2013年12月28日土曜日

マローンおばさん Mrs.Malone

絵本 マローンおばさん (こぐま社)


キンシャサの暮らしも2年になろうとしている。

ここで、いったいどれだけの女性と出会ったことだろう。
いろんな国からの女性が、いろんな人生を背負って、キンシャサで暮らしている。
それぞれの女性が生きてきた道のりを聞いて、はるかな道のりを思い、涙するときさえある。

今日もまたひとりの女性から電話がかかってきた。
あなたに会いたいの。今から行ってもいい。

かのじょは、中国をオリジンに、他のアジアの国で生き、さらに他の国出身のご主人に出会い、かれについて10年以上もキンシャサで生きるベルギー国籍の女性だ。

とても前向きで、世話好きで、自身の語学力をものともせずに、よく自宅で昼食会を開いて多くの友人たちを招待してくれる。

そのかのじょが、最近、ちょっと元気がない。
72歳になるというかのじょは、キンシャサの若いアジア女性の中で居場所を感じない、と言うのだ。
30代の若い世代の女性と、70歳過ぎのかのじょ。
孤独感につぶされそうな表情をして訴えてくる。
前向きに生きてきたかのじょには、同年代の女性がキンシャサを去って行き、ふと気づいたら若い世代ばかりになっていたのだ。
わたしは、その中間。
かのじょは自身の心境を吐露したくてわたしに会いに来たのだなあ。

年を重ねていく、ということを改めて思った。
そして、同年代の仲間の存在の大切さをも思った。

でも、と思う。
人は与えられた境遇の中で生きてゆかねばならないのだ。
老いてゆくことの覚悟も必要なのだなあ。

わたしのこれからのバイブルとなるであろう、絵本「パリのおばあさんの物語」と共に思い出す絵本が、このファージョン作の「マローンおばさん Mrs.Malone」だ。(日本では1996年、こぐま社より発刊。)

マローンおばさんは森のそばで独り貧しく暮らしていた。
おばさんを訪ねるものは誰ひとりなく、心にかけてくれるものもいない。
そんなおばさんの住む家に、冬のある日、すずめが、そしてまたある日、猫が、またある日には母さんギツネと半ダースの子ギツネが訪ねてくる。

貧しく、他人に与えるじゅうぶんなものも持たないマローンおばさんは、それでも、皆に言うのだ。

「あんたの居場所くらい、ここにはあるよ。」と。


孤独の極みで生きているものが、同じように傷つき弱りはてたものを優しく受け入れる姿に驚き,感動する。

「あんたの居場所くらい、ここにはあるよ。」
良い響きを持ったフレーズだ。


少ないものを分け合って暮らし,そして,ある日の朝、マローンおばさんはロバの背に載せられて、動物たちと神様のもとへ旅立つ。

なんとも静かな、清らかな物語だ。
イギリス人児童文学作家、そして詩人であるエリナー・ファージョンの詩を、翻訳、絵本化した本だと紹介されている。(1962年、ニューヨーク)
エドワード・アーディゾーニの白黒の挿し絵がさらに物語を深くしている。


エリナー・ファージョンといえば、「まいごになったおにんぎょう」(岩波子どもの本)、「年とったばあやのお話かご」(岩波書店)、「ムギと王さま」(岩波少年文庫)、「町かどのジム」(童話館出版)がすぐに思い浮かぶ。
そのどれもの挿し絵をエドワード・アーディゾーニが描いているのだ。
それくらいに、ファージョンの作品とアーディゾーニの絵は密接なつながりがあるのだ。

ファージョンは、70歳を過ぎた頃、27編の自選短編集、「ムギと王さま」を編み、この短編集でカーネギー賞と国際アンデルセン賞を受賞している。
この本の冒頭に、
「わたくしが子どもの頃住んでいた家には、わたくしたちが”本の小部屋”とよんでいた部屋がありました。」
と記されている。
ユダヤ系作家の父と米人女優の母を持ち、家庭で教育を受け、父の膨大な蔵書と,家を訪れる多くの芸術家たちの会話によって知識と想像力を養ったと言われるファージョンの生い立ちを知ると、かのじょの泉のように湧いてくる想像力豊かな物語の源泉が理解できるように思われるのだった。

また、アーディゾーニといえば、ファージョンのほとんどの作品の挿し絵を描く画家としての仕事のほかに、、彼自身の作・絵で「チムとゆうかんなせんちょうさん」他のチムのシリーズ(福音館書店)を手がけていることでも知られる作家だ。


薄い、小ぶりの絵本、「マローンおばさん」もまた、これからの老いの道で、豊かに生きることへのヒントを与えてくれる本だなあ、と思えてくる。


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