2016年10月8日土曜日

物語 ”グリーンノウのお客さま”

今年5月末、アメリカのオハイオ州の動物園での出来事にわたしは愕然とした。
ゴリラの獣舎に男の子が転落し、人命救助のためにゴリラを射殺したのだった。
17歳の雄、ニシローランドゴリラ、Harambe。
遠いアフリカ、コンゴ周辺国から運ばれ、独りアメリカの動物園の檻の中に閉じ込められ、たまたま落下してきた人間の男の子を獣舎内で引きずり回しはじめたのだそうだ。
園側は当初、麻酔投与も考えたようだが、効き目があらわれるまでに数分はかかると考えられ、射殺された,と記事には書かれていた。


ニシローランドゴリラ 17歳の ハランべ(Harambe)



わたしは、このローランドゴリラ、ハランべと、「グリーンノウのお客さま」に登場するゴリラのハンノーが重なってきて、もう一度、この物語を手に取った。


我が家の旧版 ”グリーンノウのお客さま” 表紙

ルーシ・ボストン夫人による、「グリーンノウ物語」シリーズ(評論社)のうちの4番目のこの巻の挿絵は、ピーター・ボストン。ボストン夫人の息子さんだそうだ。
表紙の絵は、ゴリラのハンノーと父ゴリラの絵。
ほのぼのとしたゴリラ父子の様子が伝わってくる。

物語は、コンゴの密林で暮らすちびゴリラのハンノーの一家の日常から始まる。
すべての生き物の汗がしたたり落ちるような湿度の高い熱帯雨林の中で、お父さんゴリラが中心になって集団を作り、移動生活を送る。お父さんゴリラは、赤ちゃんゴリラの面倒をよくみると表現されている。
そんな平和なジャングルでの日々に突然、密猟者が入り込み、ハンノーとお姉ちゃんゴリラが捕まってしまう。子どもゴリラは親から離されると精神的ショックから、間もなく命を落とすのだと聞く。
お姉ちゃんゴリラは搬送途中で絶命。
ハンノーひとりが、遠いロンドンの動物園に運ばれて、檻の中でひとり成長していく。
人間以上の背丈で大きく育ったであろうハンノー。
飼育員の愛情ももらったであろう。
でも、集団でジャングルの中を移動して暮らすゴリラの習性で、檻の中のハンノーはどんな気持ちだったのだろう。
その動物園に、ビルマの戦争で父親と離れ離れになりロンドンの難民収容所で暮らす中国人少年のピンが見学に訪れ、二人(一頭と一人)は出会い、深い友情が育まれていく。
そして。
ある夏の休暇を幸運にもグリーンノウに暮らすオールドノウ夫人のお屋敷で過ごすことになったピン。
孤児のピンにとっては心解放され、オールドノウ夫人とどんなにか穏やかな生活を楽しんだことだろう。
そのお屋敷に隣接する森の中になんと、ロンドンの動物園の檻から逃亡してきたハンノーが逃げ込み、二人(一頭と一人)は再会する!
それから、ピンは密かにハンノーをかくまうことを決心。
優しいオールドノウ夫人に隠れてせっせとハンノーに食料を運ぶピンの、心苦しくも心弾む心境が伝わってくる。
オールドノウ夫人への裏切りに苦しみながらも、それでも、ハンノーの自由を、幸せを守ってあげたいと思ったのかな。
自身の境遇と重ねたはずだ。

この物語の悲しい結末と、うれしい結末。

猛獣とされる動物たちはどんな行動にも危険視される。
一見、暴れて危険に見える行動でも、我が子と遊ぶように接していたのかもしれない。あるいは、ストレスやパニックで起こした行動なのか。見分けは難しい。

やはりこの五月に井の頭自然公園で69歳で亡くなった象のはな子も、幸せな生涯だったのだろうか。
昭和24年にタイから来日し、昭和29年からずっと井の頭自然公園で過ごしたはな子。
象も森林の中で群れで過ごす動物だ。当初は、檻の中でストレスを感じていたのかと想像する。
井の頭自然公園に移って数年の間に、酔っ払い男性、飼育員を圧死させて、「人殺しの象」、とレッテルを貼られた時期もあったと聞く。以来、はな子は鎖をはめられて過ごすことになるが、新たな飼育員によって半年後に鎖をはずしてもらえたのだそうだ。
それからは、来園者に可愛がられ、お別れの会には全国から多くの参列者やメッセージが届いたと伝えられていた。

動物園側も、なるべく自然に近い形で動物を飼育しようとする動きが出てきている。
絶滅危惧種への対策も世界レベルで整ってきている。


新版 ”グリーンノウのお客さま” 表紙

新版のこの物語の表紙には、少年ピンがグリーンノウの森の中に作った竹の小屋と、後方にゴリラ(ハンノー?)が描かれている。

1961年に出版されたこの「グリーンノウのお客さま」は、同年度のカーネギー賞を受賞している。
この賞は、1936年に始まり、毎年もっともすぐれた子ども向けの本に与えられてきた、イギリス児童文学の世界で最高の名誉とされている賞、ということだ。

ピン老人(?)は、今頃、グリーンノウのお屋敷で(と信じて)、どのようにお孫さんたちに(!)かれの思い出を語っているのだろう。