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2019年10月25日金曜日

それぞれが人生の主人公

岸田衿子さん訳の「赤毛のアン」を読みながら、脇役の人々の描写にも想いが移っていった。
アボンリーで人生を生きた、脇役の登場人物たちにスポットを当てて、かれらを主人公にして、それぞれの人生を描いたシリーズがあったことを懐かしく思い出す。

村岡花子さん訳のアンシリーズ10冊+1冊(後にかのじょの孫にあたる村岡美枝さん訳で、「アンの想い出の日々」が2009年に出版されている。)の中の、「アンの友達」と「アンをめぐる人々」だ。(もうずいぶん昔に読んで、記憶もあやふやなのだけど・・)











この短編たちにも感動したなぁ。ああ、人それぞれに人生があり、それぞれが人生の中の主人公なのだ、と強く思った。


そんな想いが綴られて歌になったものがある。
さださん(さだまさし)作詞作曲で、自身で歌う「主人公」だ。

さださんがソロ活動を始めて初期の歌と記憶しているから、わたしが長崎の大学に入学して独り暮らしを始めた頃だっただろうか。
大人になって、歳を重ねるたびにさらにしみじみ心に響いてくる歌だ。


 ”主人公”
 時には思い出行きの旅行案内書ーガイドブックーにまかせ
 「あの頃」という名の駅で降りて 「昔通り」を歩く
 いつもの喫茶店ーテラスーには まだ時の名残りが少し
 地下鉄ーメトローの駅の前には 62番のバス
 プラタナスの古い広場と 学生だらけの街
 そういえば あなたの服の模様さえ覚えてる
 あなたの眩しい笑顔と友達の笑い声に抱かれて
 わたしはいつでも必ずきらめいていた

 「或いは」、「もしも」だなんて あなたは嫌ったけど
 時をさかのぼる切符があれば 欲しくなる時がある
 あそこの別れ道で選びなおせるならって
 もちろん 今のわたしを悲しむつもりはない
 確かに自分で選んだ以上 精一杯生きる
 そうでなきゃ あなたにとても とてもはずかしいから
 あなたは教えてくれた 小さな物語でも自分の人生の中では
 誰もがみな主人公
 時折 思い出の中であなたは支えてください
 わたしの人生の中では わたしが主人公だと


詩の中の、わたしとあなた・・・。
どんな立場で書かれた詩なのか。
自分の中の、昔の自分と今の自分。
それとも、わたしと、亡くした大切な人。


さださんが何かの本の中で語っていたことを、わたしは書き留めていた。

「・・・だから僕は、人は必ず選ばれて生まれてきたのだと信じたいし、
だからこそ、生きてゆくことに誇りを持ちたい。
自分が主人公であるという考え方はとかく”利己”を感じさせる危険な言い回しですが、
生きてゆく強さを奮い立たせるために必要な起爆剤だと思ってください。
自分の人生はドラマであると信じることが、時として自分の不幸を救うこともあるのです。
『せいいっぱい生きる。
そうでなきゃ、あなたにとてもはずかしいから。
あなたが教えてくれた。
小さな物語でも、
自分の人生の中では だれも皆、主人公。

”わたしの人生の中では わたしは主人公だと”』」
 

2019年3月24日日曜日

ブルキナファソのホテルの庭で

3月9日。
わたしは夫の赴任に伴って、西アフリカの国、ブルキナファソの首都であるワガドゥグに降り立った。
サハラ砂漠の南に位置する、はるか遠い国だ。

今、わたしたち夫婦が滞在するホテルの庭は緑であふれ、鉄製のオブジェが点在して心和ませてくれる。




わたしは、特にこのおじいさんとこどもの像に心惹かれた。
花を持った子どもがおじいさんを見上げている。
ひげのおじいさんもにっこりと見つめ返している。
優しい空気が流れている。

ワガドッグ時間22日早朝、パソコンを開けた。
いちばんに目に入ってきたメッセージ。

ちょうど3年前にわたしが検査入院した時に、二人部屋で同室になった友人が亡くなったという知らせだった。
突然のことだったそうだ。でも、最期は家族に見守られて眠るように旅立ったと書かれていた。
ご家族から届いた報告だったが、友人の生きてきた姿勢をその数行に感じた。

3年前の3月の初め。
共に検査入院ということだったから、毎日、検査は受けるものの、お互いの空き時間には下の階の売店でコーヒーを買った後、図書室で絵本を借りて病室に戻り、おしゃべりばかりしていた。
わたしたちの飛行機部屋(病室の入り口に飛行機の絵が貼られていた)は、春の陽だまりのように明るくて心地の良い場所だった。

下の階には、小児病棟があったから、図書室は絵本や童話が充実していた。
わたしたちはお互いに二人の子どもの母として絵本の読み聞かせをしてきて、今度は孫にも絵本を選びたい、そして、自分自身のためにも絵本を手元に置いておきたい、と意見は一致し、絵本や物語、詩について深く語り合った。

友人は病気の宣告を受けて、想像を超えた葛藤を繰り返したことだろう。
そして、乗り越えた姿は魅力的だった。

友人は、いつかは自身の声も失われることを知り、病院の作業療法士の先生の元でパソコンに日本語五十音の肉声を残すことにも取り組んだ。
お孫さんにわたしの声で絵本を読んで聞かせたいと言って。

それから、わたしは夫と共にコンゴ民主共和国のキンシャサに発った。
その間、友人は徐々に身体機能を失っていったようだった。
それでも友人は前向きだった。
いくつかの手術を受けながらも、2020年の東京オリンピックを見たいとも言っていた。
わたしは、ずっと一緒に同じ時間を生きていく仲間だと信じて疑わなかった。
友人のブログの中にも、「まだ大丈夫」、という言葉がいつも綴られていた。


花の好きな友人はブログにたくさんの花の写真を載せていた。

友人の最後のブログ更新は、3月8日だった。
外出したときのことが綴られていて嬉しくて涙が出たと。
そして、その日のブログに庭の梅が開花した写真を大きく載せていた。

桜の季節も近い。
庭のこぶしの花ももうすぐ咲く。

春が来ることを待ち望んでいたのだ。

このおじいさんと花を持つ子どもの像を見て、友人を思い出す。
あちらの世界でも、友人は花を愛し、絵本を読み聞かせて、自由になった心で楽しんでいるんだろうな、きっと。


2017年7月31日月曜日

星の王子さまと、サハラ砂漠~サンテグジュペリ命日に寄せて

 「星の王子さま」に初めて出会ったのは、わたしが10歳の時だった。

小さいながらも、挿し絵の下手さぐあいに親しみを覚え、内容をどこまで理解していたのか疑問だが、繰り返し読んで楽しんだ物語だった。
何度読んでもつかみどころのない、不思議な想いで読み終えていたのを覚えている。それでも、読み返していた。
フランスのアントワーヌ・ド・サンテグジュペリ作の物語だ。
岩波書店の、内藤濯さん訳のテグジュペリさんの「星の王子さま」の本が、我が家には愛蔵版も含めて数冊、ある。
もうじき還暦を迎えるこの歳になっても、いまだ読み返しているのだった。


星の王子さま (岩波書店)


大人になったある時、序文に見つけたフレーズがわたしの心に響いた。

”おとなはだれもはじめは子どもだった。しかし、そのことを忘れずにいるおとなは、いくらもいない。”

訳者の内藤濯さんは、この序文の冒頭部分に感動して訳に取りかかったと聞いた。
濯さん、70歳のときだったそうだ。

わたしが仲間たちと開いていた夏だけの絵本屋で、この序文と、レイチェル・カーソン著「センス・オブ・ワンダー」を礎に、「子どもと、子どもの心を忘れずにいるおとなのために」という思いを胸に、絵本や物語、詩集、写真集を選書して本屋に並べたことを懐かしく思い出す。

話は逸れるが、訳者の濯さんは、「まず、声の言葉があっての文字の言葉である」と言って、言葉の響き、リズム、音楽性を大切にする方だったとも聞く。
「星の王子さま」を日本で出版するにあたり、「この原文の美しいリズムを訳文に活かせるのは内藤のほかにありません。」と、訳者として白羽の矢が立ったのが濯さんだったそうだ。

(シューベルトの子守歌~ねむれねむれ母の胸に~も、なんと濯さんの訳だった!)
(もう一つ。”洗濯”の濯だから、わたしはしばらくの間、”ないとう たく”さんと読んでいた。ところが、”あろう”さんだったことを、大人になって知った。仏語の”Hello!”~アロウ~「やあ、こんにちは!」。わあ、すごい、音が同じだ!目を輝かせた日をこれまた懐かしく思い出す。あろうさん、がペンネームだったのか、あるいは本名で、それが、仏文学者の道を歩むことになったのか??想像を膨らますのだった。)

さて。話をもどして。
濯さんは、仏語の原文を一節ずつ彼自身が読み上げ、それを日本語にしたものをまた声に出し、編集者が書き上げ読み上げる。読み上げるときは、「ふつうの話し方で読んでください。思い入れなどはしないでください。」と注文が付いて、口述で翻訳作業に当たったのだとか。

わたしは、原文で通読したことはないが、サンテグジュペリさんの仏語文は本当に美しい流れ、言葉遣いなのだろうと想像できる。
息子の母校、暁星学園では第一外国語に仏語を選択すると、ある学年になると、「星の王子さま」を教材として読むと聞いて深く納得するのだった。

「星の王子さま」初版は、1943年4月6日、アメリカの出版社からだった。
王子さまとテグジュペリさんが別れて6年後に書かれたものだと設定されている。

その後、1944年7月31日にかれの操縦する飛行機がマルセイユ沖で消息を絶つ。
今日は、テグジュペリさんの命日だ。


わたしは、パリから夜行便でアフリカに向かう度に、または反対にアフリカからパリに向かう夜行便でいつも楽しみにしていたのが、サハラ砂漠上空を飛ぶことだった。
それは、月夜の晩でなければならないのだが。
青い、海の底のような砂漠が静かに横たわる月夜。
じっと見下ろしていると、確かにテグジュペリさんと星の王子さまが話し込んでいる姿が見えてくる。

あ、いたいた!
王子さまぁ!
テグジュペリさぁん!

楽しい想像だった。

もしかしたら、もうこのサハラ砂漠上空を飛ぶことは人生で最後かもしれない、とキンシャサから意気込んで乗り込んだ6月4日のパリに向かう夜行便で。
せっかくの月夜の晩だったのに、わたしの席は機体ど真ん中の席だった。
機体の前列から最後列まで、窓側の席はどこも満席だった。
しかも、機体最後尾の窓も堅く閉じられていた。
サハラ砂漠を見ることも、かれらに再会することもできなかった。
もしかしたら人生ラストチャンスだったかもしれないフライト。

そして、早朝のパリで乗り継いで、娘一家の住む町を目指して降り立ったところが、リヨン・サンテグジュペリ空港だった。
テグジュペリさんの故郷、リヨン。
大きく、空港の窓ガラスの描かれた星の王子さまがわたしを優しく(!)迎えてくれた。

さらに。
帰国して、友人たちとの再会パーティーで隣り合った写真家、大塚雅貴さんが、かばんから出してきたものが、なんと!


写真集「SAHARA」


写真集「SAHARA」!
もちろん、その場で大塚さんに譲ってもらった。
かれが10年、20年?の長い期間をかけて撮りためた、サハラ砂漠のいろいろな表情の写真たち。
国にしたら・・・北は、アルジェリア、リビアからモーリタニア、マリ、ニジェール、・・・、現在では、立ち入ることもできない区域もあるそうだ。



写真集「SAHARA」より


「星の王子さま」。

星の王子さまは、子ども心が残っていたテグジュペリさんの分身だったのかな。
テグジュペリさんの心の葛藤が分身として現れたのかな。
不時着したテグジュペリさんと、小さな星から降り立った王子さまが寓話のように砂漠で出会って、たわいもない対話をする、というだけの、そのまま、ありのままの物語として読んでいいのかな。
二人の最期も不思議な結末だ。
分身だったのか。
星から舞い降りてきた王子さまと二人だけの世界で出会った話なのか。

わたしは、子どもだった頃の心のままに、この物語に添っていたい。


2017年3月24日金曜日

「少年少女の文学全集があったころ」に寄せて

 昨年11月末だったと思う。
キンシャサで、小さいころ少年少女文学全集が家に並んでいたという思い出話をしたことから、わたしたち世代に興味深いエッセイ本があるよと言って貸していただいた本が、松村由利子さん著の「少年少女の文学全集があったころ」(人文書院刊)だった。


松村由利子著「少年少女文学全集があったころ」(人文書院)

わたしと同世代で、福岡で生まれ育った著者。
でも、わたしと違うのは、祖父母や両親も読書家で、いろんな本に出合う環境が整い、特に母親と繋がりながら読書を楽しめたこと、そして、岩波の本たちと出会えて読書の世界を深めていったことだ。
松村由利子さんの幼いころからの読書量は半端なくすばらしい。
大人になって、原書とも出会って日本語訳と比較しながら、言葉あそび、音あそびの面からの訳者の力量のすばらしさを感じ取り、さらに物語の世界を広げている。
また、子どもの頃に出会った文学を起点に、深く掘り下げていっているのにも舌を巻く。
そして、著者は、新聞記者となり、記者の目から少年少女の文学の世界を分析して楽しんでもいるのだ。
長じて、かのじょは現在、歌人として活躍している。
そんな言葉の世界でゆっくりじっくり楽しんで大きくなった著者のエッセイがぎっしり詰まったこの本は、ずっとわたしの手元に置いておきたい本の一冊だ。

わたしのことをふり返ってみよう。
3歳のころから、製鉄会社の社宅で育ち、高度経済成長期とも重なり、社宅は教育熱心な家庭が集まっていたように思う。
父は、よく、会社帰りにバス停のところにあった「千成堂」という本屋さんで、童謡の絵本を買ってきては歌を歌いながら、挿絵の美しさを語った。
そして、カトリックの幼稚園で毎月配本される「こどものせかい」という絵本で、物語の内容というより、挿絵の美しさを楽しむ子だったと思い返す。
父親が余暇に絵を描く”日曜画家”だったのだから、その影響は大きかった。

わたしが小学校に入るころだったろうか。
父がわたしに「こじき王子」という本を、妹に「イソップ物語」を買ってきた。
それから、毎月、挿絵の多く載った童話集が我が家に届いた。
今も、赤羽の我が家の本箱に2,3冊ある。
偕成社の「幼年絵童話集」だった。

最初に手にした「幼年絵童話集」(偕成社)

こじきの少年と身分の違う王子さまが入れ替わって生活するのにはびっくり仰天した。
黄色の挿絵の二人の少年との出会いをはっきり覚えているが、同じ本に収録されている「アルプスの少女」のほうの存在は薄いのが不思議だ。
やはり、挿絵を優先して楽しむ子だった。

そして、このころから物語の内容にも入り込んでいったように思う。
わたしが、いつも傍に置いていた本だ。


幼年絵童話全集「小公女」と「フランダースの犬」

カラーの挿絵がなんともきれいで、何度も何度も読み返して、喜び、心痛めた。
この挿絵の楽しい童話全集は調べると全20巻だった。
1962年から1964年の間に発刊されている。
監修者に、川端康成、浜田廣介、宮原誠一、村岡花子の名前を発見。
文担当者として、川崎大治、久保喬、与田準一、土家由岐雄・・・。
画家には、岩崎ちひろ、若菜珪、太田大八・・・。
大きくなっても、この童話全集をめくって楽しみ続けた。

そして、小学校高学年になる頃だったか、とにかく、この「幼年絵童話集」の毎月配本が終わって間もない頃から我が家に届き始めたのが、小学館の「少年少女世界の名作文学」だった。
全50巻。
1964年から1968年の発刊だ。

小学館「少年少女世界の名作文学」全50巻


カトリックの幼稚園だったこともあり、ステンドグラスのような天使の絵には親近感を覚えたし、箱から出して、表紙の紙を取ると、世界の名画も載っていてこれも毎月の楽しみだった。

小学館「少年少女世界の名作文学」表紙を飾る世界の名画

アメリカ編、フランス編、・・・と国別に編纂されていた。
でも。
この本の分厚さと、挿絵が極端に少ないことに馴染めず、毎月、本箱に並んでいくこの文学全集を横目に見ながら学校の勉強や塾通いの方に忙しくなっていった。

あの頃の社宅バス停前の本屋には、岩波出版の本は置いていなかった。
唯一、わたしの幼い頃の岩波の本は、岩波少年文庫のケース入りの「星の王子さま」だ。
従弟から贈り物としてもらった本。もう、半世紀も前のことだ。
今も手元にあるが、わたしなりに王子さまの世界を楽しみ、子どもながらにも下手だなあと思えるサンテグジュペリさんの挿し絵にも親近感を覚えた。
何度も何度もページをめくって王子さまに出会っていたのに、子どもの頃のわたしは最後に王子さまがどうなったのか、不思議なことに全く記憶に残っていなかった。

わたしが母親となって出会った岩波の本の奥行きの深いこと。幼年シリーズも、少年文庫も、子どもと一緒に楽しんだ。
わたしの夢は、老後の日本での生活で、岩波少年文庫全編を読破することだ。
「少年文庫」とはいえ、小学生、中学生で人生の機微を深く味わうには難解だと思われる内容の物語を発見する。
人生後半に入った今こそ深く入り込んで堪能できる物語が多く存在する岩波少年文庫再読を楽しみにしている。

松村由利子さんのこの本を読み、「少年少女世界の名作文学」をやっぱりもう一度、しっかり読み返してみたい、と思った。たくさんの面白い物語が吟味して編纂されているのだったら、小さいときにしっかりと読んでおけばよかったと反省もした。
実家の二階の本箱にそのまま残っていると信じよう。

松村由利子さんのエッセイを紹介してくれた友人に、そして何より、子どもの物語の、宇宙のように壮大で魅力的な世界を思い出させてくれたこの「少年少女の文学全集があったころ」の本に、ありがとう。

2016年11月9日水曜日

"ほうせき"の思い出

小さい頃、自宅にあったベージュとシルバーの表紙の大百科事典を眺めるのが好きだった。
全部で13巻か14巻くらい並んでいたと思う。
その10巻目くらいに載っていた、世界の宝石・原石のカラーページがわたしのいちばんのお気に入りだった。
ルビーやエメラルドやサファイヤ、そしてダイヤモンド。
昔の王様の冠もあったなあ。
そしてカラーページをめくると、宝石の世界分布図というのがあった。
インド洋のセイロン(まだスリランカと表示されていなかったような。)は宝石できらめく島のように思えたし、アフリカ大陸はダイヤモンドだらけで輝いて見えた。
いつか宝石探検に行くぞ、と虚弱体質気味のわたしは夢見ていた。

だから、わたしは、「しあわせの王子」とか「小公女」とか、宝石を連想する物語が大好きで繰り返し読んでいた。
広場に立つ「しあわせの王子」の像が、仲良しになったツバメに、ぼくの剣や帽子や靴に付いているエメラルドやルビーやサファイヤをあそこの貧しい家に届けておくれと依頼し、ツバメは宝石や金箔が取れて貧弱になってゆく王子のために冬の飛行を止めて最期まで王子のそばに寄り添い、二つの命は尽きてしまう。
優しく切ない物語の中で、きらめく宝石たちの名前に想像は膨らんだ。
一方、「小公女」の主人公セーラは、フランス人の母とイギリス人の父を持ち、インドで事業を展開する父親と暮らしていたが、イギリス社会の風習(?)で一定の年齢に達すると、セーラもロンドンの寄宿舎学校に入ることになる。優しいセーラは学校でも人気者となってゆく。

わたしの父が今度、インドでダイヤモンド鉱山の仕事を始めるのよ、ダイヤモンドを掘り当てたら、あなたにも首飾りを作ってあげるわね。

ああ、どんな首飾りをプレゼントしてもらえるんだろう~想像して、わたしはうっとりした。
大人になって思うと、ダイヤモンドで首飾りのプレゼントをしましょう、なんてちょっと鼻持ちならない女の子だなと胡散臭く感じるけど、物語の中の優しいセーラが小間使いの女の子にも話しかけるのだから、当時のわたしは正直に受け止められて、想像を膨らませたものだ。


岩波少年文庫 ”小公女”


わたしが最初に読んで楽しんだ「小公女」の本は、偕成社のもので子ども世界名作童話集とかいうものだった。多くの挿絵(カラーのものもあった)が載っていて、さらに夢を与えてくれた。

そんな時だっただろうか、わたしが暮らしていた製鉄会社の鉄筋コンクリートの社宅に一人の女の子が引っ越してきた。当時は日本中が浮足立っていて高度経済成長の真っただ中だった。
公害がひどく、工場地帯そばにあった社宅が廃屋になったのでこちらへ転校してきたのだと聞いた。わたしの通う小学校には、そんな子どもたちが結構な人数で転校してきた。
かのじょは、さちこちゃんと言った。
くりくり巻き毛の色の白い、かわいい女の子だった。
その子は、いつもクラスの女子たちに話すのだった。
わたしが引っ越す前の家にはたくさんのきらきらの”タカラモノ”があって、すべて、我が家の倉庫に入れてきたのよ。
今度、倉庫に行けたら、あなたにもそのタカラモノで首飾りを作ってあげるね。
あなたにはどんな首飾りが似合うかなあ。

クラス中の女の子たちは、さちこちゃんの話に想像をどんどん膨らませていった。
うっとり、さちこちゃんが作ってくれた首飾りを身に着けているような気分になるのだった。
そして、わたしの頭の中で、かのじょの倉庫がきらきらまぶしく輝きだすのだった。

でも。かのじょは、一向に以前の家の倉庫に行く気配がない。
いつ倉庫に行くの?、と尋ねても、そのうちね、でも近いうちに必ず行くからと繰り返した。
いつの間にか、さちこちゃんを取り囲んでいた女の子たちは離れていった。
そして、かのじょは、父親の転勤で遠くの町に引っ越していった。

そのかのじょの作り話にどのくらいの期間、幸せの想像を膨らませていたのかわからない。
一年だったのか。
もしかしたら、2,3か月のことだったのかもしれない。

今思うと、わたしの”タカラモノ”とか、”ほうせき”は、ガラス玉やプラスティックビーズだったようにも思う。だって、プラスティックの指輪をおばあちゃんに買ってもらって、ずっと宝石箱に入れて、時々、指にはめてみたりして大切にしていたもの。

それでも、わたしはこの歳になっても、かのじょのことを鮮明に思い出す。
ずっとずっと、忘れないだろうな。
ひがきさちこちゃん、あなたのことを。

うっとりするきらきらの思い出を、ありがとう。

2014年12月23日火曜日

「パリのおばあさんの物語」に寄せて

手のひらサイズよりちょっと大きめの絵本「パリのおばあさんの物語」が、わたしの手元に来て何年になるだろう。
そう思ってページをめくると。

初版は2008年10月とある。

池袋の書店でこの絵本に出会って店員さんの手書きの推薦文に惹かれて手に取り、即、購入してわが家に連れ帰って。
6年になるのか。
なんだか、もっともっと長い間わたしの手元で、わたしを励まし続けてくれているようにも思える。


絵本 パリのおばあさんの物語


2回目の夏の絵本屋開店に向けて準備していたとき、ドキドキしながら千倉書房に電話して、思いがけずに千倉真理さんと繋がった。
夏の絵本屋で、「パリのおばあさんの物語」の編集者である真理さんに絵本の誕生秘話を講演していただいた2010年8月の暑い日のことをはっきりと思い出す。
予算のない絵本屋なのに真理さんはフレンドリーに応じてくれ、かのじょが編集した絵本たちの入った小ぶりのスーツケースをコロコロと引いて笑顔で現れた日のことを。
かのじょの話を聴いて、かのじょの想いもたっぷり入ったこの絵本がますます輝いたあの日のことを。

あの暑い日の、明るい絵本屋の中で、かのじょが、今夏はご主人の初盆だ、と話されたとき。
そのとき、ふたりの女性が繋がった。

勤務先が同じだったふたりのご主人たちから、それぞれにマダムのことは聴いていたけれど、出会ったのはその日が初めてだったと聞く。
分野は違うけれど奇しくも同じ文筆業で活躍する素敵なマダムたち。
この絵本のおばあさんのように多くのものを抱えながら、かのじょたちはそれぞれに自身の信じる道を歩いて行くのだろう。


真理さんが編集した、岸恵子訳の日本版の絵本「パリのおばあさんの物語」(千倉書房)。
わたしたちの三度の夏の絵本屋と、一度の冬の絵本屋で、この絵本はどれだけ多くの女性たちから支持されたことだろう。
多くの女性たちの(中には中学生の女の子もいたけど。)傍らで、人生の羅針盤、エール本になっていることだろな。


今冬、わたしは、その「パリのおばあさんの物語」を二人の友人の手元に置いてほしいと思ってこの本を二冊買ってきた。
沖縄の友人に郵送したら、翌日、連絡を受けた。
”届きましたー、ちょうどわたしの誕生日に。”

それから、3日前、もうひとりの友人には直接手渡すことができた。
”わぁーうれしい、今日はわたしの誕生日なのよ。”

びっくりうれしい。
この2冊の絵本は、どちらもそれぞれの友人たちの誕生日プレゼントになったのだった。


「パリのおばあさんの物語」 表紙をめくって



「パリのおばあさんの物語」
読むたびに、手に取るたびに、いつも行間に新たな発見をする。
そして、静かに肩に手を置いてそっと励ましてくれる本だ。

それから。
わたしにとって、絵本屋で出会ったたくさんの女性たちを思う本でもある。


2014年11月28日金曜日

指ぬきと、”中国の王女さま”~ 「年とったばあやのお話かご」より

NHKテレビ小説”マッサン”より

毎朝、楽しみに観ているドラマ、マッサン。

主人公は、スコットランドから明治の日本に嫁いできたエリー。
スコットランドにウイスキーの醸造の勉強で留学していたマッサンの帰国の時、エリーも一緒に日本に来たのだ。
わたしは、フランスに嫁いだ娘と重ね合わせて観てしまい、つい感情移入し過ぎてしまうところも。中島みゆきが歌う主題歌からして、毎回うるうるしている始末だ。

その愛しのエリーがいつも肌身離さず首にぶら下げているのが、指ぬきのペンダントだ。
その理由がわかった。
ある年のスコットランドでのクリスマスのホームパーティーで、カットして配られたケーキのエリーのところに銀の指ぬきが、そしてマッサンのケーキには銀貨が入っていた。
指ぬきと銀貨が入ったケーキに当たった二人は将来結婚するという言い伝えがあった・・・。

そんな設定がドラマに隠されているらしい。
また、指ぬきについて調べてみると、紀元前の頃より船の帆の縫製で実用として用いられてきた指ぬきは、19世紀に入りイギリスで貴族女性たちの間で裁縫で使うために発達してきたのだという。
古い指ぬきを見ると装飾過美なものもあるが、指ぬきは欧米では結婚のお守りや女性の幸せをもたらすアイテムと考えられ、身に着ける女性もいるのだそうだ。

ふーむ、なるほど~。
エリーの指ぬきペンダントがますます輝いて見えてきたぞ!!!

いつだったか、裁縫の達人の日本の友人が、指ぬきをかたどったシャネルのピアスをしていたことがあった。
それがとてもかのじょらしくて、すてきねえ、指ぬきピアス!、と褒めると、指ぬきだと分かってくれたの、あなたが初めてよ!、と喜ぶのだった。
うなずける、日本の指ぬきは指輪形式のものだからな。
なんでお寺の鐘をぶら下げてるの?、というコメントもあったそうだ。

でも、日本でも少しずつこのコップ型の指ぬきが浸透してきて、コレクターも増えてきているようだ。


ある夏のわたしたちの絵本屋で、わたしはファージョン作の物語「年とったばあやのお話かご」の横にエッフェル塔の絵が描かれた陶器の指ぬきを数個並べて販売したことを思い出す。

絵本や物語と組み合わせて、関連する小物を並べて売る。
そのことで物語の世界の奥行きが深まると思ってのアイディアだったし、わたし自身も組み合わせを考えて楽しんだ。


ファージョン作 年とったばあやのお話かご


「年とったばあやのお話かご」の本と、指ぬきの組み合わせ。
来店のお客さんたちから、どうしてこの本に指ぬきなのですか?、と何度か質問を受けた。

確かに、ばあやは毎晩、ベッドの傍で子どもたちがこしらえた靴下の穴の繕いをしながら、子どもたちにお話を(しかも!うれしいことに、!奇想天外な夢たっぷりぷりん!の大ぼら話を!!)語るという設定で、この物語の原題は、”The Old Nurse's Stocking Bascket”というし、ばあやの裁縫箱の指ぬきからのグッズか~と考えてもらってもいいのだが。

実は、わたしにはもっと思い入れのある理由があった!
それは・・。

物語「年とったばあやのお話かご」の中の10話目”中国の王女さま”

岩波書店発行のファージョン作品集①の「年とったばあやのお話かご」には、ばあやが語る魅力的な作り話(子どもたちには至福のお話タイムだったろううな!)13話が入っている。
その中の10話目、”中国の王女さま”がまた不思議世界にいざなってくれるばあや独特の作り話で、しかも、ばあやが乳母を務めた中国の王女さまのコンパクトさの描写がすてきなのだ!


”わたしは、わたしのはり箱の中に王女さまの寝台をつくってあげ、わたしのハンカチをふたつに切ってシーツにしてあげました。”というくだりには、わたしが小学生の時に大切にしていた人形を思い出してうっとり!

王女さまの笑い声は、”ガラスの鈴の上に雨のしずくが落ちるような音”がした、とはなんて美しい表現だろう。

”銀のおさじでごはんをあげるとき王女さまはそれだけでおなかがいっぱいになったし、王女さまが、ばあや、のどがかわいたわ、というときは、指ぬきに牛乳を入れてあげたものでしたが、半分ものこしてしまわれるんです。”

ほら、ここ。
わたしのお気に入りの描写。

指ぬきで王女さまに牛乳を飲ませた、なんて!

ただ、この一か所で、わたしはこの物語の本の横に陶器の指ぬきを置くことを思い立ったのだった。


さて。
しばらくたって、先ほどの手芸の達人の友人の指ぬきのコレクションを知り、わたしはアフリカ滞在中、旅先で指ぬきをかのじょのために探した。途中からは、わたし自身のためにも2個ずつ。
南仏アンティーブで、アルプス地方で、トルコ・イスタンブールで、そして南アのケープタウンで。
そうやって、わたしの手元にも集まった指ぬきたち。

我が家の指ぬきたち

指ぬきに描かれる絵を見ていると、訪れた街のことを思い出す。

しかしなあ。
小さなお姫さまのコップに指ぬきを持ってくるとは、そしてその半分ものこしてしまう、と続くファージョンさんの描写には参ってしまうな。

エリーがいつも身に着けている指ぬきのペンダントから、あれこれ考える初冬の夜である。

2014年9月29日月曜日

マンゴーの森~親子で綴るアフリカの日々~

1992年7月から1995年7月まで、まるっと3年間、家族4人で過ごした中央アフリカ共和国のバンギで、わたしたち母子は毎月それぞれが新聞を発行して、それぞれの日々を綴って、それらをコピーして、家族や友人たちに送って楽しんでいた。


”マンゴーの森”表紙


この冊子、「マンゴーの森~親子で綴るアフリカの日々」は、わたしたちが帰国後しばらくして、わたしの従兄がバンギでの思い出のためにわたしたちが書き綴って来たそれぞれの月刊新聞を一冊にまとめたらどうかとアドバイスをくれ、かれの勤務する印刷会社で印刷してもらったものだ。

当時は、ブログという手段もなかったし、インターネットのメイルで送信するということも一般的ではなかった。
わたしたちは文章も挿絵も手書きで書いて描いて、夫の会社のコピー機でコピーしてもらっていた。

見返してみると。
わたしの「バンギ便り」は、1992年9月から1995年6月まで、第30号で終わっている。

”バンギだより 第7号” (1993年3月1日)



娘、ユキの「Bonjour だより」は、1992年12月から1995年6月まで、第26号で終わりになっている。
9歳になってすぐの時から11歳6か月までの記録だ。

”Bonjour だより 第1号”(1992年12月初め)

初回号は、「中央アフリカでの学校<シャルル・ド・ゴール・エコール>について書きます。」と書かれて、娘の通うフレンチスクールのことを紹介している。

わたしは、むすめにはこの便りを半分、強制して書かせたところがあった。
娘は、小学校3年生の1学期を終えてバンギに来ていて、日本人学校も補習校もなければ、日本人の子どもたちは、当時バンギでわが家の姉弟の二人だけだったから、しっかり日本語で考えて日本語で書くという時間を持ってほしかったのだ。
娘には厳しいところもあってかわいそうだったと反省している。(厳しい母でごめんね。)
でも、26号まで書き綴っているところをみると、結構、娘も楽しんで書いていたのではないかと思う。
また、こんな思いでもある。
・・・当時、娘たちのように日本人学校や補習校のない海外で暮らす子どもたちのために、在外日本大使館経由で毎月送付されてきていた補習ワークブックがあった。
その、海外子女教育財が発行する「一日一ページのワークブック」を使用して、娘は(後に息子も)日本の学校カリキュラムを学習していた。そして毎月末に終了テストを郵送するのだが、その封筒の中にも、娘が綴る新聞を入れていた。
そして嬉しいことに子女教育財団が発行する通信新聞に、よく娘の”Bonjourだより”が紹介されていた。そんなことも娘の励みになっていたのだと思う。


さて。息子、コウイチの「ライオンシンブン」は、というと。
1993年5月から1995年6月まで、第22号までしっかり続いている。
かれには一度も無理強いをしたことがない。
わたしが便りを書いて、姉が書いて、自然にぼくも書く、となったのか。
いやいや、夫のプロジェクトの鹿島建設の事務のお姉さんが、娘に[いつも”Bonjourだより”をありがとう。楽しみにしています。」という手紙と共に”ふりかけ”が出張者に託されて送られてきたことがあった。そのときに、ぼくもふりかけがほしい、と言って、自主的に書き始めたことを思い出す。

その時点で、息子は5歳7か月。満足にひらがなも書けなかったのだが、わたしの傍でわたしに質問しながら、たどたどしい字で書き綴っていた光景が懐かしく思い出される。


”ライオンシンブン うるとら7ごう”(1994年2月1日)

見よう見まねで、鉛筆で挿絵もしっかり入れて、新聞名も自分で「ぼくのは、”ライオンシンブン”にする!」と決めた。しかも、カタカナにこだわったと記憶している。
キリンでもゾウでもなく”ライオン”にしたのは、きっと、ライオンが森でいちばん強い動物だと思ってのことだったろう。

母子三人で月末になると食卓テーブルで書き始めて、月初めに出来上がると、20部くらいだっただろうか、三人の新聞をコピーして、新聞の最後に便り欄の空白を作っていて、そこにメッセージを書き入れて、封筒に宛名と住所を書いて、3つの新聞をつめこんで封をする。
そして、パリ行きのエアフランスが出発する日(週3便だったか。)に空港内にある郵便局まで行って、中央アフリカの美しい大きめのサイズの切手を買ってその場で貼り、封筒を郵便局員に手渡し、局員が航空便の袋に入れるのを見届けてから帰るのだった。


そんな思い出が詰まったこの、「マンゴーの森」。
バンギにはマンゴーの木が並ぶ道はあちこちに見かけたが、決してマンゴーの森は存在しなかった。
それでも、冊子の題をマンゴーの「森」としたのは、わたしたちのバンギでの思い出のいっぱい詰まった「思い出の森」だと思ったからだ。

「マンゴーの森」の裏表紙の絵は、息子がらくがき帳にたくさん描き残した中から選んだ。

”マンゴーの森”裏表紙 par Koithi

息子の名前、コウイチは、ローマ字綴りの”Koichi”だと、フランス語では「コワシ」と読まれてしまい、かれは工夫して、コウイチと呼ばれるために、”Koithi”(最初の「i」には、点2つ付き!)と書いていた。


マンゴーの実(内部)の色がオレンジだから、表紙もオレンジにしよう、とか。
副題として、「親子で綴るアフリカの日々」を入れたらどうか、とか。
表紙には、わたしがなにか絵を描くのはどうか、とか。
新聞の文字は、そのまま、手書きの文字の新聞を使おう、とか。

そういった細かい、そして心温かいアドバイスをくれて、二百部(だったかな?)印刷をしてくれた北九州の従兄、龍兄にはこれからもずっと、ずーっと感謝し続けたい。
素晴らしい思い出をまとめてくれて、ありがとうございました。

2014年8月10日日曜日

母と娘。L’éléphant vert~緑のゾウの絵本屋さん~の思い出。

とてつもなく、お久しぶりです。
娘のYukiです。

まだまだ暑い夏。
夏休み真っ只中ですが、
皆さま、いかがお過ごしですか?

私がフランスに嫁いで、もうじき3年が経とうとしています。
早いものです。
娘も、2歳になりました!

この度、
私の両親が、2年7ヶ月以上に及んだアフリカのコンゴ民主共和国での生活を終え、
無事に日本に帰国致しました。

このブログのサブタイトルにもあるように、
今まで、“アフリカに住む母”と“フランスに住む娘”でブログを綴ってきました。
っと言っても、皆さまご承知の通り…
ほとんどの更新は、母のhiroによるものでしたが…。
とほほ…。

私も、ご紹介したい本や絵本、それらに関する出来事は山ほどあるのです!!!
エベレスト山脈並みにっ。
ご期待くださ~い!!!笑 …笑。


母の日本への帰国に伴い、
サブタイトルも書き換えをしなければ(なんだか、なぜか、寂しいな)…
書き換える前に、ブログを更新したいな…
何を書こう…

っと、悩みましたが(あーだこーだ悩んでいる間に、母は日本に到着してしまいました…!)

この夏休みの時期になると、思い出さずにはいられない、
『夏の絵本屋』の思い出を、写真と共に綴りたいと思います。



この『夏の絵本屋』は、
L’éléphant vert(レ・レファン・ベール)緑のゾウの絵本屋さん
という名前で、
夏休みの期間限定で、母が2009年の夏から東京にオープンした絵本屋さんです。



アキンドとは、全く無縁の生活を送っていた母。

母は絵本が大好きで、私たち姉弟は沢山の絵本に囲まれて育ちました。
父の仕事の関係で、海外への引越しの際も、
夫婦喧嘩をしながらも(家庭内事情の告白!笑)母は沢山の絵本を担いで海を越えてくれました。

そんな母の夢のひとつが、
絵本屋さんを開くこと。



母の夢を知る、どちらかというとボォーっとしている母のことを良く知る、
母の友人の方々の、とてつもなく温かいご協力の下で、
2009年、2010年、2011年と3回に及ぶ夏に、母の夢が叶いました。


2009年、夏。
1回目の『夏の絵本屋』。
社会人だった私は、手伝えることは限られていましたが、
絵本の発注リスト作成や、母の友人方とお菓子作り、お店番など…お手伝いをしました。


店内の内装は、
建築士をめざす、弟の大が付く親友が手がけてくれました。

2009年の内装は、ダンボールで!
(↓写真の奥に写っているのが、将来有望建築士くん。手前は…手伝うどころか足手まとい?な弟…。)

 

絵本屋さんでは、母の大好きな絵本は勿論、
絵本に関する雑貨も販売しました。

雑貨は、さまざまなアーティストさん達の手がけた作品。

子ども用の家具
お人形
フェルトの帽子
ガラスのアクセサリー 
ゾウのペイントされた雑貨
 などなど…

私もちゃっかり、フランスの木のビーズと革を使用して作ったアクセサリーを、
店内の隅っこに置かせてもらいました。

とても親切で面白い気さくで紳士的なムッシュ(そして私の大先輩でもあるのです!)ご夫妻と、これまたかっこ良くて優しい息子さんが営む、銀座にあるお店、『北欧の匠』の
ご協力の下で、エーケルンドのタオルも揃えることができました。
可愛い柄で、良質なスウェーデンのエーケルンドのタオルは、私もお気に入りです!



さまざまなイベントも行いました。

絵本の読み聞かせ
アフリカの楽器、ムビラの演奏会
千倉書房の千倉さんによるトークイベント
ピアニストの先生と大好きなジャンヌ(フランス人で当時88歳!)と私の3人で、ぞうのババールの朗読会 
 などなど…






2年目の夏。
2010年の夏。
やはり内装は、将来有望建築士くんが。

テーマは、レゴ!



店内は、やはり、絵本やアーティストの方々による作品で楽しい空間でした。



(↑この写真の主は、父です。髭が子ども達に人気でした。笑)

ちなみに、このL’éléphant vertの絵は、宇宙人とかタコとか言われもしますが笑、
昔から象が大好きな私が、中学生の時からよく描いていた象の絵です。
授業中にノートに落書き…とか…していた…な。(娘には内緒の事実。)


2011年。
3度目の夏。

この夏は、将来有望建築士くんは多忙のため…
1度目と2度目とのギャップがありすぎでしたが、内装を私が手がけました。
ワインのコルクを使って。
(あぁ~楽しかった!思い出すだけでもワクワクします!)




この夏は、私がフランスで秋に入籍式を控えていたということもあり、
あまりお手伝いはできませんでしたが…
お手伝いの日に、時差ぼけで目覚めたら夕方だった…!とか…
本当に、毎年毎年、いつもいつも、母の心温かい友人方に甘えっぱなしでした。
ごめんなさい。
何よりも、ありがとうございます!

この夏のイベントは、

フィンランド在住の経験があり、翻訳をされたりと、日頃からフィンランドに通じていらっしゃる、上山美保子さんによる、フィンランドについてのトークイベント。
残念ながら、私はフランスにいて、トークイベントに参加できなかったのですが…。
marimekkoのワンピースがとってもお似合いの美保子さんでした!

お人形作家のナンシーさんによる、お人形作りのワークショップも大人気でした!

『夏の絵本屋』最後のイベントは、
母も私も大好きなお二方が、チェロと詩の朗読会をしてくださいました。
とっても素敵な朗読会で、思い出すと、涙が…




『夏の絵本屋』L’éléphant vert(レ・レファン・ベール)緑のゾウの絵本屋さん。
準備は決して楽ではなく、家中に絵本が山積みになり、母は家事放棄寸前(!?笑)のようになっていましたが、
母は、絵本屋さんを振り返っては、いつも、
「あぁ、楽しかった。」
と、目を輝かせて、呟いています。


本当に、楽しい思い出ばかりの詰まった絵本屋さんでした。

多くの方との出会いがあり、
多くの方の温かさに触れた、
色んな方の想いの詰まった『夏の絵本屋』でした。


次回の『夏の絵本屋』は…
いつでしょう。

また『夏の絵本屋』がやってくる夏を、楽しみにしています!
その時は、フランスから、できる限りのお手伝いをしたいな、と、
今から私も楽しみにしているのです。
フランスに嫁いでも、何歳になっても、いつまでたっても、私は絵本好きの母の娘ですから。


本当に、
沢山の方々に足を運んでいただき、
沢山の方々にお世話になり、
ご協力してくださり、
ぴったりな言葉が見つからないくらいに、感謝しています。


ありがとうございました。

これからも、
どうぞよろしくお願いいたします。


またお会いできる日を心待ちに。


Yuki




● このブログは2011年に立ち上げたため、2009年、2010年の『夏の絵本屋』の情報が不足していますが、2011年の『夏の絵本屋』に関する記事など、過去の記事を、↓をクリックしていただくと、ご覧になれます。↓
緑のゾウの絵本屋さんに関する過去の記事

● 全ての写真が手元になく…  書きもれている情報や出来事もあると思います。
もしも、もしも、何かお気づきの点がございましたら(失礼に当たることなどを書いていないといいのですが…)、どうぞご指摘ください!


2014年8月3日日曜日

スイミーと、キンシャサのンブンジ

娘が小学校2年生のときの光村図書出版の国語の教科書に「スイミー」の話が載っていた。

黒い小さな魚のスイミーは、とても賢く泳ぎも得意だった。
かれだけ黒くて、兄弟たちは赤い。
ある日、兄弟たちが大きな魚に食べられてしまい、スイミーひとりぼっちになってしまう。
ひとりぼっちのスイミーは、さまざまな海の生き物たちに出会いながらひとり旅を続ける。
そして、大きな魚におびえながら岩陰で暮らす、兄弟そっくりの赤い小さな魚たちを見つける。
スイミーは、いっしょに泳ごうと誘うのだが、小さな赤い魚たちは出てこない。
スイミーは、皆で集まって大きな魚の形になって泳ごうと発案する。
そして言うのだ。
「ぼくが目になろう!」
と。

黒い小さい賢いスイミーの発案で、大きな魚になった

版画タッチの絵がとても優しくきれいだった。
そして、大きな海の中を放浪するスイミーの旅で出会う海の生き物たちの描写もまた、うっとりするほどきれいだった。

にじいろのゼリーのようなくらげ
水中のブルドーザーみたいないせえび
ドロップみたいな岩から生えている、こんぶやわかめ
風に揺れる、ももいろのやしの木みたいないそぎんちゃく

小学校2年生だったむすめがこの話に夢中になるのが理解できた。
むすめは、フエルトの布の上にちくちくと針でたくさんの赤いビーズで魚の形に留めていき、黒いひとつのビーズで目を置いた。
そのフエルトを魚の形にカットして2枚重ねて中に綿を詰めてスイミーたちのブローチに仕立てて、わたしにプレゼントしてくれた日をなつかしく思い出す。
あのかわいいブローチ、どこに仕舞ったのだろう・・・。


オランダの作家、レオ・レオニ作・絵。
谷川俊太郎訳。
”スイミー”(好学社)


そんなスイミーの話をふつふつと思い出す小さな小鳥たちの集団の出会いを、わたしはキンシャサのゴルフ場でいつも楽しんだ。

茶色の体毛の小鳥たちですずめに似ているのだが、大きさはすずめより3、4割がた小ぶりだった。
キャディに訊くと、ンブンジMVUNZI、リンガラ語ではそう言い、フランス語の名前は知らないと言った。
朝、夕や、乾季の太陽の出ない昼間など、涼しいときに群れになって餌を求めて出てくるのだ、とも教えてくれた。

マダム、ンブンジがいるよ。
わたしがこの小さな鳥たちの集団が好きなのを知っているキャディはいつも教えてくれた。

「(ン)文治」
こんなネーミングをこっそり与えていたりして。


群れを成して行動する小さな鳥、ンブンジ

ンブンジたちがゴルフ場芝生で餌をついばむ

そんなかれらの集団で飛び交う姿を見るたびに思い出すのが「スイミー」の話だった。

小さなスイミーたちが、仲間で大きな魚の形になって大海を泳いで生活したように、ンブンジたちも大きな鳥の形になって大空を飛んでいるように思えたのだ。
本当に小さな小人のような小鳥のンブンジの姿にいつもエールを送った。
「あなたたちも小さな小鳥だけど、大きな鳥になって大空を飛んでスイミーのようにたくましく生きて行くんだよー!」

何度も何度も、プレイの合間にンブンジたちの集団で飛ぶ姿を撮ろうと試したが、いかんせん、夫のお下がりのデジカメではシャッターチャンスがずれて失敗の連続だった。
スイミーたちが大きな魚になって泳いだように、ンブンジたちも大きな鳥になって(!)大空を泳いでいた姿を紹介したかったな。


これが、キンシャサからの最後のブログになります。
キンシャサ時間の8月3日夜便で、キンシャサを発ち、イスタンブール経由で帰国します。
しばらくは、キンシャサ・こぼれ話として少しずつ更新していきたいと思っています。
それでは、キンシャサからさようなら!

2014年2月2日日曜日

和菓子のほん その2 パリ”とらや”に行く

1月16日の深夜便でキンシャサを発って早2週間。
今回の旅は、パリで2泊し、友人2人との再会を果たし、とても楽しい時間を持てた。
そして、パリのフォーブル・サントノーレにある和菓子の店、「とらや」に友人と行って来た!

午前中11時頃に店を訪れると、なんと満席だった。
そこで、午後2時なら席を確保できるというので、予約を入れてもらい再度午後の時間に訪れたのだった。

とらやパリ店はパリの高級品店が立ち並ぶフォーブル・サントノーレ脇の落ち着いた通りにある。
入り口で「とらや」のロゴ入りの白い暖簾に迎えられる。
店内に入ってすぐのところにショーケースがあり、羊羹などの和菓子、そして1月の公現祭Epiphanieのフランス祝い菓子、”Galette des Rois”が並べられていた。
このガレット・デ・ロワは1月の間、フランス中のケーキ屋さんでお目にかかる丸い型の焼き菓子だ。その中にそっとソラマメか陶製の人形(fève)が隠されていて、切り分けられた自分のケーキの中にそのプチおまけ(fève)を見つけた者がその日の王様になれる、という風習がある。もちろん、王様用の冠も付いている。紙製だけど、その冠もfève同様に収集家がいるのだそうだ。ケーキ屋の職人の感性が問われるところなのだろう。

さあ、日本のとらやがアレンジするとどんなお菓子になるのか!
それに!
ショーケースには、ガレット・デ・ロワの中には、ピンク色の和菓子をモチーフにした小さな陶器が入っていると説明書きがあり、「TORAYA」と刻印された陶製の和菓子が、本物の和菓子と共に陳列されていた。
このピンク色の小さな陶製和菓子fèveだけでも、18ユーロもする。
もちろん、わたしは‘ガレット・デ・ロワを買って、お菓子大好きの娘の夫のため、そしてfèveを収集する娘のためのお土産とした。
(娘のところで切り分けたら、中はあんこの焼き菓子だった。和菓子fèveは娘の元に!)


さて、店内に入り、右に広がるサロンに通される。

とらやパリ店の店内

売り場とカフェは1階フロアだけだ。
そんなに広くはない。10テーブルほどだったように思う。
もちろん、パリ店もしっとり落ち着いた和の雰囲気だ。
お客さんは9割以上外国人だった。

メニューを見ると、昼食メニューもある。
わたしと友人は迷わず、赤飯お重ランチにする。だって和菓子と抹茶のデザート付きだったんですもの!
とらや 赤飯お重ランチ


隣のテーブルにはちょっとお洒落なたぶんフランス人男性2人が座って、和菓子と抹茶を美味しそうに食べている。

わたしたちが注文した赤飯お重ランチのほうはというと。
一の重には赤飯が、二の重には卵焼き、さやインゲンや椎茸の煮物などがちょこちょこと並んでいる。そしてうれしいことに茶碗蒸しも付いてきた。
娘や息子の学校の父兄会の帰りに、そして会員になっていたギンレイ映画館の帰りによく立ち寄った神楽坂の甘党の店「紀ノ善」の赤飯弁当を思い出して、懐かしさがこみ上げてくる。

久しぶりの和のランチに舌鼓を打ちながら、ちらりと隣のフランス人男性に目を向けると、和菓子の2個目を注文していた。和菓子の真髄がかれらに届きますようにと願いながら(ほんの瞬間だけ、もう一度!)盗み見をしてしまう。

わたしたちもデザートの和菓子をお重に詰めて運ばれた4つの和菓子の中から選ぶ。抹茶か他のお茶も選択肢にあったが、やっぱり抹茶を注文する。

ランチのデザート 和菓子とお抹茶


店内は静かな雰囲気だった。
トイレは2階にあり、鼠色の石のシックな空間だった。

そして、店内に、福音館「和菓子のほん」を発見した!!

パリの人たちの中に浸透してゆくように感じられる、とらやパリ店の和菓子の文化。

ガレット・デ・ロワの入ったとらやの黒い紙袋と共に店を後にして、日本人としての誇らしさと、ほっと温かい安らぎを感じながら、どんより曇り空のパリの雑踏に混ざり込んでいったのだった。