
彼女がパリに暮らして60年が過ぎた1999年に著した本が右の写真の「おてんばキクちゃん 巴里に生きる」(草思社)だ。
大好きなパリで100年の人生を思いっきり生きた日本女性のあっぱれな回想記だ。
書き出しに「幼い頃からわたしは利かん坊で、なんでも自分の思うとおりにしないと気がすまない子だった。」とあるように、また、「あなたのような正義感の強いひとはいないわね。」と言われ続けたように、本当にお転婆な正義の味方キクちゃんだったのだろう。
仏英和小学校(現在の白百合学園)の頃からフランス語が好きで、フランスに行きたくて憧れ続けて、とうとう1937年10月に神戸から1ヶ月の船旅でマルセイユ着。夜行列車で翌朝パリへ着いたのだった。当初の両親との約束は、「パリ滞在は2年間」だったそうだ。それが第二次世界大戦開戦。彼女は戦時中もパリに残った。
そして1947年3月、敗戦国・日本への定期航路もない時に、キクちゃんはマルセイユから出港。以後、サイゴン→香港→横浜と苦難を乗り越え船を乗り継ぎちょうど5ヵ月後に帰国。そして帰国を果たして1年後の翌年8月末に、空路羽田から上海、上海から香港へ。香港から船で1ヵ月半後にマルセイユ着。パリに戻っている。
戦後、フランスから単独で帰国した初めての日本人で、さらには渡仏のためにヴィザ申請に来た戦後初めての日本人だったそうだ。
娘が高校生で2000年からロータリクラブ交換留学生として北フランス Bethuneに約1年間滞在したとき、同窓の大先輩にお便りをしたことから娘とキクちゃんの交流が始まった。
その後わたしもパリ17区クールセル通りのアパートを訪ね、キクちゃんの戦死された弟さんと同じ出身校だというご縁で息子も彼女を訪ねている。
パリの日本大使館近くのナポレオン時代のアパートの3階(?よく覚えていない)にお住まいで、古い建築物でスペースがないからエレベーターを設置できないということだったが、パリのとても良い場所にお住まいだった。
便りをするといつも10日ほどで返信があるのに、随分音信が途絶えた時があった。しばらくして菊枝さんからの手紙が届いたとき、封筒には中華民国やらどこやらの消印スタンプが何個も押されていて何ヶ月もかかってやっと東京の我が家へ配達されたことがあった。菊枝さんが「JAPON」と記入しなかったことから何カ国かの漢字の国を経由してきたのだろう。
まるで戦後、あちこちを経由して帰国し、また戻った菊枝さんと重なり、その手紙を愛おしく感じた。
その便りで、キクちゃんが夜中にトイレに立ったとき転倒して腰を骨折したことを知った。その後94歳のキクちゃんは、リハビリのために入院中も「ベッドに横たわる老人をお菓子を持って慰問しました。」としっかりした手紙が届き、遂には「こんな状態ではエレベーターのない部屋にあなたを帰すわけにはいかない、と医者は言いますがわたしは必ず自宅へ戻ります。」と、それを実現してしまった。あっぱれ!キクちゃん!
そして、「この調子だと100歳まで大丈夫ですからもう一度遊びにいらっしゃい。」という大らかな便りもいただいた。
「日本の駐在員家庭の子達がフランス語の勉強に来て、代わりにわたしの散歩におつきあいしてもらうのですよ。」とも書かれていた。娘が社会人となりパリのキクちゃんを訪ねた時、外食が大好きだというキクちゃんが「ひとりじゃ行けないからお付き合いしてね。」と言われて、近くの中華レストランに同行したそうだが、杖も使わずお元気で、さすがキクちゃんね!と話したものだった。
そして今年初夏にお会いしたパリ在住の画家、東公与さんから、菊枝さんが亡くなられたことを知った。
昨年のパリでの日本人会の新年会には元気な姿で菊枝さんが出席されていたと知人から聞いていたのに。
昨年8月から大激震のはしった我が家。そして今年3月の大震災。菊枝さんにご無沙汰していたことを悔やんだ。
「おてんばキクちゃん 巴里に生きる」は、当初、ご自身の回想記を書くことに乗り気ではなかった菊枝さんだったが、カメルーンで奉仕するパウロ会のシスターの支援金に回せたら、ということで承諾したと聞く。400枚の原稿用紙が送られてきたから400枚全部を使って書いたら、200枚分の原稿でよかったらしいのよ、と話されて笑っていたことも思い出す。
小柄なかたで、身だしなみをさっぱりと整え赤い口紅と白い刺繍のブラウスで出迎えてくださった。お若い頃のおしゃれな菊枝さんは健在だと思った。用意してくださったケーキをいただきながら静かにお話される菊枝さんのどこにこのようなバイタリティーあふれる歴史を刻まれるパワーが潜んでいたのだろう。
ご自身の思うとおりの人生を大好きなパリで全うしたキクちゃんに心からのエールをおくりたい。