2019年12月1日日曜日

アフリカの頓智話~夫婦のお話

今回は、モシ族の女性から聞いた、大人のための笑い話と言うか、頓智話です。

ブルキナファソのカッセーナ族の家~月刊たくさんのふしぎ4月号より(福音館)


以前わたしたちが住んでいたアフリカの国で聞いた話で、3年経っても子宝に恵まれない女性が夫のほうから離婚を切り出された~というのをわたしが一人のブルキナべ(ブルキナファソ人)に言ったことから話題に上ったのでした。
その女性は離婚したくなかったから病院で検査を受けたけど妻側に何の問題もなく、夫に検査を受けに来るように医師から言われたことを話すと、夫は病院に行こうとせずに、妻に問題があるのだと主張して、結局、離婚したのです。(かのじょは、元夫はどんな女性と何度結婚しても子どもはできないのよ~とほくそ笑むのでした。)
アフリカでは、夫の権力は絶大な上に子どもを産めない女性は妻の座から追われるというのは今も続いていると言います。
ブルキナべの女性は、さもありなん、と言う表情をして、一つの頓智の効いた話を持ち出しました。
これはモシ族に伝わる頓智話かどうかは知りませんが、イスラム教徒の家族の話です。

イスラム教徒は妻を複数養える力さえあるならば、4人まで妻を持つことができるのだそうです。そして、家族の中で夫の存在は大きく、女性は結婚しても夫に従順で、子宝に恵まれない場合それは女性側に非があると考えられて、女性は離婚やむなしという弱い立場にあるのだそうです。現在は、いくらか改善されてきていると聞きますが、なんだか戦前の日本の家族社会のように映ります。

ある村に、二人の妻を持つ男性が住んでいました。最初の妻との間には5人の子どもが、2番目の妻との間には3人の子どもがいました。そして、もうそんなに若くはない男性は3番目の若い妻をもらいました。
その3番目の若い妻との間には結婚して3年経っても子どもができませんでした。
子どもを産まずば実家に帰されると心配した生真面目な女性は思い詰めて、ひとりで病院に行きました。そこの病院には、最初の妻の長女が医師として勤務していました。自分とそんなに年齢も違わない父親の第3夫人に当たる女性を診察し検査を担当した医師は、第一夫人の長女でした。
深刻に悩む女性(父親の第3夫人)を診察し検査して出た診断は、かのじょには全く問題なしと言うものでした。
第3夫人は医師に言いました。わたしの夫と第1夫人の間にも第2夫人との間にも子どもがいるのに、わたしとの間に子どもができないのはわたしに問題があるに違いない、その診断は間違っていると、医師に食い下がりました。医師(第1夫人との間の長女)は、夫のほうの検査をしてみましょうと言いました。
第3夫人は夫に病院に行って検査を受けるように懇願しましたが、頑として夫は受け付けません。何故わたしのほうに問題があるのか!、わたしと妻たちの間には8人もの子どもがいるのだから、おまえに問題があるのは明らかではないか!
第3夫人は医師に夫が検査を拒否することを話しました。医師は、その男性の長女ですから、父親に、もうあなたは年齢的に持病が出てきてもおかしくはありません、早期治療が大切だから、一度検査を受けたほうがいいと促し、父親の一般内科の受診に成功し、隠密でその検査に生殖機能を調べる項目も入れたのです。
すると、なんと男性の生殖機能に問題があったのです。

では、どうして第1夫人と第2夫人との間には子供が授かったのでしょう・・・。

帰宅した女性医師は、母親に詰め寄りました。
わたしの父親は誰なのかと。
医師の母親(第1夫人)は結婚後に夫のほうの問題に気付いて、このままでは子宝に恵まれないことを自分のにせいにされて離縁されると思って、よその男性と関係をもって5人子どもを作ったのでした。第2夫人もそれに気づいて、何食わぬ顔をしてよその男性と関係を持って3人の子どもを授かったのでした。
でも、第3夫人はまだ若く生真面目で、2人の先妻たちとの間にも気兼ねがあって、夫の無能に気付かずに、ただ独り真剣に悩んで病院に行ったのでした。

さて、その第3夫人はその後、どのような行動に出たかはわかりません。
平和にことなく第3夫人として地位を保てたことを祈りましょう。


2019年11月30日土曜日

月刊「たくさんのふしぎ」家をかざる 2019年4月号

月刊たくさんのふしぎ2019年4月号~家をかざる(福音館)

先日、日本からのお客さまを迎えました。
何でも持って行きますよ、と言う言葉に甘えて、ネットで注文(本当は本屋で買いたかったけどやむを得ず)して、数冊持ってきてもらいました。
思いもかけず、以前に注文しかけてそのまま”買い物かご”に入ったままだった月刊絵本、「たくさんのふしぎ」が入っていました。
そうだった。
ブルキナファソに来てすぐ、たくさんのふしぎ4月号は世界の家の特集号で、しかもその中にブルキナファソの家が紹介されていると知って買おうとしたけど、あきらめてそのままになっていたのでした。

今回こうやってわたしの手元に届いて、ご縁とはこういうものなのだなあ、としみじみ思うのでした。

ユーラシア大陸から6か国、中東から1か国、アフリカから2か国、南米から3か国の家がたくさんの美しい写真とともに紹介されています。

アフリカ地域はモロッコとブルキナファソです。
ブルキナファソからは、南部のガーナ国境近くのカッセーナ族の家が図解入りで紹介されています。
一夫多妻制の大家族の家です。庭では毎夜、子どもたちは、年寄りたちが語るおもしろい話、怖い話、悲しい話に満天の星の下で耳を傾けるのでしょうか。
”土かべにもようがある家”として紹介されています。家に色を付けるのは女性たちの仕事なのだそうです。
この辺りは、ブルキナファソの人たちが今も敬愛し続けるイエネンガ姫の出身地でもあります。




わたしたち家族が最初に暮らしたネパールの家も紹介されています。カトマンズではなくて、南部のジャナカプールという町です。
夫が若い頃に滞在したモロッコやイエーメンの家も載っています。

中央アフリカ共和国に暮らした時に家族で訪れたピグミー族の家~葉っぱだけを何層にも固めて作られた”葉っぱのかまくら”の家を紹介できたらなあ、なんて空想しました。

写真と文は、世界中を旅する写真家の小松義夫さんです。
本当に写真がきれい!
わたしの永久保存の本になりました。

2019年10月28日月曜日

モシ族の口承物語~母を亡くした女の子の話


ポストカードの母子の手書きの絵

今日もまた、夫の事務所に勤務するモシ族の女性から聴いた、かのじょのおばあさんの口承話の中のひとつを書こうと思います。

以前にもお伝えしましたが、かのじょのおばあさんはすばらしい語りの名人で、短い話、長い話を織り交ぜ、その中にはお腹を抱えて大笑いをする話、教訓めいた話もあれば、森に潜む悪霊の話で怖がらせたり、悲しい話で皆で涙を流したり、バラエティー豊かな話で飽きることのない夜をちろちろと燃える火の明かりの下で過ごしたと言います。


昔々の話です。
ある村にPokoという小さな女の子が住んでいました。
Pokoは、優しいお母さんに育てられて、心根の優しい女の子に育っていきました。
しかしある日、お母さんはまだ幼い我が子を残して、病気で死んでしまうのです。
Pokoは悲しくて寂しくて心の穴をふさぐことはできませんでした。

まもなく、お父さんは新しい奥さんを迎えました。
Pokoの新しいお母さんはとても意地悪で、Pokoをこき使って一日中働かせました。
ご飯は少ししか与えず、家の中の一切をPokoにさせたので、Pokoはだんだん痩せていきました。
Pokoは優しかった自分の本当のお母さんを思い出しては泣いていました。
悲しくて悲しくて、どうしようもなくなったPokoは、ある晩、お母さんが埋められているお墓(この国は土葬です)までひとり歩いていきました。

お母さんのお墓にすがってPokoは泣きながら、お母さんに日々のつらい暮らしのことを話し続けました。
すると、お母さんの優しい声が聞こえてきました。

お母さんは、いつも、あなたのそばにいるよ。
あなたのそばで、いつも見守っているよ。
そのことを忘れないで。
安心しなさい。

その晩、Pokoはお母さんと歌って、ダンスをして一晩を過ごしました。
お母さんの愛情をいっぱいもらったPokoは気持ちが満たされて心が和らいでゆくのでした。
そして、Pokoは勇気が湧いてきて、家に戻りました。

家に戻ったPokoを継母は怒ってせっかんして、どこに行ってきたのか、何をしていたのかと問いただすのでしたが、Pokoは絶対にその晩、母と過ごしたことを言いませんでした。

Pokoは、悲しくなるとお母さんのぬくもりを求めてお墓に行き、お母さんと一晩を過ごして慰められて勇気をもらって、また家に帰るのでした。それは、Pokoの誰にも言わないお母さんとの秘密でした。
母の面影を求めて母が埋められたお墓まで行き、母の魂と共に安らかな時間を持つということは、幼いPokoには何にも代えがたいことだったでしょう。

こうして年月は流れて、Pokoは心も姿も美しい女性になってゆきました。
そんなPokoの話を聴いた近くの小さな国の王様は、Pokoを息子のお嫁さんに迎えることを決めました。
Pokoと小王国の王子さまは結ばれて結婚しました。
そうして、Pokoは幸せな家庭を持ちました。
~とさ。

モシ族の女性は、このおばあさんの話を聴きながら一緒になって悲しみ、泣き、そして、最後に主人公の女の子が幸せな結婚をしたと聞いて胸をなでおろして、皆で喜び合った、とわたしに話してくれました。
口承物語のすばらしさを思いました。

2019年10月25日金曜日

それぞれが人生の主人公

岸田衿子さん訳の「赤毛のアン」を読みながら、脇役の人々の描写にも想いが移っていった。
アボンリーで人生を生きた、脇役の登場人物たちにスポットを当てて、かれらを主人公にして、それぞれの人生を描いたシリーズがあったことを懐かしく思い出す。

村岡花子さん訳のアンシリーズ10冊+1冊(後にかのじょの孫にあたる村岡美枝さん訳で、「アンの想い出の日々」が2009年に出版されている。)の中の、「アンの友達」と「アンをめぐる人々」だ。(もうずいぶん昔に読んで、記憶もあやふやなのだけど・・)











この短編たちにも感動したなぁ。ああ、人それぞれに人生があり、それぞれが人生の中の主人公なのだ、と強く思った。


そんな想いが綴られて歌になったものがある。
さださん(さだまさし)作詞作曲で、自身で歌う「主人公」だ。

さださんがソロ活動を始めて初期の歌と記憶しているから、わたしが長崎の大学に入学して独り暮らしを始めた頃だっただろうか。
大人になって、歳を重ねるたびにさらにしみじみ心に響いてくる歌だ。


 ”主人公”
 時には思い出行きの旅行案内書ーガイドブックーにまかせ
 「あの頃」という名の駅で降りて 「昔通り」を歩く
 いつもの喫茶店ーテラスーには まだ時の名残りが少し
 地下鉄ーメトローの駅の前には 62番のバス
 プラタナスの古い広場と 学生だらけの街
 そういえば あなたの服の模様さえ覚えてる
 あなたの眩しい笑顔と友達の笑い声に抱かれて
 わたしはいつでも必ずきらめいていた

 「或いは」、「もしも」だなんて あなたは嫌ったけど
 時をさかのぼる切符があれば 欲しくなる時がある
 あそこの別れ道で選びなおせるならって
 もちろん 今のわたしを悲しむつもりはない
 確かに自分で選んだ以上 精一杯生きる
 そうでなきゃ あなたにとても とてもはずかしいから
 あなたは教えてくれた 小さな物語でも自分の人生の中では
 誰もがみな主人公
 時折 思い出の中であなたは支えてください
 わたしの人生の中では わたしが主人公だと


詩の中の、わたしとあなた・・・。
どんな立場で書かれた詩なのか。
自分の中の、昔の自分と今の自分。
それとも、わたしと、亡くした大切な人。


さださんが何かの本の中で語っていたことを、わたしは書き留めていた。

「・・・だから僕は、人は必ず選ばれて生まれてきたのだと信じたいし、
だからこそ、生きてゆくことに誇りを持ちたい。
自分が主人公であるという考え方はとかく”利己”を感じさせる危険な言い回しですが、
生きてゆく強さを奮い立たせるために必要な起爆剤だと思ってください。
自分の人生はドラマであると信じることが、時として自分の不幸を救うこともあるのです。
『せいいっぱい生きる。
そうでなきゃ、あなたにとてもはずかしいから。
あなたが教えてくれた。
小さな物語でも、
自分の人生の中では だれも皆、主人公。

”わたしの人生の中では わたしは主人公だと”』」
 

2019年10月19日土曜日

岸田衿子訳 赤毛のアン





岸田衿子さん訳の「赤毛のアン」に陶酔して読了。
アンがわたしのすぐそこに生きていて、アンの息遣いまで聴こえてくるような訳のすばらしさ。

挿絵は、安野光雅さん。
わたしの想像の邪魔をしない、軽いぼぅーっとしたタッチがまたわたしに嬉しかった。




この、岸田衿子さん訳の「赤毛のアン」は、なんと、以前我が家に毎月配本されて本棚に鎮座してわたしをじぃーっと見つめていたあの「少年少女世界文学全集」の第9巻(1969年刊行)に入っていたものだった、と読み終えて知った。
またまた、わたしの「少年少女世界文学全集」への後ろめたいような後悔の念が疼いた。
小学校高学年のときはほとんど見向きもせず、毎月我が家の本棚に増えていく全集を重荷にさえ感じていたものが、実は物語の宝庫だったのだと知った時の気持ちが再び蘇ってきた。(今はもう実家の本棚には残っていない。)

岸田衿子さん訳のこの本の一番の魅力は、アンの天真爛漫さ、想像力の豊かさが訳の全体にこぼれあふれていることだ。
さらにこの本の随所にマシュウ、マリラの人柄、気持ちも控えめに(でもきっと的確に)描かれているからこそ奥深く感じ取れる”人生の機微”が確かに存在している。(これは、歳を取った今だからこそ、読み取れるものであったかもしれないが。)
なんと魅力的な人たちだろう。

これは、わたしの人生の最期にもう一度、しっとりと読み返したい本だと思った。
また一冊、わたしの「最期の日々のための本棚」に加わった。

岸田衿子さんは詩人として知られる。
彼女と懇意なお付き合いがあった安野光雅さんは、このような訳本の仕事を残していたとは知らないまま、また彼女も一言も言わないまま亡くなったことが、近ごろ、こんなに惜しいと思ったことはない、とあとがきに書いている。
もし知っていたら、「あれはすばらしい本だった」と一言、彼女に告げたかった、と。

さらに、安野光雅さんはあとがきにこう付け加えていた。

”これは、アンのすぐれた想像力を大人も忘れないようにするために、読むべき一冊の本である。”

2018年6月初版第一刷発行。朝日出版社より。

2019年10月8日火曜日

お月さまの中に見えるもの~中央アフリカ共和国の伝説


ゴンボウ畑の母と子(2019.10.3 夫撮影)

夫の事務所に勤務する、中央アフリカ共和国出身の技術者が話して聴かせてくれた、お月さまの中に見る母子のちょっと悲しい物語です。
かれの祖父母からこの話を聴いたそうです。


いつもと同じように、ひとりの婦人が背中に赤子をおんぶして、頭に籠を載せ、犬を連れて野良仕事に出ていました。犬は、畑の作物を見守ってもらうために連れて行くのです。
そうして、また、いつものように夕暮れ時に家へ戻るのでした。

ところが、ある日、いつまで経っても妻たちが戻ってこないのを心配した夫は、妻たちがいつも戻ってくる道を探しに行きました。どこを探しても、妻たちは見つかりませんでした。
悲しみに暮れる夫は、毎日毎日、妻たちの帰りを待ち続けました。

そして、ある満月の夜、ふっと見上げたお月さまに、赤子を背負って、籠を頭に載せ、犬を引いた妻の姿を見つけました。

ああ、あんなところに、妻がいる。


それから、村の人たちは、籠を頭に載せたひとりの婦人が赤子をおんぶして一匹の犬を連れた姿を月の中に見るようになったということです。

今でも、中央アフリカの人たちに伝わる話だということです。


この話を以前、わたしのブルキナブログの”満月の中に見えるもの~アフリカ編”の一部に載せましたが、今回、夫がゴンボウ畑(オクラの畑)にたたずむ婦人の姿を写真に収めてきてくれたので、絵本屋ブログのほうに、一つのお話として載せます。

2019年10月6日日曜日

サワドゴ一族の秘伝

10月の声が聞こえ始めた途端に立て続けに雨が降りましたが、雨季もそろそろ終わりだとワガドゥグの人たちは言います。

そういう雨季から乾季へ移り変わろうとする時期に、二人のサワドゴさんに聴いたちょっと不思議でファンタジックな話をしたいと思います。


2019.7.29.雨季の我が家近くの朝(夫撮影)


ブルキナファソの人たちの姓のひとつである”Sawadogo~サワドゴ”、はモレ語(モシ族の言葉)で"nuage~雲”という意味を持つのだそうです。
そして、”サワドゴ Sawadogo ”という姓を聞いただけで、すぐにモシ族だなと解かります。

わたしは初めてサワドゴさん、と言う名を聞いたとき、サワガニの床屋、みたいな響きを持つこの名前がとても気に入りました。そして、あちこちにわさわさとサワドゴさんがいることに気づきました。
サワドゴさんはモシ族の中で最も一般的な姓(le nom de famille)のひとつなのです。


まずは雨季のときのサワドゴ一族のパワー(la puissance)からです。

サワドゴ一族は「雲になる」ことができました。
昔々、サワドゴ一族の村とよその村で戦いが起こったとき、サワドゴ一族は雲になって敵から逃れることができましたし、また、雲になって敵地へ行き強風や大雨を起こして何もかも根こそぎ全滅破壊することもできたということです。畑の大切なキビやトウモロコシまで被害にあうと一族にとっては一大事です。
そして、サワドゴ一族はいつも勝利を収めたのだそうです。

もう一つ、乾季の時のサワドゴ一族のパワー(la puissance)です。

かれらは、乾季の村で強い縦長の風が巻き起こると、その風に乗って旅に出かけることができました。

遠くの村でもよその国でも、普通だったら汽車、バス、バイク、飛行機で3日かかるところを風と共に2時間ほどでぴゅーっと目的地に到着できたというのです。
足取りも危うげな年寄りの人でさえも、さっと旅に出て何日でも滞在できて、また風と共に帰ってきたのだそうです。
なぜだか、目的地には夜に到着するのだそうです。
風に乗って旅をする・・・考えただけでわくわくします。
そういうパワー(la puissance)をサワドゴ一族の男衆(限定とか)は持っていて、代々、秘伝として伝わっていたのだそうです。
現在のワガドゥグでは、建物が立ち並び空き地がないから、強い縦長の風を見ることはできないと言います。でも、乾季の村落部では、家もまばら、木もカラカラで草さえ生えていないから、今でも、乾季の頃は大きな縦長の風(竜巻のことなのかなぁ)が起こり、ああだれかが旅に出たなと思うのだそうです。
1月、2月、3月、4月が縦長の強風に乗って旅をする季節だと言います。

さらにおもしろいことを聴きました。
強い縦長の風が起こると、誰かが風に乗って旅に出たんだと皆が思っていたということですが、その風の中にいる旅人を2つの方法でこっそりと見ることができるというのです。
風に乗って旅に出るのは秘伝だし家族にさえ秘密裏に行われることなのだから、決して旅人を覗き見る行為は良くないことだということですが。
 一つは、古いひょうたん(la calebasse)が欠けてそこに空いた穴から、もう一つは針の穴から風の中の旅人の姿を覗き見することができるのだそうです。
禁止された行為であっても、やっぱり知りたくなりますね。

お話を聴いたひとりのマダム・サワドゴさんは、小さい頃に強い縦長の風が起こると、パワーを持った人が通るから家に入りないと大人たちから言われていたそうです。そして、かのじょは固くそれを信じていたから強風が起こると慌てて家に入ったそうです。
パワーを持った人が通り過ぎるとき、病気になると信じていた、ここの人たちは「風」は悪い運気をもたらすと信じていた、と言うのです。
目、口からウィルスが入って病気になるというよりも、不思議な風のパワーが悪いものを運ぶと考えていたのだなと感じました。
 
二人のサワドゴさんも、モシ族だけど姓の違うわたしのフランス語の先生も、アフリカには家族に伝わる秘伝が昔から多く存在したと口をそろえて言います。
そういう、一族に代々伝わる不思議なパワー(la puissance)の秘法は長男にだけ伝えられたそうです。
特に妻たちはよそから嫁いできた血縁の無い身、そして娘たちもいずれは他家へ嫁ぐ身。女性はいつもどの場にいてもよそ者(l'etrangere)だったのだと低身分の弱い立場だったことを強調します。
そんなわけなのか、昔は女性も男性も特別なパワー(能力)を持っていたのだけど、今では、ある年代以上の、その存在を信じる男性だけがパワー(能力)を駆使できるのだそうです。

また、その秘法は決して”魔法”などではないとかれらは言います。
それをかれらは、"パワー(la puissance)とわたしたちの文化(la culture)が結合したもの"とも言い換えました。
そして、”サワドゴ一族のニョンニョンセ(gnongonse)」”という言い回しもします。
「ニョンニョンセ」とは、”le puissant, 能力のある者、強者。”かれらの言葉、モレ語なのでしょう。
これらのパワー(能力)は秘伝を信じ守る世代だけが駆使できると考えられていて、二人のサワドゴさんたちは、今もニョンニョンセの存在を信じているときっぱり言いました。
小さいときから信じていたものをずっと持ち続けるかれらの純粋さ。
わたしも信じてみたくなりました。

わたしたち一家が中央アフリカ共和国のバンギに住んでいた時に毎晩母子で楽しみに読んだイギリスの物語『飛ぶ船』(ヒルダ・ルイス著、岩波書店)をわたしはふっと思い出しました。
4人の弟妹の一人が街角の古物商の店で手に入れた小さな帆船が、かれら弟妹を時空間を飛び越えていろいろな時代のいろいろな場所へいざない、冒険をするという物語なのですが、物語の最後で、かれらも成長して大きくなって、外の世界へ目を向けるようになって、飛ぶ船の持つ不思議なパワーのことがだんだんかれらの記憶から遠のいてゆき、”飛ぶ船”も、普通の帆船の置物となったのです、と話は結ばれていました。
大人になってこの物語を読んだわたしには、大人になると大切なものを失うのだなあ、ととても寂しく思ったものです。

アフリカの二人のサワドゴさんたちが、かれらのパワーを信じていると言い切ったとき、忘れてはいけないものを思い出したようで、胸がどきん!とひとつ高鳴りました。

2019年9月30日月曜日

西アフリカの鳥の図鑑の本~”Oiseaux de l'Afrique de l'Ouest”



とうとう入手しました。
アフリカの鳥の図鑑の本を。
中央アフリカのバンギにいたときから、思い続けて約20数年。

”西”アフリカの鳥の図鑑ですが、しっかり、バンギ時代の鳥にも、キンシャサ時代の鳥にも、この図鑑の中で再会することができました。


ワガドゥグの中心地区にある大きなおしゃれな本屋で、鳥の図鑑が欲しい、解説付きできれいな写真付きの図鑑が、と店員さんに尋ねると、あなたの所望する図鑑がついこの前までこの棚のこの辺りにあったのだけど、最近売れてしまったわぁと言われました。
がっかりするわたしに、あと2か月したら再注文の本が届くから待っててと声をかけてくれました。
そして、きっかり2か月経って本屋に行くと同じ店員さんが、荷物が届いたばかりで2,3日うちに開封して店に取り置いておくから連絡先を教えてと言われたのです。
本当に翌々日に連絡をくれて、すぐに受け取りに行きました。
それが、上の写真の本です。

ハードカバーではないにもかかわらず、本の厚みは2.5cmもあります。
きれいな写真に、分布地図まで載っています。
ページ数は500を超えています。

もう嬉しくなって、毎日毎日ページをめくって眺めています。
初版はロンドンの出版社から2001年に”Birds of Western Africa”の題で出版され、その後、パリの出版社”Delachaux et Niestle”から第3刷のものが4年ぶりに2019年6月に出版されたばかりなのでした。
なんというめぐりあわせ!

西アフリカ23か国の、1308種類の鳥たちを148色を使って印刷していると書かれています。




これは裏表紙です。

ちょっと高価でしたが、一生大事にするからと夫にも承諾してもらいました。
アフリカの鳥の本が欲しいというわたしのことを覚えてくれていた本屋の店員さんにも感謝です。





くちばしの長い、体は黒色だけど胸のところが赤と緑でとてもきれいな鳥。
この鳥が、バンギ(中央アフリカ共和国の首都)の我が家のアパートに寄り添うように立っていた高い木の枝にとまって夜明け前からパッピエポッ、ピッ!と繰り返し鳴いていましたっけ。
”souimanga”~”タイヨウチョウ”の種類の一つだと解かりました。

また同じアパートで、夜に「お母さん、ベランダの所に”ほくろう”がとまっているよ。」と息子が気づいて、家族でそーっと覗くと大きな”ふくろう”だったという、思い出のふくろうもたくさん載っています。



キンシャサゴルフクラブは町の中心地にあるにもかかわらず、豊かな緑とあちこちに点在する多くの池があって、鳥たちの宝庫でした。




こんな青い鳥、コルドンブルーもよく見かけました。




赤と青と黒が鮮やかなカワセミも、キンシャサゴルフ場にいました。
フランス語では、”martin-pecheur”~朝の釣り人。なんと詩的なネーミングだろうとうっとりしたことを思い出します。
ゴルフ場を飛び交っていた、グレーの体にきれいな朱色のしっぽを持つコンゴインコ、”perroquet jaco”もしっかり載っています。


ワガドゥグではきれいな小ぶりの鳩が飛んでいますが、この鳥図鑑には鳩のことも詳しく載っています。
夫の事務所に勤務する女性から聴いた、彼女の家族に伝わる鳩への恩返しを思い出します。ワガドゥグで見つけたアフリカンプリントの柄にも鳩が使われています。




バンギにいたときのこと。
夜中には「ゲギョ・・」とか「ホ・ゲギョ!」とか下手な鳴き方しかできなかったうぐいすが、何度も何度も練習を繰り返して、なんと明け方には「ホー・ホケキョ!」と立派に鳴けるようになったという思い出も忘れられません。
夫は、わたしが夢を見たのだと言い張りましたが、ケニアに長期滞在していた、やはり鳥の大好きな日本人の方が、ケニアにもうぐいすが確かにいましたよ、と証言してくれたので、今、この図鑑で一生懸命探しているところです。

日本でもおなじみの、すずめ、からす、つばめ、鶴。いろいろな種類があるのですね。
仏語辞書で調べても見つけられない鳥の種類もあります。
根気よく、この本と仲良くなって調べてゆきたいと思います。

2019年9月23日月曜日

イエネンガ姫の絵本を見つける



ついに、イエネンガ姫物語の絵本を発見しました。
ワガドゥグ在住の日本人の友人が見つけてプレゼントしてくれました。

”Yennenga La Princesse de Dagomba”という題名で、2016年にガーナの Sub-Saharan Publishers という出版社から出されたものです。
しかも、ガーナ人の作、絵で、訳者(ガーナの公用語は英語)はコートジボワール人という、すべてがアフリカで完結された絵本なのでした。感動ものです!
文:Eric Bawah
絵:Edmund Opare
編者:A.Ofori-Mensha
仏訳:Fatoumata Keita

そのためでしょう。
素晴らしいデッサン力で描写される内容は濃く、西アフリカに伝わる文化がちりばめられているように思います。



これは、イエネンガ姫が愛馬にまたがり弓槍を駆使して戦う場面。かのじょの戦闘服に見入ってしまいます。





これは、イエネンガ姫が母となり、深い母性愛で息子のウエドラォゴの成長を夫と見守る場面。ページごとに広がる背景にも興味がわき、西アフリカ出身の画家だから描けた場面だと思います。

息子が成長してイエネンガ姫の父に受け入れられて、のちに立派になって、多くの騎兵隊を引き連れて故郷に戻る場面も壮大です。


なぜ、イエネンガ姫の物語を隣国であるガーナの出版社が扱ったのか。
これにも頷けます。

イエネンガの父親はガンバーガ出身と伝えられています。
この絵本の表題、La Princesse de Dagomba(ダゴンバの王女)、とあるように、イエネンガの父親はダゴンバ王国の王様、首長と言い伝えられています。
”ガンバーガ”という土地はダゴンバ王国の首都ととらえられ、これらの地域は、今でいうガーナ北部地域を指すのだそうです。
イエネンガ姫から脈々と繋がるモシ族をはじめとするブルキナファソに広がる子孫、イエネンガ姫に繋がるダゴンバ族、マンプルシ族、ナヌンバ族(この部族たちはガーナに広がっているものと思われます。)は、現在もイエネンガを”我らの母”と考えて尊敬し、ともに兄弟姉妹、従兄弟のように考えて仲良く共存している、と物語は結ばれています。

また、最終ページの補足書きには、ブルキナファソとガーナの地図が(国境線こそ引かれてはいますが)同じ色で塗られていて、まるで一つの国のように描かれています。
ガーナ北部のほうの人々とブルキナファソの人々は、ともにイエネンガ姫を母と仰いで繋がっているのだと再び書かれています。(イエネンガの孫たちの子孫は更にブルキナファソの北部や東部に広がっているのですから。)

この補足書きを読んでも、ガーナとブルキナファソの国境線は英仏が勝手に植民地時代に引いたものなのだと憤りさえ感じます。今では、英語を話す国とフランス語を話す国になってしまってはいますが、両国間には現在もバス便やトラック便が頻繁に行きかって、深いつながりを持っていると感じ取れます。

アフリカの人たちによる、アフリカの物語の絵本。
こんな絵本が、アフリカの子どもたちのために出版されていくといいなあ。

さらに補足書きには、ワガドゥグ市内にはイエネンガ姫の像が建てられ、ブルキナファソのサッカーナショナルチーム名は、「Les Etalons」(仏語で”牡馬”の意味。イエネンガ姫の愛馬を意味する。)であり、また、ワガドゥグで2年に一度開催されるアフリカ映画祭”FESPACO”のグランプリ受賞監督には愛馬にまたがって戦うイエネンガ姫の雄姿のゴールドトロフィーが渡される、と言うことも書かれて、いかに今でもイエネンガ姫が皆に尊敬され続けているかを紹介しています。


2019年9月14日土曜日

お月さまの中に見えるもの

日本はもう9月14日ですね。
こちら、ワガドゥグでは、9月13日夜を迎えました。
我が家の窓からは、満月(の1日前?)が見えなくて残念!
今年は、日本では9月13日が中秋の名月。そして、翌日の14日が満月になるのだそうです。ワガドゥグも日本より9時間後(時差分)に中秋の名月、満月となるのかな。

日本では、月と農業は深い繋がりを持っているそうです。人間の体のリズムとも繋がっているとも言います。
日本では明治5年まで太陰太陽暦(太陰暦)が使われていたと知りました。




さて、日本人は、満月の中でうさぎが餅つきをしていると考えますね。
もちろん、わたしもずーっとそう思って月を見ていました!

30年近くも前に、家族で中央アフリカのバンギに暮らすことになったとき、貴重な荷物のスペースを使って、天体望遠鏡を持って行ったことを思い出します。
北緯35度の日本と、北緯4度のバンギでは、絶対に月の模様が違って見えると信じて疑わなかったわたしは、家族でそれを実証しようと思ったのです。
まったくごくろーさん、な話です。
確かに、夜、庭に望遠鏡を持ち出して観た満月の模様は違っている!、と夫や子どもたちと言い合って感動したものですが、今となってはそれが本当だったのかどうか、疑わしく思ったり・・・。科学的にはどうなのでしょうねえ。

日本だけでなく、中国、韓国でも月にうさぎがいるという言い伝えが存在しているようです。ただ、中国では、うさぎが杵臼でついているのは薬草だと考えるのだそうです。
他のアジアの国を調べてみると、インドではワニが、インドネシアでは編み物をする女性が見えるのだとも書かれていました。

ヨーロッパ北部では本を読む女性。ヨーロッパ南部では大きなはさみを持つカニ。ヨーロッパ東部では髪の長い女性。
アラビアでは吠えるライオン。
カナダではバケツを運ぶ少女。アメリカ南部ではワニ。南米ではロバ。

やはり緯度が違うと、見え方も違うのでしょうか。それとも、その土地、土地で育まれた文化、感性の違いかな。ふしぎです。


さて、アフリカの人たちには、どのように見えるのでしょう。

コンゴ民主共和国のキンシャサの人たちに尋ねると、母親が子どもをかたぐるましている姿だと考える、とこたえました。
マリ共和国のトアレグ族の女性に訊いたときには、おばあさんが繕い物をしている姿ととらえられているそうです。
そして、ここ、ワガドゥグのモシ族の女性に訊くと、赤ちゃんにおっぱいを飲ませる母親がいると考えるのだそうです。
なんとおもしろい!!!

このように、アフリカで訊いた3か国の人たちは、月の中に”女性”を見ています。
インドネシア、ヨーロッパ北部、東部、カナダでも月の中に女性を見ています。
フランス語で月のことを ”La lune” と言い、女性名詞です。
こんなことにも興味がわきます。

ワガドゥグの人たちに、日本人には月にうさぎがいて餅つきをしている姿が見えるんだよと説明すると、目をまん丸にしてびっくりされました。
トアレグ族の女性は、おばあさんが繕い物をしているのが見えるお月さまの歌もあると言っていましたが、キンシャサにも、ワガドゥグにも(わたしが訊く限り)月の歌はありませんでした。(そもそも子どものための歌というのがどちらの国にもないように思います。)日本にはお月さまの歌がいくつかあるよというと、これまたびっくりされました。盆踊りの歌にまであるよ、とは言いませんでしたが。

また、日本人には平安時代に中国から入ってきたといわれる”お月見”の風習がありますが、アフリカのこの3か国では月をめでるという文化は存在しないようです。

わたしは、もっともっとアフリカの人たちに「月の中に見えるもの」について聴き取っていきたいと思います。

2019年9月6日金曜日

一族に伝わる森鳩への恩返しの話

ワガドゥグ暮らし初期に滞在したホテルの庭によく鳩が来ていた。(2019年3月)


これもまた、夫の事務所に勤務する、モシ族のジナボさんから聴き取った話です。

この国の人たちは、鶏肉を食べるのと同じように、鳩の肉も好んで食べると聞きますが、ジナボさんの一族の女性たちは決して鳩を食べないというのです。
なぜなのでしょう。


話は、かのじょのひいひいひい…おばあちゃんが長旅に出た場面から始まります。

旅の途中で、ひいひいひい…おばあちゃんは、持ってきた食べ物も水もなくなってしまいました。疲れ果てて、しばらくバオバブの木の下でやすんでいました。これ以上歩けなくなってしまったのです。

そこへ、一羽の森鳩(le pigeon de brousse)が飛んできました。
ひいひいひい・・・おばあちゃんが疲れきってすわっているのに気づいた森鳩は川へ行き、一枚の葉に水を入れて、ひいひいひい…おばあちゃんのところへ何度も何度も運んできてくれました。
少しずつ、少しずつ。
一滴、二滴…と森鳩が運んできてくれた水を口に含んで、ひいひいひい…おばあちゃんは少し歩けるようになり、森鳩のあとについて行って川のあるところまでやってきました。
そして、水を心ゆくまで飲むことができたということです。


ひいひいひい…おばあちゃんは、この一羽の森鳩のおかげで助かったのだと心から感謝しました。
そして、水を葉っぱに入れて少しずつ運んできてくれた森鳩の優しさは、子どもたち、孫たちに代々語り継がれて、ジナボさんの一族の女性たちは、けっして森鳩を食べないのだということです。

これはジナボさんの一族の中だけに伝わる森鳩への恩返しなのだそうです。
ジナボさんは、4人の兄弟と2人の姉妹のいる7人きょうだいだと言います。
7人とも、この話をかのじょたちの、語り上手なおばあちゃんから聴いたということです。
おばあちゃんの語り口が素晴らしかったのでしょうか。ジナボさんの知っている限り、ジナボさんのお父さんも兄弟たち男性でさえ鳩を食べることはなかったそうです。
ジナボさんは、おじいちゃんのことは覚えていないと言います。

日本の昔話にも恩返しの話はありますが、恩返しをするのは動物たちのほうですね。
恩返しを受けるのは、人間です。
でも、アフリカでは、動物たちがしてくれたことへの恩返しを子孫後裔までし続ける人間たちの話が多く伝わるのだそうです。それも、一族にだけ伝わる恩返しの話が。

それは、また次の機会に回しましょう。

2019年8月13日火曜日

アフリカの歴史を読む

アフリカの歴史;仏語圏西アフリカの歴史の教科書(左)と日本で編まれた「新書アフリカ史」(右)

 このワガドゥグに暮らし始めて、ブルキナファソのモシ王国の歴史を知り、マリ王国の建国物語を知り、西アフリカには王国が林立していたことを知ると、俄然、アフリカ全体の歴史を知りたくなってきた。

高校生の頃、世界史を選択していたが、アフリカの歴史は類人猿の発見からすっ飛んで、ナイル川に栄えたエジプト文明へ、それからさらにすっ飛んで、バスコダガマが喜望峰を回ってインドにたどり着くときにちょこっと出てきて、気が付くと、歴史はさらに進んでアフリカはヨーロッパ列強の植民地に切り刻まれていた。そして1960年代に多くの国が独立を果たした。・・・それくらいしかアフリカ大陸のことは教科書に登場しなかった。

すごくよく覚えていることがある。
高校受験時に通っていた塾の先生がなぜアフリカは開発が遅れたと思うかと皆に質問をした。
先生は、アフリカの川には滝が多くて内陸へ進めなかったのだと答えたのだ。
今思えば、その発言はヨーロッパによる開発の視点でしかなかったと分かるのだが、暗黒大陸と言われた所以だと先生は言った。
それ以来、アフリカ大陸には太陽の光すら届かない鬱蒼としたジャングルが広がり、動物がうじゃうじゃ生息し、川には滝がたくさんあり、腰みのを巻いた黒人が森で暮らし、道路もない大陸だと想像した。ただ、小さいときからの百科事典の愛読ページだった”世界ダイヤモンド産出地図”を開いては、アフリカにはたくさんのきれいな石が埋まっているんだと思い込んでもいたから、わたしには光る大陸でもあった。

アフリカ大陸にも日本のような歴史が流れて今に繋がっていると思い始めたのは、キンシャサで伝え聞いた古い文化に触れてからのことだったかもしれない。植民地化される前のアフリカ大陸ってどんなだったんだろう。
そして、ブルキナファソに来て、モシ王国の話を聞いて、断然、イエネンガ姫の大ファンになった。イエネンガ姫の生きた年代を訊くと、13世紀とも14世紀とも(もっと古く12世紀?)言われていてよく分からない。(現在のモシ族の皇帝は37代目なのだそうだ。)
西アフリカ一帯のマリ、ガーナ、ベナンには多くの小王国が存在したと聞き、想像すると日本の戦国時代と重なってきた。
さらに、我が家の博学運転手から、イエネンガ姫は、ガーナ北部のガンバーガから家族と移り住んできたが、古く遡れば、かれらの祖先はエジプトとエチオピアの間の地域に起源を持ち、そこから移動して行ってチャド湖を経由してガーナのガンバーガにたどり着いたのだと聞いた。ホントかな?というと彼は、一冊の本を図書館から探してきてその中の一説を示してきた。仏語の先生に見せると、モシ族起源の話はひとつの伝説程度に留めておいた方がいいのではないかと言うことだった。ガーナのガンバーガから移り住んできたのは真実だと言いながら。もちろん、エジプトとエチオピアの辺りから移動してガーナにたどり着くまでには、民族の混じり合いもあったことだろう。でも確かに、モシ族の人たちは鼻筋が通って顔立ちがシャープだ。コンゴの人たちとは、ちょっと違う。エチオピアの人たちの顔立ちのシャープさと似ているようにも思う。”サハラ砂漠の民”といわれるトァレグ族もシャープな顔立ちだ。ルワンダのツチ族大虐殺時には、ツチ族だと判断するのに、鼻の高さ、幅を測ったという話を本で読んだ。ツチ族はエチオピアを起源とするとも書いていた。
こんな民族の移動にも興味が出てきた。そして、多くの部族語が存在することにも。


写真上左の西アフリカの歴史の本は、博学運転手がワガドゥグの図書館から借りてきた本のうちの一冊だ。西アフリカのそれぞれの国の起源が紹介されている。フランス語だから、ちょこちょこと拾い読みをして、ブルキナファソのモシ王国の箇所だけをコピーしたので更にじっくり読むつもりだ。この教科書の中にも、モシ王国建国の始まりにイエネンガ姫の記述があってわくわくした。


さて、写真上右の「新書アフリカ史」は大変興味深いアフリカ大陸全体の歴史が人類発見の遺跡調査のことから始まり、気候の変化、民族移動、そして現在判明している部族、種族の集団、王国のこと(アフリカの歴史は口承中心、音楽に合わせての語り部伝説もあり、また部族の長を神聖視化して国力を高めるための意図的な作られた歴史もあるという見方にも触れている。)から、アラブ人商人との関り、商人の移動と共に広まっていったイスラム教のこと、初期奴隷の実態などが年代に沿って解説されていた。それは内陸間の移動の時代だった。

そして、大航海時代がはじまり、東アフリカ沿岸から北東方向に吹く季節風の発見以来、東アフリカからインド、アジアへ物品移動が始まったこと。さらに、バスコダガマの喜望峰発見から始まるヨーロッパ列強の大西洋横断時代。
大陸横断時代から、海洋横断の時代が始まり、欧米各国でアフリカ大陸の重要性が増大していった道筋。植民地化が進むとともに、キリスト教布教も広がっていった。
欧米諸国から黒人は劣等人種だという意識を植え付けられていった過程も理解できた。その時代にあって、決して欧米諸国に屈しようしなかった部族(王国)もあったという記述の中に、モシ族の王、ウェボゴの記述も繰り返し出てきた。
19世紀、ウェボゴ王はフランスの要請を拒否して「わたしの国は白人など必要としない」と宣言したと紹介されている。(ウェボゴ、とはモシ族の言葉、モレ語で”象”を意味すると聞いた。)
ヨーロッパの時代の動きと重ね合わせて、アフリカ大陸の部族たちの翻弄する姿がはっきり見えてくるような解説だ。

このアフリカ史は、サハラ以南のすべての地域を網羅している。
東アフリカ、西アフリカ、中央アフリカ、南アフリカの国々の記述もそれぞれに興味深かった。
第1次世界大戦、第2次世界大戦を経て、欧米の力関係が変化し、アフリカ内でも劣性神話を打破しようとする動きが出てきた。そして、1960年代にアフリカ各国が植民地として分割されたままの姿でともかくも独立しようとする力強いうねりを迎え、その後に続く困難な時代の様子もしっかり見えてきた。
ザンビアのカウンダ前大統領が唱えた「植民地主義者が全大陸を分割して創ったぶざまな加工品から真のネイションを創り出す。」と言う言葉もむなしく、アフリカ各国は部族関係に悩まされて、国力をつけられずに疲弊していく姿もはっきり読めた。

長いアフリカの歴史の中で出来上がった土壌から、「慢性的な援助依存症候群と低開発症候群からの脱却」を図るためにどうすればよいのか。未だ、暗中模索の時代は続く。

TICADアフリカ開発会議が今月8月末に横浜で開かれるが、アフリカの国が自力で光を見つけてくれたらと願う。

この本は、日本の各分野のアフリカ研究者が分担協力して記述したものを宮本正興氏、松田基二氏が編纂して、1997年7月発行、2009年12月第6刷で、講談社から出ている。わたしは、この本をワガドゥグの日本大使館図書室で見つけた。

第6刷発行から10年が経つ。
この10年間の歴史を付け加えるとしたら、どのような解説が足されるのだろう。

2019年7月30日火曜日

モシ族の昔話~ごちそうにありつけなかったカエルの話

 これは、ケストナー作の絵本「どうぶつ会議」(岩波)の表紙の絵で、今日の話とは違います。ただ、森の動物の絵が欲しくて、ちょっと拝借しただけです。


絵本「どうぶつ会議」表紙(岩波書店)


森の動物たちが会議を開いている様子の絵の中にも、しっかり、ライオンもカエルも描かれていますね。


今日は、ブルキナファソのモシ族に伝わる、森にすむライオンたち動物とカエルの物語です。
この話は、わたしの夫のプロジェクト事務所に勤務するモシ族の女性(ワガドゥグ大学卒の知的な女性です。)から聴き取りました。
かのじょは小さいときからおばあちゃんが大好きで、話し上手のおばあちゃんからよく昔話を聴いて育ったと言います。特に動物が登場する話が多くて、その中でも、いちばんに思い出すのが、これから話す「ごちそうにありつけなかったカエルの話」だそうです。

かのじょは、おばあちゃんから聴いたたくさんの昔話を今ではすっかり忘れてしまったと言います。なぜ、おばあちゃんから聴いた話を書き留めておかなかったのだろうと残念に思うと話しています。これから母親になるであろうかのじょには、亡くなったおばあちゃんの昔話がとても大切なものに思われるのでしょうか。


さて、この話を始める前に、かのじょから聞いたモシ族の昔の習慣をいくつかまとめておきましょう。

まず、モシ族には食前にも食後にも手を洗う習慣があったと言います。周囲の大人たちから、いつも食事前と後には必ず手を洗うようにと言われていたそうです。

それから、食事の時、食べ物を直接手でつかんで食べる習慣があったそうです。しかも、右手だけを使ったそうです。左手はトイレや鼻をかむときなど汚れるものの時にだけ使ったそうです。(これは、ネパールにいた時に知ったネパール人の習慣と全く同じで、遠く離れたアジアとアフリカで、しかも宗教も違うのにとびっくりしました。)


では、モシ族の女性に聴いた、モシ族に伝わる昔話を始めましょう。


昔々、まだ森ではライオンが王様(le chef)だった時のこと。
ライオンは、おいしいものを手に入れると、森の動物たちをよく食事に招待していたそうです。
動物たちは全員2本の後ろ脚で立って歩くと考えていたそうです。
でも、かえるだけはそうはいきません。
両方の前脚、両方の後ろ脚を交互に使って、ぴょんぴょんと飛び跳ねて食べ物の並ぶところまで行かなければなりません。
他の動物たちは、きちんと前脚である手を洗って、後ろ脚である足で歩いて食べ物のところへ行って席に着きます。
カエルは、しっかり手を洗っても、食べ物の並ぶところにたどり着いたとき、必ず他の動物たちから注意されました。

手が汚いよ、ちゃんと手を洗ってから食卓に着くのが決まりですよ。

はーいと言って、カエルは手を洗いに行って、しっかりと手を洗います。
でも、食卓のところに着いたときには、もう手は汚れています。

もう一度、洗っておいでよ。
はーい。

カエルはまた手を洗いに行きます。
でも、何度注意されて、何度手を洗いに行っても、戻ってくると手は汚れているのです。

ボクの手は洗っても洗っても汚れているのはどうしてだろう。
他の動物たちも思いました。
カエルさんだけは、手を洗っても洗っても、汚れているのはどうしてだろう。


そして、何度も何度も、手を洗いに行ったカエルは、どうしても手がきれいにならないので、とうとうごちそうを食べることができませんでした。
~とさ。


動物は後ろ脚だけで歩くことができると考えて、カエルだけが両前脚、両後ろ脚を使ってぴょんぴょんと跳び歩くと考える。確かに考えてみると、カエルだけは4本足で前進する方法が違いますね。
体も小さい、ぴょんぴょん飛び跳ねるカエルを子どもに見立てて、ご飯の前には手を洗うんですよ、というしつけ話のようにも取れます。


モシ族の子どもたちは、こんな寓話から、食事の前には手を洗うということを習慣づけられたのかもしれません。
ちなみに、昔のモシ族の習慣として、外から家の中に入るとき、履き物を脱いで家に入っていたのだそうです。


2019年7月1日月曜日

どうしても拾ってしまう白い小石と、小石の絵本

ブルキナファソ行きが決まった昨年秋に本屋さんで目に留まった絵本があった。
しおやまみこさん作の木炭鉛筆で描かれた絵本、「そらからきたこいし」(偕成社)だ。
妙に惹かれる不思議な絵本だった。


絵本「そらからきたこいし」表紙


これは、空から降ってきた、キラン!、と光る小石と女の子の話だ。
わたしの小さい頃からの夢がぎっしり詰まった本だ、と思った。


絵本「そらからきたこいし」の中から


わたしは、小さい頃から、石ころ集めが大好きだった。
きらきら透明に光る小石に惹きつけられて、水晶を見つけることが夢だったし、百科事典の”宝石”のところを引っ張り出してダイヤモンド採掘の世界地図を見て、そのダイヤモンド印が集中するアフリカがわたしには輝いて見えた。
そうそう、小学生の時、お友だちの家に、お父さんがブラジル出張の時に買って来てくれたという本物の宝石の原石の標本が置いてあって、それを見せてもらうのが楽しみだった。

今、西アフリカのブルキナファソにいて、週に一回ゴルフを楽しむ”月面ゴルフ場”(わたしが勝手に命名!)には白い小石がコースに散らばっているのだ。
夫からはプレイ中に石ころなんて拾うものじゃなーい!、と注意される。
はい、わかりました、と頷くものの、どうしてもキラン!と輝く白い小石が目に入ってしまう。
無視しようとしても、つい一個だけ~と拾ってポケットに入れてしまう。

先週は、雨が降った翌日だったから、さらに白い小石がキラキラと目について、拾うことの方に気持ちがいってしまい、スコアはめちゃくちゃだった。さらに地面ばかり見ていたせいか乗り物酔いみたいになって気持ち悪くなってしまった。

で、今日は、拾いません、と誓ったのに、数個だけ、と思ってまたまた小石を拾ってしまった。夫から見つかって注意されてしまったが。

これ、この通り。

ワガドゥグの”月面ゴルフ場”で見つけた小石


きれいでしょ!
1,2センチ四角の白い小石。
どうしても、拾ってきてしまう。

絵本「そらからきたこいし」を思い出した。

それから、赤いキランと光るまほうの小石を見つけたロバくんの物語、「シルベスターとまほうの小石」(評論社)も。




もう一冊、夏の山でキランと光る水晶を見つけた女の子の物語、「フルリーナと山の鳥」(岩波書店)も。





小さいときから、わたしに夢を与えてくれた小石たち。
月面ゴルフ場で、これからもこっそりひっそり、わたしの小石拾いは続く、かな。

2019年6月1日土曜日

ブルキナファソ モシ族の伝説~La Princesse Yenega

馬上のイエネガ イラスト(YouTubeより)


現在のブルキナファソの部族の過半数を占めるといわれるモシ族は、モレ語を話し、今も、皇帝と呼ぶのか、首長がワガドゥグに臨座してるのだそうだ。

モシの王国を作ったと言われるウエドラオゴの話は、この国の誰もが知っているのだと聞く。
わたしは、モシ族の伝説を書き留めておきたいと、わたしのつたない仏語力を全力駆使して、わたしの仏語の先生と夫の事務所で秘書として勤務する女性に根掘り葉掘り、くっ付きまわって聴きとった話をまとてみたいと思う。二人の女性は、ともにモシ族だ。かのじょたちは、しつこく聞きまわるわたしにイヤな顔一つせず、好意を持って根気強く話し説明してくれた。特に、ひとりの女性は、自身の蔵書を持ち込んで、地図を見せてくれながら、確認しながら話してくれた。
間違いがあったのなら、わたしの仏語力不足のせいだ。また、かのじょたちは、わたしたちの伝説は口承文化なので、いろいろなバリエーションで伝わってきていることも考慮して聞いてほしいと話した。

では、モシ族に伝わる建国の物語を始めましょう。


 かれらは、ガンバーガ(今のガーナ国境近く)からやってきました。当初、かれらは森の中に暮らしていました。先住民から離れた場所を選んでのことでした。先住民たちは、かられのことを”Mogho Naaba”モゴナアバ(森の長)と呼びました。
かれらは一生懸命働き、次々に家を建てていきました。そして、たくさんの子を産み育て、彼らの部族は少しずつ大きくなっていきました。
そして、かれらはモシの王国を作ったのです。


その時代のブルキナファソ一帯には、小さな王国がたくさんあり、国同士が長いこと戦争を続けていました。
そんな戦いの繰り返される時代に、馬に乗って走ることが大好きなひとりの女の子が家族と暮らしていました。
名前は、”Yenega”(イエネガ、イエネンガ)と言いました。これは、細い、という意味の言葉ですが、実際に女の子は細い体でした。女の子の本当の名前は”Poko”と言ったそうですが、皆からはイエネガ(イエネンガ)と呼ばれていました。
女の子は、馬に乗ることが得意でした。女の子は自分の馬をとても可愛がりました。そしてまた、女の子は弓矢や槍を使うことも大変上手だったのです。

話は遡ります。
その女の子の父親の名前は”Dagomba”ダゴンバと言い、ガンバーガから移ってきた部族の長でした。ダゴンバには奥さんが何人もいて子どももいましたが、皆、女の子ばかりでした。当時は、男の子が生まれることを良しとしていた時代だったので、ダゴンバは次々に生まれるのが女の子だったので気落ちしていたかもしれません。

そんな中で、イエネガ(イエネンガ)は女の子でありながら馬に乗ることが得意で、弓矢も槍も上手に操ることができたので父親のダゴンバはイエネガをとても可愛がりました。
ガンバーガから移り住んだイエネガの父、ダゴンバはそんな小王国の一つのシェフ(長、首長)だったので、イエネガもひとりの王女(プリンセス)だということになります。

イエネガはいつも男の子のような恰好をして馬にまたがり、弓矢と槍を上手に使いこなし、父親の力となるために敵と戦いました。
イエネガは、とても勇敢な女の子でした。同時に、女の子は、当時の社会の慣習に馴染まず、父親の意見に従うことを嫌がるようなはっきりした性格も持っていました。
女の子は、戦のために、また馬に乗って弓矢や槍を駆使して飛び回るために、いつも男のような恰好をしていました。
息子のいない父には、イエネガはたいそう自慢の存在だったのでしょう。


戦いに挑むイエネガ (Wikipediaより)



イエネガは、成長すると共に、普通の女性が望むような結婚をしたいと考えるようになりましたが、父はそのイエネガの気持ちを理解してはくれませんでした。

イエネガは、自分の気持ちを父親に分かってもらおうと自分の畑を作り、そこにゴンボ(オクラ)の種を蒔きました。ゴンボは早く成長し育てやすいということで、当時の結婚した女性たちは家の傍に畑を作ってゴンボの種を蒔き育てていました。
イエネガはゴンボが大きく育ってもあえて採ろうとせずに枯れていくゴンボを畑に放っておきました。父親はそんなイエネガの様子を見て怒りました。
イエネガは父親に対し、「この枯れたゴンボはわたしです」~ゴンボは種を蒔いて大きく育ち実が成りますが、放っておくと、いつか枯れて醜くなります。まさに、わたしはゴンボです~と父に訴えましたが、父親はイエネガの気持ちを理解することはなく、怒って娘を部屋に閉じ込めて錠をかけてしまいました。

 ある日、イエネガはそっと部屋から抜け出すと、ひとり馬にまたがり森へ逃げたのでした。自分のことを理解してくれない父親への反抗でした。
森へ一人逃げたものの、かのじょは森の中で迷子になってしまいました。
そのとき、イエネガは森の中でひとりの狩人に出会いました。若い青年でした。
名前は、”Riale”(リアレ)といいました。

リアレは、馬にまたがったその若者を男の子だと思い込みました。当時、馬にまたがる女性などまずいなかったし、その馬上の若者は男のような恰好をしていたからです。

馬に乗ったイエネガのことを男だと思い込んだリアレは自分の家へ連れて行きました。
リアレは狩人のような様相でしたが、かれもまた、本当は王子、プリンスだったのです。
リアレも、自分の身分を嫌い、社会通念を嫌って、森の中で狩人としてひとりで暮らしていました。そのリアレが暮らす森は、”Tenkodogo"と言われていました。
イエネガと共に暮らすことになったリアレは、かのじょのことを男だとずっと思っていました。
しかし、そのうち、イエネガは狩人のリアレと恋に落ち、それからふたりは結婚しました。ふたりは、森の家、”Tenkodogo”(古い土地、という意味。ブルキナファソ東部。)で暮らしました。


それから、イエネガとリアレの間に一人の男の子が生まれました。
イエネガは息子に、”Ouedoraogo”ウエドラオゴ(牡馬、という意味。)と名付けました。かのじょの大好きな牡馬に感謝の気持ちを込めての命名でした。

イエネガとリアレの息子、ウエドラオゴが10歳を迎えた時に、母親のイエネガはその土地の慣習に従って、息子のウエドラオゴを絶縁のままになっていた父親の元へ送り届けます。父親の住む家の近くまで息子を連れて行ったイエネガは父親に会わないまま、ひとりでリアレの待つ森へ帰って行きました。
息子に、あなたのおじいさんに伝えてほしいと言う伝言を託して。
その伝言は、娘のイエネガから父親へ、今までの自分のわがままの許しを請うものでした。

おじいさん(イエネガの父親)は、その地域の大変な権力者でした。
ウエドラオゴは、母親と別れて、初めて会う自分のおじいさんをひとり訪ねて行きました。そして、「わたしはイエネガの息子です。あなたの孫です。」と名乗ったとき、おじいさんはとても喜んで、ウエドラオゴを孫として受け入れました。
こうして、ウエドラオゴは祖父の元で多くのことを学び、大きく成長しました。
後に、イエネガは、夫のリアレと共に父親に会いに行き、仲直りをすることができたということです。

ウエドラオゴは大人になって今のワガドゥグ辺りに移ります。
ウエドラオゴは結婚して3人の息子の父親となりました。
ひとりは、マリのほう、北部の”Ouahigouya”へ。ひとりは、ニジェールのほう、東部の”Fada Ngourma”へ拠点を移してゆきました。
もうひとりの息子は、ある日、馬に乗ったままバオバブの木に駆け上り天に消えて行った、という言い伝えが残っているそうです。その証拠に、バオバブの木の幹には、今も馬が幹を登ったときの蹄の跡が残っているということです。


こうして、ウエドラオゴは、モシ王国の最初の王様になり、皆に尊敬されました。
そして、多くの子孫が国中に広がっていったということです。
今も、ブルキナファソには、モシ族の皇帝(王様)がいます。
現在は、”Naba Baongo”(Nabaというのは、”chef”、長、首長)という名の皇帝(王様)だそうです。 

また、”Princesse Yenega”(イエネガ姫)は、モシ王国初代皇帝、ウエドラオゴの母親として、そしてかのじょのキャラクターと相まって、今もブルキナファソの人々から深く親しまれています。(完)                                 


2019年5月13日月曜日

ワガドゥグで見つけた本屋

ワガドゥグの大通りでちょっと大きめの本屋と出会った。
文具屋も兼ねていて、たくさんの本を置いている書店だ。
書店オーナーと思われる白人女性が、わたしにアフリカの子どもの本を数点勧めてくれた。




これは、前回、ブログで書いた”RAFARA”という女の子が主人公の絵本。パリの出版社からの発行だ。
もう一冊、オーナーはブルキナファソの物語の本を見せてくれた。




やっとみつけたブルキナファソの短編物語、15編が入った本だ。
難しくて、手を付けられずにいる。
題名を見ただけでも、おもしろそうな内容なのだけど。
フランス人女性がブルキナファソに伝わる口承物語を文字に起こし、脚色して編まれた本だという紹介の一文を見つけた。ブルキナファソ人の手によるものではない。
フランス人のために書かれた本なのかもなあと思った。パリの出版社だ。


そして、最近、わたしたちのアパートのある新興住宅地、ワガ2000のショッピングモール(といっても、まだ空き店舗ばかり!)の中に、カラフルでかわいい本屋を発見した。



子ども向けのカラフルな絵本が中央の低い棚に飾られて、子どもが手に取りやすいように陳列されている。そして、壁側の棚にはいろいろなジャンルの本が並んでいる。本だけを扱う書店。
ここにはアフリカの絵本、物語はないとブルキナべ(ブルキナファソ人)の店員はそっけなく言った。
でも、一冊みつけた。セネガルの物語?とかいわれる絵本だ。
わたしは、その”KIRIKU”という手のひらサイズの絵本を買ってきた。




この物語は、15年ほど前にスタジオジブリの宮崎駿さんが気に入って日本に紹介していたと記憶している。ジブリでこの絵のまま映画化しDVD化し、日本でも公開されたはずだ。わたしは”KIRIKU”のDVD(テープかも)をジブリ美術館で見つけて買った記憶がある。”アフリカに古くから伝わる物語”というPR文が付いていて、いつか観たいなと思って買ったような気がするのだ。
でも、日本では、あまり話題にはならなかった。あのときは、日本人にとって、アフリカは遠い世界だったのだろうか、あまりに違い過ぎる文化だったのだろうか。それとも、絵に対するインパクトが強すぎて、恐いイメージを与えたのだろうか。

今一度、手に取って読んでみると、アフリカらしい良い物語だと改めて感じた。
やはり、アフリカには魔術師の存在があるのだと感じる。日常的に。身近に。

また、アフリカに伝わる物語は口承物語で、一つに統一された物語ではない。幾重にも物語は口伝えに広がって、現地ではいくつものバリエーションのある物語になっているのだとも感じる。
書き文字を持っていないから、それを文字に起こして本に著す、ということはアフリカの人々の概念にはないことなのかもしれないとも思った。

それもこれも、彼らの部族に伝わる”文化”なのだ。

だから、”本屋”という概念を持つことも彼らにとっては有り得ないことなのかもなあと思ってしまう。

2012年にコンゴ民主共和国で本屋を探した時、カトリック系のパウロ出版直営の本屋があっただけだった。現地の人たちの暮らす地域にもパウロ出版の小さな本屋が頑張っていた。教科書のようなものとキリスト教の読み物だけだったように思う。
そして、2015、6年頃、キンシャサの目抜き通りに大きな本屋さん兼文具屋ができたときは感動ものだった。それでも、興味ある子どもの絵本や物語はそこでは見つけられなかった。
そしてその後、大きな通りのその本屋の対面にちょっとお洒落な文具屋が開店した。
その文具屋の入り口に小さな絵本棚が置かれていたが、それは、人間にいちばん近いとされるボノボの保護施設をキンシャサ郊外で運営するベルギー人女性がベルギー本国で出版したボノボ支援のための啓蒙の絵本数種類を置くだけの棚だった。
コンゴには子どものための絵本や物語はないのだとがっかりしたが、それは、アフリカの文化だったのだと今になって思う。

それから2、3年が経ってワガドゥグで見つけた2軒の本屋さん。もしかしたら、アフリカの国々で少しずつ本屋が増えているのかもしれない。


口承文化もすばらしい文化だと思う。
その独特の文化を文字に著して本にして、わたしたち他国の人達にも紹介してもらいたいなあと心から思う。

さらに。
かれら自国の子どもたちのために絵本、物語を出版するときに、大きな問題がある。
彼らの公用語は、旧宗主国の言語。ブルキナファソも、コンゴも、公用語はフランス語だ。
彼らには公用語のほかに国語が数語ある。(大部族の言葉が国語となっているようだ。)
そして、各少数部族にも言葉がある。
家庭内ではそれぞれの部族語で話していても、学校ではフランス語での教育だ。
かれらの国語(部族語)は独自の書き言葉がないから、アルファベットで表現する。
さて、もしその国で絵本や物語を出版する段階になったときに、どの言語を使うのか。
そもそも、出版社を持つ国は、わたしは西アフリカではベナンしか知らない。ベナンの出版社は、将来の国を担う子どもたちのために国語で書籍を出したいという希望はあるけれど、国語は一つではない。
とすると、やはり、公用語のフランス語での出版になる(ベナンも旧宗主国はフランス)。国語での出版を願っても複数の言語で出版することはコスト上で無理だ。
さらに、余裕があり、かつ、子どもの教育に関心のある家庭でないとなかなか絵本や物語を買い与えることはないだろう。幼稚園や学校の図書室に置くことでしか需要は見込めない。
いろいろな面から出版社の経営存続は難しくなる。

自国の言葉で自国の物語を書籍にすることの実現性は遠のく。

おそらくブルキナファソには、子ども向けの絵本、物語を出版する会社はないのではないか。
幼稚園や学校の図書事情、出版社事情、それから、本屋事情など書籍に関することを調べてみたい。

2019年4月30日火曜日

美智子さま「橋をかける 子供時代の読書の思い出」~平成最後の日に





この本は、わたしの赤羽の家のリビングの本だなの、手を伸ばすといつでもすぐに取り出せるところに置いている。

1998年11月初版。
この本の中で、美智子さまが子どもの頃から読書によって導かれ、世界を膨らませ、楽しみ、救われてきたか、ていねいに紐解かれている。
戦時中、美智子さまの父親が疎開先を訪れるたびに、東京の我が家の本だなにあった本を数冊ずつ持って来てくれたことが書かれている。その本たちが、美智子さまの心の灯になっていたことも書かれている。
その本たちは、日本少国民文庫だったとわたしは記憶している。
吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」もその文庫の中の一冊だ。
その吉野源三郎や山本有三たちが戦争の色濃くなった時代にこそ子どもたちに素晴らしい本の扉を開けてほしいと願って編まれた文庫だと聞く。

美智子さまの読書の歴史、姿勢が読み取れて、わたし自身の心の救いとなるこの一冊、「橋をかける」だ。
3度の「夏の絵本屋」開店の時には手弁当で手伝ってくれた仲間たちにお礼の意味を込めて選んだ本でもある。
わたしの大切な一冊。

先日、Facebookで、この本のことについて触れた新聞記事を見つけた。




平成天皇と美智子さま、子育て時代を過ごした懐かしい思い出の詰まった東宮御所へ改修が終わると移られると聞く。
これからも、美智子さまはご夫婦仲良く、読書の世界をゆっくり楽しく散歩されるのだろう。
これからもお元気で。
ありがとうございました。

2019年4月27日土曜日

アフリカ民話絵本 ”RAFARA”



このきれいな印刷の絵本。両手の手のひらの乗るくらいのサイズだ。
ここ、ワガドゥグの小じゃれた本屋で見つけた絵本だ。
フランス人(多分)の店主マダムに、アフリカの物語はありますか、と尋ねて勧められた本のうちの一冊だ。
この絵本は、ブルキナファソの物語ではないけれど、アフリカではとても知られている物語ですと、店主マダムは言った。

「ラファラ」という女の子が主人公の物語。
絵がアフリカっぽくて、発色もいい感じだ。
ただ、残念ながら、出版はパリ。
”lutin poche”シリーズの中の一冊(?)。
初版は2001年6月になっている。
ブルキナファソ、の”ファソ”といい、”ラファラ”といい、なんだか、わたしの周りには、音階が付いて回っているような気がして、よし読んでみるか、とこの絵本を買ってきた。


ラファラという主人公は、同じ父親から生まれた2人の意地悪な姉を持つ、末っ子の優しい女の子でした、というところから物語は始まる。

意地悪な姉と三人で森に木の実を採りに出かけ、お姉さん2人は、末っ子の妹をわざと森に置いてきぼりにして帰ってしまう。
そこへ、おばけの「トリモゥブ」が現れてラファラをかっさらって自分の棲家に連れて行ってしまう。

でも、このおばけは、決して意地悪ではなくて、外で美味しいものをたくさん見つけて抱えて帰ってきてはラファラに父親のように与えてくれるのだ。ただ、家に帰さないだけ。
でも、ラファラは家族の元へ帰りたいと願うのだった。

ある夜、寝ているラファラの耳元で、何か食べ物をください、という声がした。見ると、小さなねずみだった。
ねずみは、早く逃げないと、あなたは明日、トリモゥブに食べられてしまうよとラファラに忠告する。
この3つの物を持って、早くお逃げなさい、と。
ねずみからの贈り物は、棒きれと、石と、卵、だった。
ねずみはラファラに、あんたの機転でそれらをお使いなさい、と渡してラファラを森へ逃がした。

もちろん、ラファラが逃げたと知ったトリモゥブは怒り狂って追ってくる。
でも、ラファラはその時々の直感で、「棒きれさん、湖になって」、「石ころさん、森になって」、「卵さん、山になって」とお願いしながら、とうとう、高い山のてっぺんまで来てしまった。

そこで、大きな羽を持つ「ボボンドレオ」という冴えない鳥に出会い、お願いをする。
「優しい鳥のボボンドレオさん、わたしをあなたの背中に乗せて、わたしのおうちまで連れ行って。その代わり、あなたをきれいな石たちでおしゃれな鳥さんにしてあげるわ。」

無事に我が家に戻ってきたラファラは、約束通りに千個の石でボボンドレオをキラキラの綺麗な鳥に飾ってあげる。
ラファラは、うれしそうに空高く飛んでいく鳥にお別れを言うのだった。

そして、月日は経ち・・・。
賢く優しいラファラはますます美しい娘になって、王子さまにみそめられて結婚して幸せに暮らしました、とさ。


三人姉妹のお姉さん二人が意地悪で、末娘は美しい心の持ち主で、最後に王子さまと結ばれた、っていうところはシンデレラっぽいな、とか、ねずみにご飯をあげたので不思議なものを贈られたというのは、おむすびころりんなどの日本昔話に似てると思ったり。
でも、始まりに、”同じお父さんから生まれた3人の娘たち”とあるのは、一夫多妻制のアフリカの風習だなあと思ったりもした。

この話の始まりは、”On raconte que・・・”(だったとさ。)。
終わりは、”On raconte meme・・・Mais ceci est une histoire!”(だったとさ。でも、違う話もあるかもね。)。
こんな訳でいいのか分からないが、伝承文化のアフリカらしいなあ、とか勝手に思うのだった。
~とさ。
ブルキナファソの物語も探してよんでみるぞ。

2019年3月24日日曜日

ブルキナファソのホテルの庭で

3月9日。
わたしは夫の赴任に伴って、西アフリカの国、ブルキナファソの首都であるワガドゥグに降り立った。
サハラ砂漠の南に位置する、はるか遠い国だ。

今、わたしたち夫婦が滞在するホテルの庭は緑であふれ、鉄製のオブジェが点在して心和ませてくれる。




わたしは、特にこのおじいさんとこどもの像に心惹かれた。
花を持った子どもがおじいさんを見上げている。
ひげのおじいさんもにっこりと見つめ返している。
優しい空気が流れている。

ワガドッグ時間22日早朝、パソコンを開けた。
いちばんに目に入ってきたメッセージ。

ちょうど3年前にわたしが検査入院した時に、二人部屋で同室になった友人が亡くなったという知らせだった。
突然のことだったそうだ。でも、最期は家族に見守られて眠るように旅立ったと書かれていた。
ご家族から届いた報告だったが、友人の生きてきた姿勢をその数行に感じた。

3年前の3月の初め。
共に検査入院ということだったから、毎日、検査は受けるものの、お互いの空き時間には下の階の売店でコーヒーを買った後、図書室で絵本を借りて病室に戻り、おしゃべりばかりしていた。
わたしたちの飛行機部屋(病室の入り口に飛行機の絵が貼られていた)は、春の陽だまりのように明るくて心地の良い場所だった。

下の階には、小児病棟があったから、図書室は絵本や童話が充実していた。
わたしたちはお互いに二人の子どもの母として絵本の読み聞かせをしてきて、今度は孫にも絵本を選びたい、そして、自分自身のためにも絵本を手元に置いておきたい、と意見は一致し、絵本や物語、詩について深く語り合った。

友人は病気の宣告を受けて、想像を超えた葛藤を繰り返したことだろう。
そして、乗り越えた姿は魅力的だった。

友人は、いつかは自身の声も失われることを知り、病院の作業療法士の先生の元でパソコンに日本語五十音の肉声を残すことにも取り組んだ。
お孫さんにわたしの声で絵本を読んで聞かせたいと言って。

それから、わたしは夫と共にコンゴ民主共和国のキンシャサに発った。
その間、友人は徐々に身体機能を失っていったようだった。
それでも友人は前向きだった。
いくつかの手術を受けながらも、2020年の東京オリンピックを見たいとも言っていた。
わたしは、ずっと一緒に同じ時間を生きていく仲間だと信じて疑わなかった。
友人のブログの中にも、「まだ大丈夫」、という言葉がいつも綴られていた。


花の好きな友人はブログにたくさんの花の写真を載せていた。

友人の最後のブログ更新は、3月8日だった。
外出したときのことが綴られていて嬉しくて涙が出たと。
そして、その日のブログに庭の梅が開花した写真を大きく載せていた。

桜の季節も近い。
庭のこぶしの花ももうすぐ咲く。

春が来ることを待ち望んでいたのだ。

このおじいさんと花を持つ子どもの像を見て、友人を思い出す。
あちらの世界でも、友人は花を愛し、絵本を読み聞かせて、自由になった心で楽しんでいるんだろうな、きっと。