社)が絵本になったものを手にして、そのシンプルさに心沁みていたときだったので、”まど・みちお”という文字に惹きつけられて、このテキストを手に取って、パラパラとページをめくってみた。

第6回の放送分、”つながっていく生きもの~ゲノムと「ぞうさん」”で、まどさんの「ぞうさん」の詩が取り上げられていた。
ふむ?
自然科学の分野である生物学が、まどさんの詩とどのようにつなげられて展開されるのだろう。
生物学、ではなく、生物史、でもなく、「生物誌」ってなんだ?
13回分の講義はプログラム表を確認すると、最初から一度も聴くことはできない。
でも、毎回ラジオを聴いたつもりになって、自分で読んでいこうと思って、テキストを購入してキンシャサまで持ってきたのだった。

この「ぞうさん」の詩が取り上げられる第6回の冒頭部分でまず出てくるまどさんの詩、”空気”。
  
 
 ぼくの胸の中に いま 入ってきたのは いままで ママの胸の中にいた 空気
 
 そしてぼくが いま吐いた空気は もう パパの胸の中に 入っていく

 同じ家に住んでおれば いや 同じ国に住んでおれば 

 いやいや 同じ地球に住んでおれば

 いつかは同じ空気が 入れかわるのだ

 ・・・・・・(中略)

 5月 ぼくの心が いま すきとおりそうに 清々しいのは

 見わたす青葉たちの 吐く息が ぼくらに入り 

 ぼくらを内側から 緑にそめあげてくれているのだ

 ・・・・・(中略)

 一つの地球をめぐる 空気のせせらぎ!

 それはうたっているのか 忘れないで 忘れないで・・と

 すべての生き物が兄弟であることを・・・と


外とのつながりがあって、そして、「すべての生き物は生き物からしか生まれない」ということ。
ゾウはゾウからしか生まれない。
ヒトはヒトからしか生まれない。
でも、ヒトが持っているDNA~ゲノムは、一人ひとりみな違っている、という事実。
そして、ヒトは生まれて死ぬまでの間にさまざまに変化しながら、でも底の底では変わらぬ自分としてつながり、そうやってすべての生きものは38億年もの歴史を持ち続け、連綿と繋がっているという事実。

その相関図がこのブログの最初に掲げた「生命誌絵巻」だというのだ。

人間は生きものであり、自然の一部だ、とまどさんも詩の中で表している。

そして、まどさんは小さな蚤や蟻の目線から大きく大きく視点を広げていって、生きものの舞台を「地球」、そして「宇宙」にまでふくらませて見ている!

「みなさんは 日本の子どもである前に 地球の さらに宇宙の子どもです。」(百歳の言葉)

大きなくくりで、ヒトも含めて生きものとしての繋がりを時空間で考えてみる。
そうしたら、あたえられた人生のちっぽけなこと。
でも、そのひとりひとりのちっぽけな人生が繋がっていって歴史が創られ続いていく。
そう考えると、わたしの人生、友だちの人生、みなの人生をしっかり大切にして繋げていきたい、
と思えてくる。

中村桂子さんは、まどさんの”ぼくがここに”という詩も大きく取り上げている。


 ぼくがここにいるとき ほかのどんなものも 

 ぼくにかさなって ここにいることは できない

 もしも ゾウがここにいるならば そのゾウだけ

 マメがいるならば その一つぶのマメだけしか

 ここにいることはできない

 ああ このちきゅうのうえでは こんなにだいじに

 まもられているのだ

 どんなものが どんなところに いるときにも

 
 その 「いること」こそが なににもまして

 すばらしいこととして


生きものの歴史、38億年のなかで、 今、ここにいること、そのことがすごいこと。
存在することそのことへの賛美、憧れ、畏れをもって生きよう。
そう提唱する生命誌。

また、「生命誌」は、”生きものは長い歴史の中で、唯一無二の個体を生み出すと同時にその個体に老いと死を組み込んだ”ということ、そして、いわゆる障害ということにも触れ、さらりと教えてくれていると感じる。
 
”生命科学が急速に進展され、それらの技術が産業を進歩させていきました。でも、その結果、世の中は、「生きること」を大切にする方向に向かったでしょうか。”
と読者に投げかけ、
”DNAを基盤にする科学を「生きものを生きものとして見る」という新しい見方に繋げたい、ということで「生命誌」という分野を創った。”
この巻の”はじめに”で中村桂子さんは明言している。
 
わたしは、自然科学の分野が人文科学の視点を持って、垣根を取っ払って新しい見方を提示してくれたように感じて、この「生命誌」の捉えかたに魅了された。
大げさに言うと、時空間の中でヒトとしての本来の生き方をも見せてくれるように感じた。

わたしたちが、”時間”と”関係”とを大切に生きることが、「こころ」を働かせることであり、皆でそのような生き方をしていくことが「こころを考える」ことだ、というのが「生命誌」から引き出せる答えです、とも中村桂子さんは結んでいる。

「生命誌」の求めるもの・・・今、ここに子どもたちが、「人間は生きものであり、自然の一部である」
という当たり前のことを、当たり前として育っていくこと、とも言い換えている。

大きな視点と繊細な視点を混ぜ合わせて、長く続いてきた生きものの歴史の流れと、大きな宇宙、空間の中で”自然の一部である生きもの”として生きているわたしたちの存在をもう一度見つめ直
させてくれる科学者であり、同時に哲学者のような視点をも合わせ持つ中村桂子さんグループ(?)の提唱する「生命誌」に触れて本当に良かったと思う。

かのじょのお歳を考えるとわたしの亡き母よりちょっと下くらいのかたか。
子育て期間中は、研究者としての仕事を辞めて子どもと向かい合ってもいらっしゃる。
そういう生き方をしてこられたからこそ、生物科学を普段の生活にまで下ろして考えほぐして見せてくれる柔軟な視点もご自身の中で育まれたのではないか,と想像したりした。
学問と学問の境界域の空白部分こそ研究がなされてその境界線を無くすということは重要な作業だと思えてならない。

この、中村桂子さんの「生命誌」と、まど・みちおさんの「詩の世界」との融合について、3か月にわたる講座内容をわたしなりにまとめて残しておきたいと思いつつも、なかなか書き出せないでいた。

そんな中、わたしの大切な友人で、現在、ALSという病気と向き合うケイコさんが送ってくれた詩が
今朝届いて、その詩がわたしの背中をそっと押してくれた。

最後にその、ヘルマン・ホイヴェルス神父の詩を引用して締めくくりたい。


 「最上のわざ」 ヘルマン・ホイヴェルス著 ”人生の秋に”より

  この世の最上のわざは 何?
 
  楽しい心で年を取り、働きたいけど休み、しゃべりたいけど黙り、
  失望しそうな時に希望し、従順に、平静に、おのれの十字架をになう。

  若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見ても、ねたまず、
  人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、
  弱って、もはや人のために役立たずとも、親切で柔軟であること。

  老いの重荷は神の賜物、古びた心に、これで最後のみがきをかける。
  まことのふるさとへ行くために。

  おのれをこの世につなぐ鎖を少しずつ外していくのは、 真にえらい仕事。
  こうして何もできなくなれば、それを謙虚に承諾するのだ。
  神は、最後にいちばんよい仕事を残してくださる。

  それは、祈りだ。
  手は何もできない。
  けれども、合掌できる。
  愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために。
  全てをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。
  
  『来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ』と。

 
宇宙を感じながら自然の中の生きものの一つとして、人生を全うして次世代にバトンタッチしたいな。
いつか、中村桂子さんのお声をお聞きしながら、お話を伺う機会がおとずれますように。

2017年3月24日金曜日

「少年少女の文学全集があったころ」に寄せて

 昨年11月末だったと思う。
キンシャサで、小さいころ少年少女文学全集が家に並んでいたという思い出話をしたことから、わたしたち世代に興味深いエッセイ本があるよと言って貸していただいた本が、松村由利子さん著の「少年少女の文学全集があったころ」(人文書院刊)だった。


松村由利子著「少年少女文学全集があったころ」(人文書院)

わたしと同世代で、福岡で生まれ育った著者。
でも、わたしと違うのは、祖父母や両親も読書家で、いろんな本に出合う環境が整い、特に母親と繋がりながら読書を楽しめたこと、そして、岩波の本たちと出会えて読書の世界を深めていったことだ。
松村由利子さんの幼いころからの読書量は半端なくすばらしい。
大人になって、原書とも出会って日本語訳と比較しながら、言葉あそび、音あそびの面からの訳者の力量のすばらしさを感じ取り、さらに物語の世界を広げている。
また、子どもの頃に出会った文学を起点に、深く掘り下げていっているのにも舌を巻く。
そして、著者は、新聞記者となり、記者の目から少年少女の文学の世界を分析して楽しんでもいるのだ。
長じて、かのじょは現在、歌人として活躍している。
そんな言葉の世界でゆっくりじっくり楽しんで大きくなった著者のエッセイがぎっしり詰まったこの本は、ずっとわたしの手元に置いておきたい本の一冊だ。

わたしのことをふり返ってみよう。
3歳のころから、製鉄会社の社宅で育ち、高度経済成長期とも重なり、社宅は教育熱心な家庭が集まっていたように思う。
父は、よく、会社帰りにバス停のところにあった「千成堂」という本屋さんで、童謡の絵本を買ってきては歌を歌いながら、挿絵の美しさを語った。
そして、カトリックの幼稚園で毎月配本される「こどものせかい」という絵本で、物語の内容というより、挿絵の美しさを楽しむ子だったと思い返す。
父親が余暇に絵を描く”日曜画家”だったのだから、その影響は大きかった。

わたしが小学校に入るころだったろうか。
父がわたしに「こじき王子」という本を、妹に「イソップ物語」を買ってきた。
それから、毎月、挿絵の多く載った童話集が我が家に届いた。
今も、赤羽の我が家の本箱に2,3冊ある。
偕成社の「幼年絵童話集」だった。

最初に手にした「幼年絵童話集」(偕成社)

こじきの少年と身分の違う王子さまが入れ替わって生活するのにはびっくり仰天した。
黄色の挿絵の二人の少年との出会いをはっきり覚えているが、同じ本に収録されている「アルプスの少女」のほうの存在は薄いのが不思議だ。
やはり、挿絵を優先して楽しむ子だった。

そして、このころから物語の内容にも入り込んでいったように思う。
わたしが、いつも傍に置いていた本だ。


幼年絵童話全集「小公女」と「フランダースの犬」

カラーの挿絵がなんともきれいで、何度も何度も読み返して、喜び、心痛めた。
この挿絵の楽しい童話全集は調べると全20巻だった。
1962年から1964年の間に発刊されている。
監修者に、川端康成、浜田廣介、宮原誠一、村岡花子の名前を発見。
文担当者として、川崎大治、久保喬、与田準一、土家由岐雄・・・。
画家には、岩崎ちひろ、若菜珪、太田大八・・・。
大きくなっても、この童話全集をめくって楽しみ続けた。

そして、小学校高学年になる頃だったか、とにかく、この「幼年絵童話集」の毎月配本が終わって間もない頃から我が家に届き始めたのが、小学館の「少年少女世界の名作文学」だった。
全50巻。
1964年から1968年の発刊だ。

小学館「少年少女世界の名作文学」全50巻


カトリックの幼稚園だったこともあり、ステンドグラスのような天使の絵には親近感を覚えたし、箱から出して、表紙の紙を取ると、世界の名画も載っていてこれも毎月の楽しみだった。

小学館「少年少女世界の名作文学」表紙を飾る世界の名画

アメリカ編、フランス編、・・・と国別に編纂されていた。
でも。
この本の分厚さと、挿絵が極端に少ないことに馴染めず、毎月、本箱に並んでいくこの文学全集を横目に見ながら学校の勉強や塾通いの方に忙しくなっていった。

あの頃の社宅バス停前の本屋には、岩波出版の本は置いていなかった。
唯一、わたしの幼い頃の岩波の本は、岩波少年文庫のケース入りの「星の王子さま」だ。
従弟から贈り物としてもらった本。もう、半世紀も前のことだ。
今も手元にあるが、わたしなりに王子さまの世界を楽しみ、子どもながらにも下手だなあと思えるサンテグジュペリさんの挿し絵にも親近感を覚えた。
何度も何度もページをめくって王子さまに出会っていたのに、子どもの頃のわたしは最後に王子さまがどうなったのか、不思議なことに全く記憶に残っていなかった。

わたしが母親となって出会った岩波の本の奥行きの深いこと。幼年シリーズも、少年文庫も、子どもと一緒に楽しんだ。
わたしの夢は、老後の日本での生活で、岩波少年文庫全編を読破することだ。
「少年文庫」とはいえ、小学生、中学生で人生の機微を深く味わうには難解だと思われる内容の物語を発見する。
人生後半に入った今こそ深く入り込んで堪能できる物語が多く存在する岩波少年文庫再読を楽しみにしている。

松村由利子さんのこの本を読み、「少年少女世界の名作文学」をやっぱりもう一度、しっかり読み返してみたい、と思った。たくさんの面白い物語が吟味して編纂されているのだったら、小さいときにしっかりと読んでおけばよかったと反省もした。
実家の二階の本箱にそのまま残っていると信じよう。

松村由利子さんのエッセイを紹介してくれた友人に、そして何より、子どもの物語の、宇宙のように壮大で魅力的な世界を思い出させてくれたこの「少年少女の文学全集があったころ」の本に、ありがとう。

2017年2月20日月曜日

とんび

キンシャサ滞在の前、赤羽の子どもの本専門店、”青猫書房”で、スタッフとして楽しんでいた。
当たり前の話だけれど、スタッフ皆、本が大好きで、すぐに本の話題になった。
子どもの本、とひとくくりに表現するけれど、大人にこそ手に取ってほしい絵本や児童書がある。
逆にティーンエイジャーにこそ出会ってほしい小説やエッセイもある。
だから、年齢枠を取り払って、自由に本の世界へどうぞようこそ、というのが青猫書房の姿勢だとわたしは思っている。

そして、今日は、この本。


以前、青猫スタッフと重松清さんの小説の話題になった。
わたしが、「その日の前に」は大感動ものだ、と話すと、「とんび」も大感動だよと勧められたことがあった。
そして、先月、再度キンシャサに戻るときに、スタッフからこの「とんび」をプレゼントされてこちらへ持ってきた。
なんとなく、読むのがもったいなくて。
楽しみを温めて温めて。
そしてとうとう。
一気読みだった。
涙、涙で読了。

生後まもなく実母が亡くなり、実父とも生き別れ、家族の縁が薄いヤスさんが、これまた広島原爆で家族を失い疎開先でひとり助かったミサコさんと結婚し、ふたりで懸命に幸せな家族を作ろうとする姿にまず心動かされる。
1934年生まれのヤスさんと、2歳年下のミサコさんが1956年に結婚し、1959年にアキラくんが誕生する。
会社の社長にカメラを頼み込んで借りては家族で出かけて写真を撮りまくるヤスさん。
家族で出かけるたびに車が欲しいと思い、車だったら家族を疲れさせることもないと一大決心をして車を手に入れたヤスさん。運送会社勤務のヤスさんには車の運転は朝飯前なのだった。
当時の映画を観て、生まれてくる子が女の子だったら吉永小百合の「小百合」、男の子だったら小林旭の「旭」だと心に決めたヤスさん。
何ごとにも一生懸命の熱血漢で、超照れくさがり屋で、そんなヤスさんのすべてを理解して支えるミサコさん。
高度経済成長期の日本で、家族を一途に思って滑稽なくらい護り抜くヤスさん。

そして。
そのヤスさんとアキラくん父子を、これまた深い愛情で見守る広島備後の人たちの交流にもほのぼのし、読後は魂がすっかりぴかぴかに洗われたようになった。

さすが、重松清さんの筆さばきに完全にはまってしまった。
かれの、文庫本あとがきの一行目に、
「不器用な父親の物語を描きたい、というのが始まりだった。」
と記している。

この物語も、ぜひ、幅広い年齢層のかたたちに読んでほしい。


今朝、起きてすぐ、ALS(筋委縮性側索硬化症)と向き合って真摯にすすむ友人のブログを開けた。
かのじょは、クリス・ハートさんの歌う「いのちの理由」について書いていた。
作詞は、さだまさしさん。


わたしが生まれてきた訳は
愛しいあなたに出会うため

わたしが生まれてきた訳は
愛しいあなたを護るため


まさに、このままの姿勢を貫き通して生きてきたヤスさんだ、とまたまた朝から感動を新たにするのだった。
「とんび」とは、「とんびが鷹を生んだ。」の「とんび」。
失礼ながら、ヤスさんのことだ。

こんな生き方をするヤスさんにわたしは多くのことを教えてもらったな。

2003年10月から、2004年7月にわたって、中日新聞、東京新聞、北陸中日新聞、北海道新聞、西日本新聞、神戸新聞などに連載され、その後、2008年10月に角川書店から出版されている。

ヤスさん、1934年広島県備後市生まれ。
今も仲間たちと備後の町で、きっときっと元気ににぎやかに過ごしているのだろう。

2017年2月6日月曜日

絵本「ぞうさん」とまどみちおさん

絵本「ぞうさん」(こぐま社)

    ぞうさん ぞうさん

    おはなが ながいのね

    そうよ かあさんも ながいのよ


    ぞうさん ぞうさん

    だれが すきなの

    あのね かあさんが すきなのよ


まどみちおさん作詞 團伊玖磨さん作曲の童謡がこんなに絵本になっているのを、昨年、キンシャサに行く前に赤羽の子どもの本専門店「青猫書房」で見つけた。

たった数行の、でも、心温まるこの詩を1ページに1,2行ずつ。
「わたしのワンピース」などの作者、にしまきかやこさんの素朴な挿絵とともにリズミカルにめくって音読を母子で楽しめる絵本だ。

このシンプルな構成が、まどみちおさんの詩の世界の深いところまで連れて行ってくれるように思える。

まどみちおさんが104歳で亡くなって今月末で丸3年。
今年1月から3月までの3か月の予定で、NHKカルチャーラジオは、「まどみちおの詩で生命誌をよむ」が始まった。
案内役はJT生命誌研究館館長の中村桂子さん。
まどさんの詩を、生命科学の視点から掘り下げて読み解いていくという興味深い取り組みだ。
わたしは残念ながらラジオを拝聴できないので、テキストを購入して、週1回の放送分を独りで読んでおもしろがっている。


NHKカルチャーラジオ2017年1月~3月テキスト(NHK出版)


ぞうさん、といえば、土家由岐雄さん著のノンフィクション童話、「かわいそうなぞう」を思い出す。
秋山ちえ子さんが、1970年から毎年8月15日にラジオでこの童話を朗読されていたということを2年ほど前にちえ子さんが亡くなってから知った。
この童話は、太平洋戦争中の東京・上野動物園でぞうが戦時猛獣処分を受けたという実話を元にして著されたものだ。
1970年初版とあるから、ちえ子さんは、この童話が世に出てからずっと、終戦記念日に朗読を続けてこられたことになる。

中村桂子さんも、カルチャーラジオ番組の第6回 ”つながっていく生きもの~ゲノムと「ぞうさん」”の中で、「ぞうさん」の詩に絡めたエピソードで、これらのことに触れている。

終戦まもなく、まどさんはお子さんと共に上野動物園を訪れたのだそうだ。
でも、動物園の象舎は空っぽだった。ライオンもいなかった。
戦時猛獣処分という命令で殺された動物園の猛獣たち。
がらんどうの動物園でがっかりする子どもたちを見て、まどみちおさんも戦争という暗い影を痛感したことだろう。
まどみちおさんは、空っぽの象舎の前で、
「ぞうってとっても大きくて鼻が長くて耳も大きい動物なんだよ。」
と、お子さんに説明したのだそうだ。
そして、そのときの気持ちをもとに生まれた詩が「ぞうさん」だったと書かれている。

また、この詩で、お母さんから子どもへの繋がりを表すとともに、もうひとつ、「いじめ」もテーマにしていると、まどみちおさんが説明されていたことも知った。

中村桂子さんはテキストの中で、
”動物学校の教室で誰かが「おいお前、鼻が長いなあ。他にそんなおかしな鼻をしている奴はいないぜ。」といっているようにも読めます。子どもたちは違いに敏感です。皆と同じがいい。そしてちょっと違うことに気づくといじめます。人間の学校もそうですから、動物学校だったら大変でしょう。鼻が長いとか、しっぽが短いとか、いくらでも違いを見つけられます。そこでめげてはだめです。「そうだよ。母さんだって長いんだよ。あのすてきな母さんが長くて、ぼくも長いんだから。なんにも悪くないよ」。
まどさんの説明を知ってからは仔ぞうの頑張りも感じながら歌っています。”
と書いている。

母と子の深い絆を感じる、まどみちおさんの「ぞうさん」の詩がますます好きになる。
そんな深い愛情を、母子で寄り添って、この絵本のページをめくりながら味わってほしいと思う。

わたしの本箱に、大切な絵本がまた1冊並んだ。


アジアゾウにアフリカゾウ。
アフリカゾウのほうが体が大きく、耳も大きいんだったな。
ディズニー映画の”ダンボ”は耳がやたら大きく生まれてきていじめられるんだったな。
ぞうさんを描くのが好きだった娘の落書きを、「夏の絵本屋」のトレードマークにしてポスターを作って、3年間だけだったけど夏の絵本屋(+冬の絵本屋)、”L'elephant vert”(みどりのぞう)を開店して楽しんだな。
マレーシアの画家で、ぞうさんの絵をカラフルにコミカルに描くユスフさんとの交流もうれしかった。
毎夏、かれの描いた2枚の水彩の絵を絵本屋に飾ってお客さんを迎えたんだった!


我が家のぞうさんコレクション一部 
右端の緑ゾウは、夏の絵本屋開店のお祝いに人形作家のナンシーさんが制作してくれた宝物!


わたしが滞在する、コンゴ民主共和国、そして隣国のコンゴ共和国一帯には、”マルミミゾウ”という絶滅危惧種のぞうがいる。