2013年12月28日土曜日

マローンおばさん Mrs.Malone

絵本 マローンおばさん (こぐま社)


キンシャサの暮らしも2年になろうとしている。

ここで、いったいどれだけの女性と出会ったことだろう。
いろんな国からの女性が、いろんな人生を背負って、キンシャサで暮らしている。
それぞれの女性が生きてきた道のりを聞いて、はるかな道のりを思い、涙するときさえある。

今日もまたひとりの女性から電話がかかってきた。
あなたに会いたいの。今から行ってもいい。

かのじょは、中国をオリジンに、他のアジアの国で生き、さらに他の国出身のご主人に出会い、かれについて10年以上もキンシャサで生きるベルギー国籍の女性だ。

とても前向きで、世話好きで、自身の語学力をものともせずに、よく自宅で昼食会を開いて多くの友人たちを招待してくれる。

そのかのじょが、最近、ちょっと元気がない。
72歳になるというかのじょは、キンシャサの若いアジア女性の中で居場所を感じない、と言うのだ。
30代の若い世代の女性と、70歳過ぎのかのじょ。
孤独感につぶされそうな表情をして訴えてくる。
前向きに生きてきたかのじょには、同年代の女性がキンシャサを去って行き、ふと気づいたら若い世代ばかりになっていたのだ。
わたしは、その中間。
かのじょは自身の心境を吐露したくてわたしに会いに来たのだなあ。

年を重ねていく、ということを改めて思った。
そして、同年代の仲間の存在の大切さをも思った。

でも、と思う。
人は与えられた境遇の中で生きてゆかねばならないのだ。
老いてゆくことの覚悟も必要なのだなあ。

わたしのこれからのバイブルとなるであろう、絵本「パリのおばあさんの物語」と共に思い出す絵本が、このファージョン作の「マローンおばさん Mrs.Malone」だ。(日本では1996年、こぐま社より発刊。)

マローンおばさんは森のそばで独り貧しく暮らしていた。
おばさんを訪ねるものは誰ひとりなく、心にかけてくれるものもいない。
そんなおばさんの住む家に、冬のある日、すずめが、そしてまたある日、猫が、またある日には母さんギツネと半ダースの子ギツネが訪ねてくる。

貧しく、他人に与えるじゅうぶんなものも持たないマローンおばさんは、それでも、皆に言うのだ。

「あんたの居場所くらい、ここにはあるよ。」と。


孤独の極みで生きているものが、同じように傷つき弱りはてたものを優しく受け入れる姿に驚き,感動する。

「あんたの居場所くらい、ここにはあるよ。」
良い響きを持ったフレーズだ。


少ないものを分け合って暮らし,そして,ある日の朝、マローンおばさんはロバの背に載せられて、動物たちと神様のもとへ旅立つ。

なんとも静かな、清らかな物語だ。
イギリス人児童文学作家、そして詩人であるエリナー・ファージョンの詩を、翻訳、絵本化した本だと紹介されている。(1962年、ニューヨーク)
エドワード・アーディゾーニの白黒の挿し絵がさらに物語を深くしている。


エリナー・ファージョンといえば、「まいごになったおにんぎょう」(岩波子どもの本)、「年とったばあやのお話かご」(岩波書店)、「ムギと王さま」(岩波少年文庫)、「町かどのジム」(童話館出版)がすぐに思い浮かぶ。
そのどれもの挿し絵をエドワード・アーディゾーニが描いているのだ。
それくらいに、ファージョンの作品とアーディゾーニの絵は密接なつながりがあるのだ。

ファージョンは、70歳を過ぎた頃、27編の自選短編集、「ムギと王さま」を編み、この短編集でカーネギー賞と国際アンデルセン賞を受賞している。
この本の冒頭に、
「わたくしが子どもの頃住んでいた家には、わたくしたちが”本の小部屋”とよんでいた部屋がありました。」
と記されている。
ユダヤ系作家の父と米人女優の母を持ち、家庭で教育を受け、父の膨大な蔵書と,家を訪れる多くの芸術家たちの会話によって知識と想像力を養ったと言われるファージョンの生い立ちを知ると、かのじょの泉のように湧いてくる想像力豊かな物語の源泉が理解できるように思われるのだった。

また、アーディゾーニといえば、ファージョンのほとんどの作品の挿し絵を描く画家としての仕事のほかに、、彼自身の作・絵で「チムとゆうかんなせんちょうさん」他のチムのシリーズ(福音館書店)を手がけていることでも知られる作家だ。


薄い、小ぶりの絵本、「マローンおばさん」もまた、これからの老いの道で、豊かに生きることへのヒントを与えてくれる本だなあ、と思えてくる。


2013年12月21日土曜日

お国訛りの英語で


インド英語のリスニング 研究社


「ついに、こういう本が出る時代になったのだな。」

友人の田中真知さんがfacebookで、”インド英語のリスニング”(研究社刊)という本を取り上げて紹介していた。

インド訛りの英語と、インド人独特のお国柄について書かれた本だという。
インドに駐在になった日本人ビジネスマン、アリさん(という名前設定も可笑しい!)が、日々の暮らしの中で遭遇するインドならではのエピソードを基に展開される内容らしい。

真知さんによると、”異なる価値観や文化の中で、アリさんがもまれ、鍛えられていくという、いわば成長物語になっている。”ということだ。

さらに、かれの紹介は続く。
”今、世界の英語人口は約20億。そのうち英米ネイティブは4億。
残りの16億はみな、自国語訛りのローカライズされた英語を喋っている。
なかでも、インド英語を喋っているのは10億人。
インドがすごいのは、政府が「インド英語はひとつの完成された英語であり、インド人学習者のモデルとなり得る。」と明言していることだ。”  ※ 世界総人口71億5千万人(2013年)


実際に調べてみると、英語が話される国は、イギリス、米国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、アイルランド、南アフリカ共和国、フィリピン、シンガポールなど80の国、地域(Wikipedia)にも上るそうだ。
また、キンシャサで知り合った韓国の女性たちは、口をそろえて英語教育を重要視する本国の実情を言う。自国の教育熱は異常に感じる。特に英語、英語と叫ばれ、大切な自分たちの国の歴史の授業を削ってでも英語の授業を増やしている、と自嘲気味に言うのを聞いたことがある。

わたしが住むアフリカ地域でも、22カ国が英語圏だと記されている。
これらの国は、イギリスの旧植民地だった地域だと言えるが、ルワンダ共和国のように、旧宗主国がベルギーでフランス語が公用語だったのが、米国寄りになり、英語が公用語になった(2009年)という国もある。

その隣国、ここ、コンゴ民主共和国は旧宗主国がやはりベルギーだから現在も公用語はフランス語だ。
20年前にいた中央アフリカ共和国も公用語はフランス語だった(旧宗主国はフランス)。
首都のバンギでは当時フランス語しか耳にすることはなかった。アメリカ人ですら(!)、フランス語を話すのだった。

ところが、キンシャサでは英語を話すコンゴ人によく出会う。英語を耳にすることが多いのだ。
我が家の家政婦も、これからは英語を話せないと仕事に就けないから、子どもたちにはしっかり英語を勉強させたいと言う。
キンシャサの学校では、フランス語で授業が行われ、校内で、国語であるリンガラ語を喋っていると先生から注意されるのだそうだ。そして、英語の授業は12歳から始まるということだ。
知り合いの学生たちが持っていた英語リンガラ語対応の20ページほどの辞書を目にした家政婦は、我が家の子どもたちの英語の勉強のために、ぜひこのドキュメントをコピーさせてほしいと懇願してきたほどだ。
英語の重要性を訴えるかのじょではあるが、でもまずはフランス語をしっかり勉強しての英語だ、という言い方をする。


話は逸れるが、コンゴの国語とされるリンガラ語、スワヒリ語、チルバ語、キコンゴ語はどれも文字を持たない。話し言葉なのだ。だから、アルファベット文字を使って表す。

サハラ砂漠以南のアフリカの国で、独自の文字を持っている民族はエチオピアだけだと思う。どこの国の国語も部族語も話し言葉なのだ。
これは、かれらが言語を聞く能力に長けていることを意味するようにも思われる。
かれらは、公用語を話せて聞き取れても、正確な文章を書けないことが多い。かれらが受けた学校教育事情にもよるのだろうが。


話の逸れついでに思い出すのが、30年近く前に滞在していたネパール、カトマンズで出会った男子大学生の話だ。
ネパールは、当時、王国で、独自の文化を培ってきた誇り高い国民だった。
多民族国家だから、多数の部族語が存在するが、公用語はネパール語だ。そして独自の文字を持っている。
それでも、学校教育の授業は英語で行われ、国語の授業でネパール語を学習するのだと言うのだった。

わたしは、その男子大学生に言ったものだ。
いいわねえ、小さいときから英語で授業を受けられるなんて。だからあなたちは英語が上手なのね。
すると、かれは悲しそうな表情で、わたしたちは英語を勉強しなければ専門書を読めないのです、と言ったのだ。
大学での研究書も文献もネパール語で著された書物がないと言うのだ。
愕然とした。

わたしたち日本人はなんと恵まれた民族なのだろう。
以前、アイヌ語というものが存在したが抹殺され、いつのまにか単一言語を持つ単一民族という概念がまかり通っているが、ともあれ、わたしたち日本人は独自の三種類の文字を使って書き表すことができるのだ。


書き文字をもっていること、そして自国の文字で表された書物を入手できることは、当たり前のことではないのだということを想像してみてほしい。



また、こんなデータも見つけた。
英語母語話者は、世界人口の4.68%で、第1位の中国語母国話者(13.22%)と比べるとかなり少ない。ところが、公用語人口としては英語が世界一だというのだ。


世界の主要20言語使用人口


下の表は世界の主要20言語の使用人口です。左欄は母語(第1言語)を基準とした言語のリストで、右欄はその言語が公用語となっている国の人口を示しています
母語人口公用語人口
1中国語 (1,000)1英語 (1,400)
2英語 (350)2中国語 (1,000)
3スペイン語 (250)3ヒンディー語 (700)
4ヒンディー語 (200)4スペイン語 (280)
5アラビア語 (150)5ロシア語 (270)
6ベンガル語 (150)6フランス語 (220)
7ロシア語 (150)7アラビア語 (170)
8ポルトガル語 (135)8ポルトガル語 (160)
9日本語 (120)9マレー語 (160)
10ドイツ語 (100)10ベンガル語 (150)
11フランス語 (70)11日本語 (120)
12パンジャブ語 (70)12ドイツ語 (100)
13ジャワ語 (65)13ウルドゥー語 (85)
14ビハール語 (65)14イタリア語 (60)
15イタリア語 (60)15韓国語 (60)
16韓国語 (60)16ベトナム語 (60)
17テルグ語 (55)17ペルシア語 (55)
18タミール語 (55)18タガログ語 (50)
19マラータ語 (50)19タイ語 (50)
20ベトナム語 (50)20トルコ語 (50)
注:
* 単位:100万人
* テルグ語・ジャワ語など必ずしもその国全体の公用語でない言語も含まれています。
* マレー語・タガログ語など多言語国家の公用語も含まれています。
* インドのように、ひとつの言語が公用語とされている国でも国民全てがその公用語を流暢に話せる訳ではない国も含まれているため、右の欄の数値は比較的高めに見積られています。
出典:ケンブリッジ大学出版局「THE CAMBRIDGE FACTFINDER」1993年刊


興味深いデータだ。


わたしがここ、キンシャサでメンバーになっているIWC(International Women's Club)で使用される第一言語は英語だ。第二言語としてフランス語でのアナウンスも必ず加わるのだけれど。

そこで知り合ったアジア女性たち(それに中南米や欧米出身の女性も加わる。)でよくランチやお茶の会を持つ。

ある日、インド女性の自宅でランチ会があった。
かのじょの自宅はアメリカ、テキサスで家族も皆、米国在住のスマートな女性だ。
もちろん、話す言葉は英語だ。
キンシャサでの厳しい生活のストレスを晴らさんばかりに思いっきりぺちゃくちゃとお喋りが始まると、リスニング力に自信のないわたしは更に聞き取りが辛くなる。

かのじょたちは、日本人は英語力が乏しいということを今までの任国で理解していて、時々わたしに、「今の話、分かった?」と訊いてくる。
長い力説の後にそんな確認をされても、「ごめんね、理解できなかった・・。」なんて言えないから、わたしは、うん、と言うしかない。
だから、どうにか聞き取ろうと必死で、単語と単語、そして、想像力を駆使して耳ダンボで聞き耳を立てるのだった。

わたしが、今、個人で習っているコンゴ人の先生のフランス語授業について、不満を言った。
書くことより話すことをしたいのに、「さあ、今日はこのテーマでフランス語文章を書いてもらいましょう」と言ってテーマを与えられる。わたしが、書くことは宿題にしてほしいと希望しても、書いてから、それを基に会話をしましょうと言い張る。
そして、わたしが作文している間、先生は何をしているかと言うと、リンガラ語高らかに電話をし始める。ひどいときは電話相手に向かって激怒し、挙句に泣き出すことすらある。
またあるときは、遅いランチだと言って、食事を始めることもあるのだ。
もちろん、そんな日ばかりではないのだけど。・・・

そんな愚痴をこぼすと、皆は一斉に、あなたは先生を替えるべきだと言い始めた。
ある人は、あなたはフランス語の授業を止めるべきね。英語をしっかりやるべきよ。と言ってきた。
もう世界は、英語で事足りる時代になっているのよ。英語のレッスンこそ受けるべきよ。
あなた、英語もフランス語も、ってやってるから混同するのよ。
この際、フランス語の授業は止めるべきよ。

そこにいた女性たちは、皆、お国訛りの強い英語を堂々と使う。
そして、そんな英語でしっかりコミュニケーションを取り合っている!
かのじょたちはまた、コンゴの公用語であるフランス語についても、使用人や買い物の交渉時に困らないくらいのフランス語力を持っている。

かのじょたちは、「わたしの英語の発音が聞き取りにくくてごめんなさい。」とは決して言わない。
言わないどころか、我が身は振り返らずに、あなたの英語は理解できない、と平然と言ってくるのだ。
自分の英語の発音に微塵の劣等感も持たず、あなたの発音こそが聞き取りにくいのよ、と言わんばかりなのだ。

わたしは日本人として謙虚な気持ちで、ごめんなさい、わたしは英語が下手だから、あなたは忍耐力が要るわね。と言うと、コクリと頷かんばかりの表情をするのだった!


確かになあ。
アメリカ人の納豆言葉といわれるレロレロしたアメリカ英語も、タイ人のポワンポワンと発音する英語も、インド人の”R”の強烈巻き舌発音も、中国人の飛び跳ねるような発音も、全部、地球英語なのだなあ。

英語を地球の共通語とするならば、クィーンズイングリッシュやアメリカンイングリッシュの優位性なんて関係ないのだ。
まずは、”ネイティブ原理主義”から開放されなければ。
それぞれのお国訛りの英語で堂々とコミュニケーションを取ればいいのだ。

いろんな国から来ている人たちと交わって、一期一会、いろんな出会いを持ちたい、と心から思う。
IWC(国際女性クラブ)での出会い、それからゴルフコンペを通しての出会い。
そのための英語、フランス語でのコミュニケーション力が欲しいと切に思う。


11カ国のマダムたちと 友人宅でのランチの集まり

これからも、わたしは自然体でわたしなりの英語とフランス語で、いろんな国からの友人たちと交わっていこう。誠心誠意の姿勢を忘れずに。等身大で。


2013年12月17日火曜日

アフリカの夜長に

今朝も、キンシャサのテレビニュースは、中央アフリカ共和国の宗教紛争(民族紛争)の悲惨さを伝えていた。

この国で20年前、わたしたち一家は3年間、暮らしていたのだ。

息子がボーイとして憧れたフランソワおじさんは、既に亡くなっている。
我が家の運転手だったポールはどうしているだろう。穏やかな本当に良い人だった。
わたしたちが名付け親になったポールのお嬢さんはもう20歳だ。辛い青春時代を送っているのだろうなあ。
ポールの叔父さんに当たるエドモンドおじさんは、軒下でいつもミシンを踏んで働くまじめな人柄で、我が家御用達の、腕の良い仕立て屋だった。

みんな、元気でいてほしい。生き延びて欲しい。
フランスに住む娘も、東京で暮らす息子も、そしてまたアフリカで暮らす私たち夫婦も、それぞれが思い出のたくさん詰まった中央アフリカ共和国の人々の無事を祈る思いで日々を過ごしている。


今日、キンシャサでの勤務を終えて帰国されたかたがいた。
かれは、わたしたち母娘の絵本屋ブログを見て、三人の息子さんのクリスマスプレゼントにとネット注文で数冊の絵本を購入されたのだそうだ。
帰国挨拶メイルにそんなことが書かれていた。
ニュースで伝えられる映像と相まって、わたしたちが中央アフリカの首都バンギで過ごした夜の読み聞かせの時間のことがとても懐かしくよみがえってきた。

北緯4度に位置するバンギは、一年を通して、夕方6時前後に日が暮れる。
夫はバンギから150kmほど北西に入った現場に月曜日から木曜日まで滞在する日々だったから、週4日は娘と息子とわたしの3人で夜を過ごしていた。
何もかも済ませて、早々に蚊帳を吊ったベッドに入った子どもたちと、ベッド傍に引き寄せた椅子に座ったわたしは、毎晩、物語の世界を一緒に楽しんだのだった。
停電に備えて、傍に懐中電灯を置いて、建て付けの悪い窓から忍び込んでくる蚊に刺されながら。


まず思い出す物語は、「飛ぶ船」だ。



”飛ぶ船”(岩波少年文庫・上巻) 

わたしたちがバンギに持って行っていたこの本は一冊のハードカバーのものだった。
現在は、岩波少年文庫から上下巻に分かれて出版されている。
イギリスに住む4人の兄弟姉妹がうす暗い小さな店で見つけた模型の帆船は、なんと魔法の飛ぶ船だったのだ。
時間空間、地理空間を自由自在に飛んで、子どもたちをいろんなところに誘う帆船に乗り込んで繰り広げられるスリル満点の冒険物語をわたしたちはどれほど楽しんだことだろう。
ヒルダ・ルイスの描く歴史物語の確かさが、さらに物語をリアルにスリルアップしてくれたのだった。


そして、ローラ・インガルス・ワイルダーの物語もまた懐かしく思い出される。
福音館書店発刊の「大きな森の小さな家」から始まり、「大草原の小さな家」、「プラム・クリークの土手で」、「シルバー・レイクの岸辺で」、「農場の少年」(以上、福音館書店)と読み進めていった。

”大草原の小さな家”(福音館書店 インガルス一家の物語2)

当時、母子それぞれが手書き新聞を毎月発行していて、それに三人でローラの物語を楽しんでいることを載せたら、夫の会社のかたが出張時に続編を五冊、バンギまで持ってきてくれたのだった。
本当にうれしい日本からのお土産だった。
岩波少年文庫の「長い冬」、「大草原の小さな町」、「この楽しき日々」、「はじめの四年間」、そして「わが家への道」の五冊だった。

”長い冬”(岩波少年文庫 ローラ物語1)

100年以上も前のアメリカ開拓時代を描いたインガルス一家の物語りにもまたはまり込んだものだ。
お父さんが町に買出しに出て何日も帰って来なくて、待ちに待ったお父さんがお土産を買って帰ってくる。きれいなキャンディや、貴重な窓ガラスだ。
わが家のお父さんも現場から色々なお土産を抱えて帰ってくる週末のお楽しみと重なり合って、ローラ姉妹の思いを共有したり、蚊に悩まされて、家の周囲にレモングラスを植える場面が出てきたときは、バンギと同じような環境に住むローラ一家を身近に感じたり。
アフリカ生活とアメリカ開拓時代の生活がオーバーラップして、わたしたちにエールを送ってくれるような物語だった。


スウェーデンの小さな村に住む三家族の子どもたちの暮らしを描いたアストリッド・リンドグレーン作の「やかまし村のこどもたち」、「やかまし村はいつもにぎやか」、「やかまし村の春夏秋冬」(岩波書店)の三部作も心底楽しんだ。この6人の子どもたちののびやかな北欧の暮らしぶりにどんなに和まされたことだろう。

”やかまし村の子どもたち”(岩波少年文庫)

「長靴下のピッピ」の作者でもあるリンドグレーンの子ども像には魅了されてしまう。


子どもたちの持つ天性のユーモアを直球で描写する、ノルウェーのマリー・ハムズン作「小さな牛追い」、「牛追いの冬」にもはまり込んだ。ランゲリュード家の4人の子どもたちの織りなす愉快なハーモニーがあちこちに散りばめられていて、そのたびに笑い合った。心地よい笑いだった。

”小さい牛追い”(岩波少年文庫)



笑い、で思い浮かぶ物語といえば、ファ-ジョン作の「年とったばあやのお話かご」(岩波書店)だ。
”年とったばあやのお話かご”(岩波書店 ファージョン作品集1)

イギリスらしい物語だ。兄弟姉妹の住む家には、毎晩、子どもたちがこしらえたソックスの穴かがりの繕い物をしながら、その穴の大きさに合わせて楽しい話までこしらえてくれる大法螺吹き名人のばあやがいるのだった。そのばあやの口から編み出される奇想天外な話がぎっしり詰まったこの本もまた、思い出深い一冊だ。

毎晩、毎晩、この就寝前の時間がわたしには至福のときだった。
静かなアフリカの夜だった。

どうか一刻も早く、中央アフリカ共和国の村々にも静かな平和な夜が戻ってきますように。

2013年11月27日水曜日

和菓子のほん


雨季と乾季しかない常夏の国、コンゴに住んでいて思うのは、四季の移り変わりを体で感じ、暮らしに工夫を凝らしてきた日本人の”繊細さ”と”智恵”の素晴らしさだ。

高温多湿の季節と、積雪を伴う冬の季節とー。
両極端の季節を挟んでの春夏秋冬の四季を、日本人は色んな暮らしの智恵を持って、楽しんでさえいるように感じてしまう。

日本、っていいなあ。
日本人、ってすごいなあ。

そんな思いに浸りながら、つらつらと考える中で思い浮かぶ絵本が、福音館書店が毎月発行する”たくさんのふしぎ”の中から更に厳選されて発行される、”たくさんのふしぎ傑作集”の中のひとつ、「和菓子のほん」だ。

ちなみに、”たくさんのふしぎ”という福音館書店発行の月刊絵本は、自然,環境,人間の生活・歴史・文化、さらに数学・哲学の分野までのあらゆる「ふしぎ」を毎月、ひとつのテーマについて考え編集される月刊誌で、1985年4月創刊なのだそうだ。
2010年3月号で何と300号を記録し、さらに毎月興味深いテーマで発刊し続けている。


福音館書店 たくさんのふしぎ傑作集 ”和菓子のほん”


「和菓子のほん」という絵本の中に、厳しくはっきりした四季を、”和菓子”という小宇宙の中に凝縮した日本人の素晴らしい芸術観を感じ取ってしまうのだ。

春の桜、夏のせせらぎ、秋のもみじ、冬の雪。
もっといえば、春のひな祭り、夏の鯉のぼり、紫陽花、鮎、、秋の七夕、月見、冬の七五三、雪うさぎ・・・。

”食べる季語”とまで言わしめた和菓子という小宇宙の芸術性を、的確に枝葉末節を削ぎ落として編集された絵本が、この「和菓子のほん」と言える。

もちろん、わたしたちが開店した”夏の絵本屋”でも取り扱った。
また、娘が結婚相手だといって連れてきたかれにも、まず、この”和菓子のほん”をプレゼントした。


さらにわたしの幼少期の思い出にも行き着いてしまう。
そのころわたしたち家族が住んでいた北九州、八幡製鉄所社宅入り口の相生町バス停降りてすぐのところに、”さくらぎ”という和菓子屋があった。
父は、そこでよく四季折々の和菓子をお土産に買ってきてくれた。
もち米でできた”桜餅”、あんこがしっかり入った”柏餅”、そしてつぶしあんの”やぶれまんじゅう”、しろあんの”ミニやぶれまんじゅう”というのもあった。

わたしが学生時代を過ごした長崎には、ポルトガルから伝わり、日本で育った”かすてら”という和菓子もあった。
さだまさし著の自伝小説「かすてぃら」でも、かれは幼少期の思い出をかすてらという”和菓子”と共に書き綴っている。

わたしは、ここ、キンシャサで”和菓子”を再現して外国の人々に日本文化に接して欲しいと思って、白いんげんを砂糖で煮て丸めて、寒天でコーティングした”あんこ玉”を作って、重箱に詰めて振舞ったことがあった。
はたして、どこまで日本文化を味わってもらえたか,心もとないが・・・。


”食べる季語”、”食べる芸術”と表現され、わたしたちが”茶道”の文化と共に誇れる、”和菓子”文化。
著者の中山圭子さんは東京芸大美術科卒。和菓子の魅力にとりつかれ、現在、虎屋の和菓子資料室、虎屋文庫の研究主幹を勤めている。
虎屋は、パリの中心地に店とカフェを構えてもいる。
1980年10月6日に開店。和菓子の魅力を紹介したいということからパリに開店して33年が経ち、今では、客の8割がフランス人だということだ。
安倍真由美さんのイラストも魅力的だ。

さっぱりと編集された中にしっかりとエッセンスが詰まった、この「和菓子のほん」。
日本文化の繊細さに興味を持つ外国の友人にも最適のお土産になると確信する。

2013年10月26日土曜日

絵本 沖釣り漁師のバートダウじいさん

隣国、コンゴ共和国の港湾都市、ポアント・ノアールPointe-Noire に4年間、家族で住んでいたという日本人マダムとキンシャサで仲良くなった。

ポアント・ノアールは大西洋に面していて、地図を観ると湾になっているのがわかる。(下の地図参照。)


かのじょたちは、よく内海、外海で泳いでいたのだそうだ。外海は急流だったから気をつけていたという話まで楽しそうに話す前向きな女性だ。
かのじょの話すポアント・ノアールの町は、マリンスポーツを楽しんだり、海辺の美味しい海鮮料理のお店で新鮮な食材に舌鼓を打ったり、まるでアフリカの海辺の町とは思えないのだった。



コンゴ共和国の首都ブラザヴィル(キンシャサの川向こう)から西南西約390km。ブラザヴィル~ポワント・ノワール間、飛行機で約2時間という。


さらに拡大地図でポアント・ノアール湾を見ると、

Baie de Pointe-Noire(ポアント・ノアール湾)とポアント・ノアールの町


なんだか、ゴミ箱をひっくり返したようなアフリカの大都市、キンシャサとはまるで違うイメージを持ってしまう。



ポアント・ノアール沖にはなんと、イルカやクジラが集まってきていたから、ホェール・ウォッチング・クルーズもできたという話を聴きながら、わたしは、クジラが登場する、カラフルで壮大な絵が魅力的な絵本、”沖釣り漁師のバートダウじいさん”の大ぼら話(!)を思い出していた。



絵本 ”沖釣り漁師のバートダウじいさん”



この絵本もまた、娘が25年も前に幼稚園で出会って大好きになってしまい、我が家の本箱の一員になった絵本だ。
きっと、娘は、大きな波をたくましく進むカラフルな船とカラフルな合羽を着込む漁師が描かれた表紙からして気に入ってしまったのだろう。

絵と文は、ロバート・マックロスキーさん!
「かもさんおとおり」、「サリーのこけももつみ」、「海辺のあさ」、「すばらしいとき」でも楽しませてくれるアメリカの絵本作家だ。そして、訳はまたお馴染みの渡辺繁男さんでもある。

バートダウじいさんは、口うるさいけどしっかりものの妹と海辺の町に住んでいる。
庭には、引退した舟がリペインティングされて花壇に仕立てられ、ゼラニウムなどの花がこれまたカラフルに咲き乱れている。
(何度もこの絵本を娘、息子に読んでいるうちに、この廃船花壇の場面に来ると、どんな花かも知らないのに、呪文のように「ゼラニュ~ム」、「ゼラニュ~ム」と連呼していたことを懐かしく思い出す。)


ある日、バートダウじいさんはぽんこつ愛船、”潮まかせ号”に乗って沖へと繰り出した。
そこでかれの釣り針に引っかかったのが大きなくじらだった。
じいさんは、傷ついたくじらの尻尾にバンソウコウを貼ってやるのだった。

そして嵐に遭い、くじらに呑み込まれる。
くじらに呑み込まれてもちっとも恐怖なんか感じない。
くじらのお腹の中って、カラフルな洞窟みたいなところなんだなあ、わたしもクジラに呑み込まれてみてもいいかも、なんて幼心にあれやこれや想像して、バートダウじいさんの世界にそれこそ、”呑み込まれて”いくだろう。


クジラのお腹から見事に脱出したじいさんが見た光景とは!

カラフルなでっかいクジラたちが、バンソウコウを貼ってもらおうと順番待ちしている光景に微笑んでしまう。(このバンソウコウを張ってあげる、ということにも娘の目には魅力的に映ったようだ。その証拠に、我が家のぬいぐるみにはしばらくの間、バンソウコウらしき白テープが張られていた。)
そして、こんなにたくさんのクジラたちが集まってもまだまだ余裕のある海原!
海ってでっかいんだなあ!!、と改めて感じ入ってしまう場面でもある。


海を股に掛けて生きてきたバートダウじいさんの漁師としての仕事の終わりも間近だろう。

かれの愛船の名前のように、毎日の天気まかせ、潮まかせ、そして気分まかせで歩んできた漁師人生だったのかもしれない。
そんなかれの長い漁師人生の中での経験を、ちょっと脚色されて、楽しいほら話としてわたしも子どもたちと一緒にたくさん聴きたいものだ。


アフリカ大陸の中西部にあるポアント・ノアールPointe-Noireの町にも、バートバウじいさんと、しっかりものの妹そっくりのコンゴの兄妹が住んでいて、沖釣り漁師で生計を立て、沖ではクジラと交流して、こんな物語のようなことが起こっているのかもしれない、と想像してしまうのだった。


2013年10月14日月曜日

詩画集 ”詩ふたつ”

世界三大熱帯雨林が広がるコンゴの国。

わたしが頻繁に行くキンシャサのゴルフ場は、街の中心にありながら、うっそうとした森の中に広がっている。
街中を自由に歩き回れないキンシャサ暮らしにおいて、大切な散歩空間でもある。
ウイークデーの朝早くに行くと、外国人マダムがキャディをしたがえて、ゴルフと散歩を楽しんでいる。
静かな緑深い空間が広がる、気持ちが落ち着くところだ。


キンシャサ・ゴルフクラブ1番ホール手前 ウエンゲの木の下 散った紫の花のカーペット



今月27日にキンシャサを発ち、1年ぶりに日本に一時帰国する。
そのときに、我が家の書棚で再会を楽しみにする詩画集がある。


クリムトの絵が添えられた長田弘著の”詩ふたつ”(クレヨンハウス刊)だ。


”詩ふたつ” 表紙


「花を持って、会いに行く」と、「人生は森のなかの一日」の二篇で構成される、”詩ふたつ”。
どちらも”死ぬ”ということ、”生きる”ということをテーマにしている。
そうなのだ、人生を閉じる、とはこういうことなのだ。
クリムトの絵とともに、ページをめくりながら、静かに深く読んでいく。


わたしがこの詩の本に出会ったのは、2011年4月、神田神保町の岩波ホール近くにある本屋でだった。東北での大震災間もない頃で、日本中が混沌とした、雑然とした、鎮魂の空気に包まれている時期だった。
ふと、長田弘さんの名前に導かれて手にし、箱から出してページをめくって読んだとき。
ぽたん、と心にしずくが落ちて、水面の輪っかのように広がり沁みる波長がはっきり見えたように感じた。
そして、めくるたびに詩を読むたびに目に飛び込んでくるクリムトの花の絵,森の絵にも深いものを感じた。


震災後の日本全体に漂う喪失感の中で、詩を声に出して読むことの効果を身を持って感じていた時期でもあった。
今度の”夏の絵本屋”では、詩の本を置こう、と決めてもいた。
そうして、その年の夏に開店した”夏の絵本屋”で紹介する本の一冊になったのだった。


詩を声に出して読む。
そうだ、詩の朗読の時間を絵本屋で持とう。

友人のチェロの伴奏と友人の朗読。
人選はわたしの中で即決だった。
落ち着いた声で朗読してもらいたい、言葉の重み,深さをしっかり受け止めている人に朗読してもらいたい。
チェロの低く奏でる音質。
その中で朗読してもらいたい。
チェロ奏者にもぴったりの友人がいた。
選曲は、その年の春、バレエの舞台でかのじょが演奏した、”バッハ無伴奏”だ。
詩の選択は、朗読する友人に決めてもらおうと思った。

友人が選んだ詩は、この”詩ふたつ”だった。

そうして、2011年の8月、夏の絵本屋で、”チェロ・バッハ無伴奏”の生演奏とともに、”詩ふたつ”の朗読が実現した。
静かな夏の午後の、あのときの空間のことを、今も鳥肌が立つくらい、きれいな思い出として蘇ってくる。


この項を書くために調べていたら、長田弘さんは福島市出身のかただと知った。
この詩画集が出版される前年に奥様を亡くされている。


久しぶりの我が家で、この本に再会できる。
ひとり静かに声に出して読んでちょこっと心の休憩を、と思っている。


2013年9月9日月曜日

キンシャサのプランターと、絵本「リネアの小さな庭」の思い出

キンシャサの茄子は灰汁(あく)が強くて美味しくない、とfacebookに愚痴をこぼしたら、それでは日本の茄子を種から植えて自分で育てるしかないよ、と日暮里で動物病院を開院し、本格的な家庭菜園、そして養蜂までしている獣医さんが茄子の種を吟味してはるばるキンシャサまで郵送してくれた.
それが6月中旬だった。
そして半月かかって我が家にかれからの茄子の種が届き、7月に入って庭のプランターに種まきをした。

キンシャサはちょうど乾季の真っ只中で気温が上がらず、しかも南向きのベランダにはお日さまが当たらない時季だった。
(南緯4度のキンシャサは3月下旬の春分の日頃から夏至を過ぎて秋分の頃まで太陽は北側の空を通過するのだ。)

念のために、我が家の家政婦の庭にある家庭菜園にも茄子の種を植えてもらうように頼んだのだった。
彼女は実際、よく家庭菜園で収穫したというチンゲン菜やかき菜のような野菜を運んでくる。
肥料も体に良いものだけを使用しているということだ。


ベランダの左のプランターに茄子の種を植えた7月

我が家のプランターの土にはタバコの葉が混ぜられたものが入れられた。
防虫に聞くといわれる土を夫が買ってきたのだった。
タバコの葉にはニコチンが含まれているのに、食用野菜の栽培に大丈夫なのか心配になり、種の送り主の獣医さんに尋ねたら、OKサインを貰えて安堵したのだった。

ところが、待てども待てども芽は出てこなかった。
家政婦のところの菜園でも、期待に反して茄子は発芽しなかった。

夫は、乾季の間は気温が22、3度まで下がるから茄子の発芽条件は満たされないのではないかと言った。
コンゴ南部の農業地域出身の家政婦は、土がいけない、水はけがよくないのだ、と言った。
でも、家政婦のところの菜園でもとうとう発芽しないまま7月も8月も終わったのだった。

8月末にキンシャサは3ヶ月ちょっとぶりにしっかりした降雨量を持った。
コンゴの人たちはいよいよ雨季に入るぞと言いまわった。
確かに気温も上昇してきた。

そして夫が新しい土を買ってきて、いよいよ茄子の発芽の条件がととのっだぞと言って、心機一転もう一度、茄子の種を植えたのだった。
9月6日のことだ。


9月6日;土を入れ替えて再度、茄子の種を植える

ただいま、午後3時、気温26℃。
今度こそ、茄子の種が発芽しますように。


毎朝、毎夕土の表面が乾かないように水をやっていて、一冊の本についての懐かしい思い出が蘇ってきた。

「リネアの小さな庭」というスウェーデンからの家庭菜園の入門書のようだ絵本だ。

中央アフリカ共和国のバンギに暮らしていた頃、小学校高学年だった娘の愛読書の一冊が、この本だった。



絵本 リネアの小さな庭


”リネアの庭”とは植木鉢や空き缶や空き箱を利用したものを指し、そんな身近なところで植物を育てられるというところに娘は魅力を感じたように思う。

娘は、とくにリネアの果物を育てるページが好きだった。
アフリカには特別、熱帯地方の果物が豊富にあったことも影響しているだろう。

アボカドに目がなかった娘は、リネアが懇切丁寧にアドバイスするアボカド栽培に挑戦したのだった。

アボカドを毎日食べ続け、娘は選りすぐりのアボカドの種を乾かした。
そして、ベランダの発泡スチロールの植木鉢の土に種を置き、いとおしむように土の毛布をアボカドの種の上にそーっと掛けたのだった。

来る日も来る日も、娘はプランターの中と、リネアの本を見続けた。

そして、とうとう発芽。
ぐんぐん芽が伸び、茎に葉っぱもついた。
ところが、リネアのアドバイスは、確か、せっかく伸びた茎を葉っぱごと何十cmか残して切るように、というものだった。
娘は悩みに悩んで、リネアのアドバイスに従った。
本当に切ってよかったのだろうかと少々後悔するような表情が見えたが、娘は大好きなリネアを信じることにしたようだった。

そしてその後も順調に成長していったが、ある日クリスマス休暇のときに、中央アフリカ共和国の北、スーダン国境近くにある川に何百頭もの野生のかばを見に行くことになった。
おりしも、中央アフリカは乾季だった。
道なき道を四輪駆動ジープで進み、サバンナに野宿し、川にごろごろごろーっと平和に昼寝する野生のかばと対面して近くのロッジに1,2泊。それからまた、サバンナに野宿して道なき道をひたすら我が家に戻ってきたのだった。
1週間ほどの旅だった。

帰宅して娘が見た光景は・・・。
プランターの土の上に一本、葉が取れてスックと立つ枯れた茎だったのだった。


それ以来、むすめは二度とアボカドの種を植えようとはしなかった。
それでも、娘にとってリネアのこの本は愛読書の一冊であり続けた。

フランスに嫁いで、わたしは、きっと娘は二冊の本だけは絶対持って行っている、と確信している。
一冊は、このリネアの本。
もう一冊は・・・。
いつか娘自身で紹介してくれることを待つことにしよう。

残念ながら、この絵本ももう一冊の絵本も在庫切れ、重版未定の表示になったままだ。

「リネアの小さな庭」
世界文化社発行
クリスティーナ・ビョルク 文
レーナ・アンデジョン 絵
山梨幹子 訳

2013年9月5日木曜日

小説 「風に立つライオン」

今日は絵本でなく、アフリカを舞台にした物語の話題を。

さだまさし作詞作曲の歌 ”風に立つライオン”がとうとう小説になった。

小説「風に立つライオン」表紙

この”風に立つライオン”は、ケニアに医師として赴任して3年、苦悩しながらも真正面からアフリカの人々と向き合いながら生きる主人公が、ケニアの雄大な風景、人々の様子を織り交ぜながら、日本に残してきた以前の恋人から届いた結婚報告の手紙に対しての返信として綴り送った手紙、という形で書かれた楽曲だ。

さだまさしのコンサートで、アフリカのサバンナに沈む壮大な夕陽の風景がステージ上のスクリーンいっぱいに映し出される中を、アフリカンドラムの響きから静かに入る”風に立つライオン”を聴いたことがある。
間奏部分でひときわ大きく演奏されるバイオリンの”アメイジング・グレイス”がしっくりきて、体じゅうで感動したことを今でもはっきり思い出す。


最近、日本の友人からのメイルで、この歌が小説になったことを知った。
さらに。
3、4年ほど前だったか、さださまさしのコンサートのゲストに招かれた俳優の大沢たかおが、”風に立つライオン”を映画化するときはぜひ主人公を演じさせてほしいとさだまさしに懇願していた場面をわたしは客席から見届けたのだが、そのときのさだまさしとの約束どおりに彼が映画で主人公を演じることが決定したことも知ったのだった。


さて、そうなると早くこの小説を手にしたい、読みたいという想いが募る一方だった。

そして、ついに!
先月、キンシャサを訪れた知人のみやざき中央新聞の編集長夫妻がわたしにサプライズプレゼントだと言って持ってきてくれたのが、なんとこの、小説「風に立つライオン」だった。

しかも!
なんとそれは、歌”風に立つライオン”の青年医師のモデルとなった柴田紘一郎医師のメッセージとサイン入りの本だったのだった。


”風に立つライオン”の青年医師のモデル、柴田紘一郎医師からのメッセージ


柴田紘一郎医師はわたしの母校の長崎大学の医学部を卒業されている。

柴田医師が長崎大学医学部熱帯医学研究所のケニア研究所に赴任されたときのことを知人のさだまさしに語って聞かせ、かれのケニアでの経験談をヒントに創作されたのが、”風に立つライオン”だと聞いたことがあった。

長崎大学医学部、と聞いて懐かしいことがふつふつと蘇ってくる。

わたしは教育学部だったが、乳幼児心理学の講義で、また心理学教室での遊戯治療の手伝いで、しばらく医学部キャンパスに週1回のペースで通っていた時期があった。
教育学部のある本部から裏門を抜け、永井博士の住居跡の如己堂を通り、現在のような赤レンガ建物に復元される前の浦上天主堂の前を通り、緩やかな坂道を上って医学部キャンパスへ通う道は、まさに長崎らしいわたしのお気に入りの散歩コースだった。

また、わたしは夫との結婚が決まってから、いつかのアフリカやアジアでの家族滞在のためにと、長崎大学医学部の熱帯医学研究所の公開講座に参加したこともあった。卒業以来、久しぶりの長崎を楽しんだことも懐かしい思い出だ。


わたしは今回、小説「風に立つライオン」を読んで、長崎大学医学部の熱帯医学研究所がケニアにも研究施設を持っているということを初めて知った。

現在、この歌や小説のモデルとなった柴田医師は宮崎市の病院に勤務されていて、知人夫婦が懇意にしているということだった。

柴田医師からいただいたメッセージにある「安請け合い」も口癖の「ダイジョウブ!」も、小説の主人公の人間性を表現するキーワードであり、彼が繰り返し吐くセリフなのだが、ああ!きっと柴田医師ご本人が、「安請け合いのミスター・ダイジョウブ」なのだろうなあと確信したのだった。


わたしの、何でも引き受けてしまう性質と「きっと、うまくいく!」と唱えて進む信条と合致しているようで、このメッセージを書かれた柴田紘一郎医師に親近感を覚えてしまった。



さだまさしは小説の中で、主人公につながっている知人たちそれぞれに回顧録という形でその青年医師について語らせて、かれの人格、生き様を浮かび上がらせていく。
そして、さだまさしの同名の歌の中のアフリカの世界を、かれが実際に支援活動をしている東北大震災被災地の人々の生きる世界につなげて、小説は完結している。


わたしが学生時代にアルバイトをしていた長崎放送のディレクターが、さだまさしのこんな話をしていたことを思い出す。

「まさしは、人の話を聞くとなんでもかんでも書き留めるんだよ。書くものがないと箸袋にまでぎっしり書いてポケットにしまうんだ。」

きっと、人との交わりを大切にするさだまさしのポケットにはいろんな人から聞いた情報がかれの心根に沁みて醸造されて、しこたまたっぷり、溢れんばかりにストックされているのだろう。


かれのアフリカに対する知識、思い、医学の知識、災害の知識などがたっぷり織り込まれて進むストーリー展開も飽きなかった。

もしかしたら、かれの小説にはロマンがちょっとあり過ぎる、と苦言を呈する人もいるかもしれない。
それはアニメ監督の宮崎駿の作品にも通ずるように感じる。
かれらのロマンを、わたしはすっくり素直に呑みこんで楽しむのも心地よい鑑賞だと思ったりする。

わたしには、知人を通してfacebookでつながった1人のコンゴの若者がいる。
かれは、現在、国費留学生として長崎大学医学部に留学中のコンゴの青年医師だ。
わたしが、さだまさしの歌、”風に立つライオン”が大好き、とメッセージを送ると、その青年は、小田和正の”言葉にできない”、”さようなら”が好きだと返信してきた。
そんなメッセージにかれの優しい人柄を感じた。
かれの手によっても、きっとアフリカと日本との間で心のバトンが引き継がれてゆくのだろう。


ケニア 夕陽の中のマサイ族 (あるサイトより)

この小説に出てくる「ガンバレ! ガンバレ!」という叫び声が読み終わった後も心に響く。

          
”「ガンバレ! ガンバレ!」 それは自分を励ます言葉。”

2013年7月3日水曜日

大地を踏みしめて生きる~アフリカの音

絵本 アフリカの音 表紙

アフリカに生きる人々が大地を踏みしめる音が、生活の響きが確かに聴こえてくる絵本を知っている。


沢田としきさんが描く、「アフリカの音」(講談社)という絵本だ。


この絵本のサブタイトルに、”A STORY OF WEST AFRICAN DRUM  & DANCE”、
(西アフリカのタムタムと踊りの物語)とあるように、アフリカの人々の生活に欠かせない音楽~タムタム(西アフリカでは”ジャンベ”と言うらしい。)とダンスのことを描いている。

正直に言うと、わたしの目には、このサブタイトルが全く入ってこなかった。
「アフリカの音」という題名だけが目に飛び込んできた。
そしてページをめくるたびに、アフリカの人々がしっかりと大地を踏みしめて生きる”音”を聴いた。
音楽の響き、というより生きる響きを感じたのだ。

ドーン、ドーン。

アフリカで暮らしていると、人々はどっしりと”今”を生きているなあと痛感する。

アフリカの人たちは音楽が大好きだ。
わたしの住むキンシャサはリンガラミュージックの発祥地だ。
タムタム(リンガラ語では”ンブンダ”)は身近な楽器だ。

中村寛子シスターがいらしたカトリックの教会でも、ミサのときにオルガンはもちろん、ンブンダ(タムタム)、団子三兄弟のようなマラカス、おもしろい形の金属の打楽器がリズムを刻み、シスターたちも神父様も、信者たちも皆が手を動かし、足を動かして楽しそうに聖歌を歌っていた。

我が家の家政婦はプロテスタントの信者で、さらにリズミカルに歌う。
床を拭きながら、アイロンかけをしながら、大きな声で歌う。

アフリカの人たちは、からだじゅうでリズムを表現する。
それは、かれらの生き方そのもののような気がする。


この絵本の表紙にも描かれているように、小さな荷物でも大きくて重い荷物でも頭に載せて運ぶ。
我が家のアパート前のコトー通りで粗末な木切れで作った小さな棚に並べて、毎日、野菜を売るマダムがいる。
かのじょが我が家の玄関まで野菜を売りに来るときは、大きなたらいに入れてやって来る。
そーら、見ておくれ、わたしんとこの野菜は新鮮でおいしいよ。
かのじょは、よいこらしょと、たらいを頭から下ろす。
たくましいマダムだ。

野菜を運んで我が家の玄関に現れたマダム

古いアパートが建ち並ぶコトー通りは小さな通りなのだが、露店で野菜やこまごまとして日用品、パンを売るマダムたちがあちこちにいる。
どのマダムたちも陽気だ。

我が家で働く家政婦も、勤務が終わるとバナナや飴玉や小さな日用品を仕入れて露店で売るのだそうだ。
かのじょが言った。
例えば、だんなが月に100ドルを稼いでくるとするよ。
100ドルなんて何もしないと、食費なんかで10日で使い果たしてしまうよ。
だから、わたしたち主婦は、100ドルで飴玉とか小さな日用品を仕入れて、道端で売るのさ。
売れてもうけが出たら、それでその日の食材を買って帰って夕食を作れる、ってわけさ。
6人の子どもたちが待ってるからね。

なんとどっかりした生き方だろう。
貧乏だ、お金が無い、なんて嘆いている暇なんてないのさ、と言わんばかりのたくましいマダムたち。
そして、歌を歌って、打楽器鳴らして、踊って。
アフリカの町で村で、ダイナミックにどっかりと生きる人々。


キンシャサの木の下で~床屋と荷物を頭に載せる女性


そんな人々の生きる音が聞こえてくるように描く作者、沢田としきさんってどんな人なのだろう。
調べてみると、画家であり、音楽家であり、絵本作家であり、多才な人だった。
アフリカを題材にした絵本も出している。
アフリカと繋がった仕事をされていたのだろうか。
と過去形になったのは、かれは3年ちょっと前に、急性白血病で51歳という若さで急逝されている。

絵本「アフリカの音」のページをめくると、確かにアフリカの人々がたくましく生きる”音”が聴こえる。


2013年5月22日水曜日

いせひでこ  絵描き




いせひでこ 作  絵描き


先日参加したキンシャサ・オープンゴルフで、8番ホールのプレイを終えて小高い丘に立ったとき、西の空に真っ赤な夕陽が大きく沈もうとしているところに出くわした。

はーっ!!!

思わず息をのむ美しさだった。
なんと大きく、真っ赤で半透明に見える、厳かな夕陽だったろう。


キンシャサは今ちょうど、雨季と乾季の”端境期”だ。

雨季のときは、空に厚く厚くグレーの雲がこれでもかー!というくらい垂れ込めた、と思ったとたんに大粒の雨が降り、すっかり雲を落としてしまうと天空には真っ青な空が広がる。

乾季のときには、雨を一粒たりとも落とさないように、うまく、実に絶妙にバランスをとりながら空をグレーの雲で埋め尽くし、いつも太陽を隠している。

その気候は、キンシャサを流れる大河,コンゴ河に由来していると思われる。
(だから、ここの乾季は、乾季といえども乾燥はせず、朝晩の露で緑は保たれ、気温は上がらず、まるで夏の高原のような気候なのだ。)

この雨季と乾季のほんの数日の間にだけ現れる”いわし雲”。
まるで日本の秋の空のようだ。
そのほんのわずかの間だけ、この厳かな真ん丸で真っ赤な夕陽がキンシャサで拝めるように思われる。

大抵の季節、西の地平線に沈もうとする夕陽はコンゴ河上空の分厚い見えない層になっている水蒸気で隠されて、地平線よりはるか上空で真っ赤な夕陽はかまぼこ型になって消え入ってしまうのだ。
キンシャサの西側にはコンゴ河が流れているのだから、しかたない。
   


さて。
ゴルフコースの丘から見た真ん丸い真っ赤な夕陽を見ながら思い出したのが、この「絵描き」という絵本だ。
いせひでこさんの作品。

彼女は東京芸大の出身で、パリにも滞在して絵を描き続けた経験を持つと聞く。
パリの製本職人le relieurと女の子の交流を描いた「ルリユールおじさん」、雲の多彩な表情を描いた「雲のてんらん会」、ゴッホと弟のことを描いた「にいさん」などがある。

デッサン力は本物で(という言い方は横柄に聞こえるけれど)、さらに心で感じて描く、”絵描き”(le peintre)だと思う。



絵本「絵描き」の主人公は絵を描くことを大切に真摯に生きる青年だ。
自然の中に身を置いて、心のままに風景を切り取ってスケッチ紙に写し取っていく姿に感動する。

今日は夕日を切り取って帰った、というくだりをこの絵本の中で見つけたとき、この絵本はわたしにとって宝物となった。
そしてまた、いせひでこさんという人は、まさにこの主人公のように生きているのだろうと胸に迫るものを感じる。



「世田谷文学館でいせひでこさんの個展をやっていて、今日までなんだって。」

わたしがいせひでこさんのファンだということを知っている友人からの電話で、ふたりで彼女の個展会場に駆けつけたことがあった。
原画の大きな油絵に圧倒され、魅了され、ふらふらと会場内のカフェに入ると、いせさんご自身がいらした。
「絵描き」の絵本にサインしていただいたときに、
「この絵本,大好きです。今日は夕日を切り取って帰った、というこのページが特に。」
と伝えると、
(そうよ、この絵本を絶版にしてはいけない。)
いせさんは自分に言い聞かせるように、そうつぶやいた。

当時、絵本「絵描き」は、理論社から出版されていた。
理論社が民事再生法を出し、「絵描き」の版権が宙ぶらりんになっていた時期だったように思う。

今回、このブログを書くに当たり調べてみると、平凡社から復刊されていることがわかり、ほっとした気分になった。

(そうよ、この絵本を絶版にしてはいけない。)
いせひでこさんのつぶやきが今も耳に残っているようだ。


2013年5月2日木曜日

ロバのシルベスターとまほうの小石

ZONGOのコンゴ河で採った石ころたち

この写真の石ころたちは、今年の正月に訪れたZONGOのコンゴ河で採ってきたものだ。
近くに滝があって、うっそうとした茂みが続く河岸だったから、水晶が見つかるのではと期待して探したが、徒労に終わった。

思い起こせば、わたしは小さい頃から、きれいな石ころを集めるのが好きだった。
どこに行っても、きれいな石ころを見つけては家に持って帰って、母から迷惑がられた。


そんなことを思い出しながら、一冊の絵本が浮かんできた。




絵本 ”ロバのシルベスターとまほうの小石” の表紙


「ロバのシルベスターとまほうの小石」(評論社)という絵本だ。


ロバの子、シルべスターは、変わった形や色の石を集めて楽しんでいた。
ある日、シルベスターはきれいな赤い小石を見つける。
それは、願い事が叶う魔法の小石だった。

その時、シルベスターの眼前に突然ライオンが現れ、とっさに小石を持ったまま、「岩になりたい!」と思ってしまい、本当に岩になってしまったのだった。岩のそばには、赤い小石が残されたまま・・・。

ああ、岩になってしまったシルベスター自身の驚きようと嘆きを想像するだけで、読んでいる側も胸が張り裂けそうになってくる。

そして、そんなこととはつゆほども知らないシルベスターの両親、ダンカンさん夫妻の嘆きも察して余りある!
行方不明になった息子を探し回るダンカンさん夫妻の表情!


さあ、果たして誰かが魔法の赤い小石を拾い上げて、シルベスターが元の姿に戻ることを願ってくれるのだろうか!!



奇想天外な筋書きで、親が子を想う深い愛情を表現してる、というところにこの物語の魅力があるのかもしれない。
我が家でも、子どもたちが小さいころ、身を寄せ合いながら(共に間近にいる安心感をもって?)何度この絵本をいっしょに読んだことだろう。


ウイリアム・スタイグ作で、アメリカでの初版は1969年だそうだ。
そして翌年に、コルデコット賞を受賞している。

日本では瀬田貞二の訳で1975年に評論社から出版されている。
(・・ということは、この絵本もわたしの幼い頃には存在せず、母親にならないと出会えなかった絵本だったのかもしれない。)


娘は、この絵本を読みながら(読んでもらいながら)、岩になった自分を想像して、声も出せない、手も足も出せず身動きひとつできない状況を「怖いと思った」と言っている。


ああ、わたしが拾った小石たちが魔法の小石ではなくてよかった!

そして、子どもたちが魔法の小石を見つけなくてよかった!

2013年4月27日土曜日

一枚のぞうさんの絵はがきから



ぞうさん絵はがき、見つけた!


今回、娘のところに滞在したときのこと。
散歩の途中で入ったアンティーブの街の本屋で、こんなぞうさんの絵はがきを見つけた。


 "UN GROS BISOU"


直訳するとフランス語で ”大きなキスを!” という意味だ。
手紙の最後などに、愛情こめて、といった感じで書き添えられたりする。

大きなキスマークからぞうさんをイメージするなんて。
さすが、愛の国、フランスだ~、なんて思ってしまう。


わたしは、ぞうの絵はがきを見つけると、反射的に買ってしまう。


子どもたちが小さいときは、娘はクラシックバレエとピアノを、そして息子はバイオリンを習っていたことから、ダンスと楽器の絵はがきを収集していた。
どこに行っても絵はがきが売られていると飛んでいって探した。
それがまた楽しかった。

無印良品のシンプルな絵はがきファイルに綴じて眺める。
それもまた楽しかった。

そんなふうにしてずいぶんと集めた。


そして、みどりのぞうの絵本屋を始めたときから、ぞうの絵はがきの収集も加わった。


絵本屋のロゴマークのぞうさんは、娘が落書きのように、また自身のシンボルマークのように描いていたものだった。
絵本屋を開店するとき、娘が描いてきたぞうさんのイラストを使おう、と直感で思った。
そして、森の中のようなイメージで、みどり色のぞうさんにしよう。
即決だった。



第1回目の夏の絵本屋開店のお知らせはがき



夏の絵本屋の開店準備は5月の連休前、ちょうど今頃から始まっていた。
もう遠い昔のことのような気もする。
懐かしい、楽しい思い出ばかりがよみがえってくる。


今度、みどりのぞうの絵本屋を開店するときは、店じゅうに、ぞうさんの絵はがきを貼りたいな。
想いは膨らんでくる。


でも。
今は、キンシャサ。
キンシャサでしっかり足を地に着けて、いろんな人たちと出会い、いろんなものたちを見つめ、感じることを楽しんでいこう。


2013年4月17日水曜日

パリのおばあさんの物語

 これから先のわたしの人生の中で、手に携えてともに生きてゆきたい、と思う絵本がある。


 「パリのおばあさんの物語」(千倉書房)だ。


あかね色の帯が付いた表紙

あかね色の帯を外すと、パリの、上品で沈んだ色合いの、ぼーっと霞んだ町並みが一面に描かれている。

パリのアパルトマンが描かれた表紙

このグレイのアパルトマンの表紙の絵、原書では裏表紙に使われている。
原書の表紙には明るいグレイ一色に、上写真のあかね色の帯に見えるおばあさんの絵が描かれている。そしてA4サイズだっただろうか、一般的な絵本のサイズだ。

日本版では、原書の裏表紙を表紙に持ってきて、サイズを小さくして製本されている。
新書版よりちょっと大きめ、だろうか。
なんと素敵な絵本に仕上がっていることだろう。
日本版のほうが断然、雰囲気が良い!!

岸恵子の訳も良い!
(それから、岸恵子の”あとがき”も良い!)
絵本の帯をあかね色にしたのは、人生のたそがれを意味するのか。
わたしは、岸恵子のエッセイ、「パリの空はあかね色」と重ねてみたりもする。


この物語は題名でもわかるように、パリで独り暮らしをする、前向きに生きるおばあさんが主人公だ。
おばあさんにもこれまでに生きてきた長い道のりがあった。
このおばあさん、ユダヤ人で、第二次大戦中は過酷な人生を歩いてきている。
原書では、”ユダヤ人”という言葉がどこにも出てこない、と聞いた。
描かれるおばあさんの鼻で、自ずとああ彼女はユダヤ人だな、と欧米の人なら暗黙の了解があるのだそうだ。


パリのアパルトマンはどこも古い。
古いから、階段のところにスペースがなければ、エレベーターを後付けできず、階段のみの上り下りだ。長い年月で階段一段一段にくぼみができている。
また、玄関扉も古くて重い木のドアだ。
ドアや窓の建て付けも悪くなっているかもしれない。
そんなパリのアパルトマンに独りで暮らすおばあさん。
時々、息子から電話がかかってくる。
独り暮らしで不自由もあるけれど、しっかり前を向いて歩くおばあさんの姿が清々しい。



先月末、久しぶりでパリの街に出た。
パリのシャルル・ド・ゴール空港からバスでオペラ座界隈に向かう途中、シックなパリの町並みを年配のマダムが通る光景を見ながら、わたしはこの「パリのおばあさんの物語」を思い出していた。


わたしにもそこまで来ている老後の生活。
これから先、今まで生きてきたよりさらに多くの永遠の別れを経験するだろう。
不自由になってゆく我が身を辛く寂しく思うこともあるだろう。
家族で賑わっていたときの超多忙な日々もはるか遠くの思い出だ。


美空ひばりの歌う「川の流れのように」とも重なってくる。

知らず知らず 歩いてきた
細く長い この道
振り返れば はるか遠く
ふるさとが見える
でこぼこ道や 曲がりくねった道
地図さえない それもまた人生
ああ 川の流れのように
ゆるやかに いくつも時代は過ぎて
ああ 川の流れのように
とめどなく 空がたそがれに染まるだけ



表紙のアパルトマンの中に、ひとつの部屋だけ明かりが灯っているのが見える。
このおばあさんが住んでいる部屋なのかなと思えてくる。

スージー・モルゲンステルヌ作、セルジュ・ブロック絵、岸恵子訳のこの薄手のコンパクトな絵本は、わたしのこれからの人生のエール本だ。

2013年3月10日日曜日

ラン パン パン

絵本”ラン パン パン”の表紙

先日、我が家のヨウム(コンゴのオウム)、”ぽん”が逃避行を果たした。
我が家に来た時にはすでに羽の一部を切られて飛べなくなったと聞いていたのに、三階の我が家のベランダの鳥かごから逃げ出し、庭へ飛行滑降したのだ。
門番の通報(!)で、残念ながらほどなく元の棲家に戻されたのだが、かれ(多分、オス?)の何か主張するような瞳を見ていたら、いじらしさ、みたいなものを感じる。


そして、我が”ぽん”と重なって思い出すのがこの絵本、「ラン パン パン」に登場するクロドリだ。


この物語「ラン パン パン」はインド民話の再話で、1989年に評論社から出版されている。。
ホセ・アルエゴ、アリアンス・ドウィのちょっととぼけた溶けるような線描きの絵に、マギー・ダフによる再話、そして山口文生の訳だ。
(お三人とも、どんな方たちなのかなあと想像してみたり・・・。)


物語は、愛しい女房を王様にさらわれ、怒り狂うクロドリが女房奪還を決意して一人雄雄しく立ち上がり、王宮へ向かい戦いに挑む、という展開だ。

その武装姿が、哀れなくらい!まことに失敬な話だが、笑ってしまう。
小さいクロドリが、刀、盾、かぶとに太鼓まで持って、完全武装でひとり決起する姿!
かれの”武者震い”が見えるよう。
まことにあっぱれなクロドリの覚悟だった。


クルミの半分でかぶとを作り、残り半分に皮を張って戦いの太鼓を作り、雄雄しく胸を張り、野を越え,谷を越え、♪ ラン パン パン ・ ラン パン パン ♪ と太鼓たたいて王宮目指し行進してゆくのだ。


♪ ラン パン パン ・ ラン パン パン ♪

♪ ラン パン パン ・ ラン パン パン ♪


小気味よい太鼓の音が勇ましくも滑稽で、これまた失敬なことだが、笑えてしまうのだ。
でも、太鼓、って士気を高める小道具なのだろうか。


こんな本を日経新聞コラムで見つけた。


書籍紹介文の中に、こんな箇所があった。

「西洋の軍楽には、軍隊の行進をたばねる力がある。隊列のうごきをととのえる効果が期待できる。幕末の諸藩がこれを取り入れようとしたのも、そのためである。」

やっぱり。
太鼓には、士気を鼓舞する効果があるのだ。
この前観たNHK大河ドラマ”龍馬伝”に、江戸の千葉道場で大太鼓をドーン、ドーンとリズミカルに鳴らして剣道の素振りの稽古をする場面が出てきた。
実際の話は分からないが、あの場面で子どもたちは更に勇ましく竹刀を振って練習していたもの。

(この本は残念ながら未読だが、もうじきやってくる日本からの友人に持ってきてもらうことになっている。)


話を「ラン パン パン」に戻すと・・。

主人公のクロドリが太鼓たたいて勇ましく行進する途中で、猫、蟻、木の枝、川に出会い、かれらをクロドリの耳の中に入れて味方につける。
(小さなクロドリの耳とかれらの大きさを問うようなやぼな疑問は持たないように。)
のちのち、戦いのときにかれらは大活躍してくれる。
なんとなく、日本の昔話の桃太郎の鬼征伐を彷彿とさせる場面だ。

物語はこれまた桃太郎と同じようにハッピーエンドでめでたし、めでたし。


♪ ラン パン パン ・ ラン パン パン ♪

♪ ラン パン パン ・ ラン パン パン ♪

本当に雄雄しく勇ましい軍楽隊の擬音語だ。

わたしも、我が”ぽん”にクルミで小さな太鼓を作って持たせてあげたい。

2013年1月29日火曜日

みどりのゆび

岩波少年文庫 みどりのゆび



”みどりのゆび”は、フランスの物語だ。
モーリス・ドリュオンがきれいな言葉で文章を紡ぎ、画家のジャクリーヌ・デュエームがまた美しい挿絵を添える。


少年文庫版に加えて、美しい言葉と美しいカラーの挿絵を堪能できる、”愛蔵版・みどりのゆび”も岩波書店で出版されている。
緑色の箱カバーに入った緑の布地の表装の愛蔵版を手に取ると、岩波書店のひとたちも愛する物語なのだということが伝わってくる。一枚一枚淡い緑色のページをめくると表れるカラーの挿絵たちは、わたしたちをこの物語の世界にいざなってくれる。


上の岩波少年文庫の表紙の中の、立派な鼻ひげのおじさんに隠れるように立っている小さな少年が、この美しい物語の主人公、チトだ。

チトは、”みどりのゆび”という不思議な力を持つ親指を持っていた。
チトがイメージして親指を土に差し込むと瞬く間に緑や花が芽をふくのだ。
その彼の能力を見出し、導く師匠格の庭師が、この表紙に描かれる立派なムスターシュ(口ひげ)を持つおじさんだ。


チトは、人の生きる場として過酷な場所=いちばん潤いの空間を必要とする場所・・・刑務所、貧民街、病室そして戦場に、かれの”みどりのゆび”を使って花を咲かせ、緑の芽を吹かせ、人々の心を蘇らせる。

そこの部分はフランス文学らしく、社会的断面を鋭くえぐってみせる。

そんな社会の矛盾にも素直に疑問を投げかけて真摯に生きるチトの姿に、わたしは同じフランスの物語の”星の王子さま”を重ねてしまうのだ。




この物語を読みながら思い出していたのは、わたしが小学生の時に住んでいた鉄筋アパートが建ち並ぶ社宅の敷地内にひとりで作った”花壇”のことだった。
高度成長期の、当時としてはモダンな北九州の製鉄所の社宅でのことだ。

種から植えて同じ花がまとまってきれいに咲く花壇ではなかった。
わたしが遊んでいるときやピアノレッスンの帰り道の道端や空き地に種が飛んで一輪だけ咲く花を見つけては根っこから引っこ抜いて、わたしだけの花壇に植えなおす、という一輪だけの寄せ集めの、おそらく貧相な花壇だったはずだ。
社宅の、シロツメクサで覆われた敷地内に畳三帖分くらいのスペースをスコップで掘り起こし、周囲を大き目の石ころで囲んだだけのわたしだけの花壇。
4階建ての鉄筋アパートの社宅が建ち並んでいるから、日も当たらない場所だったように思う。
それでも、わたしにはかけがえのない花壇だった。


わたしは飽きもせず、道端や空き地で見つけた一輪だけ頼りなげに、それでもきれいに咲く花をせっせとわたしの花壇に集めて植えなおした。
そしてどの花も水をあげると翌日にはしっかり根を張って元気に花を開いてわたしを楽しませてくれた。

肥料なんてことも思いつかない。母からお米のとぎ汁をもらって水撒きをしていた。
すみれ、パンジー、マーガレット、おしろいばな、ひまわり、ひなげし,コスモス。
名前も知らない花もあった。雑草といわれる花もあった。
一年中,何かの花が咲いていた。
花がしぼんだ後には種ができて、それがまたわたしの宝物だった。




チト少年には愛馬がいた。
物語の最後に、チト少年は地面に親指を突っ込んで間隔を置いて2本の(多分)天まで届く木を生えさせる。
そしてその2本の背の高い木の間に蔓性の植物を絡ませて梯子を作った。

チト少年は愛馬にさよならを告げて梯子を登っていくのだった。
愛馬がブルーの涙を流してチト少年を引き留めるのに、チト少年はどんどん登って行った。


チトのみどりの梯子


美しくも悲しい場面だった。


先週、キンシャサで一人の赤ちゃんがたった7ヶ月の生涯を閉じた。
生きて、生きて、という両親の声も届かず、その子は逝ってしまった。


運命に逆らえない、何か大きな「力」が存在するのだな。

そんな思いに駆られながら、わたしは”みどりのゆび”の最後のシーンを思い出していた。


2013年1月3日木曜日

へびのクリクター


絵本 へびのクリクター


キンシャサから、新年おめでとうございます。

2013年はへび年。
へびが登場する絵本、といったら何と言ってもこの絵本、”へびのクリクター”だ。

作者は、以前このブログでも紹介した絵本、”ゼラルダと人喰い鬼”も著したトミー・ウンゲラーさん。
この作品は細い線で描かれていて、フランスのおしゃれ感漂うイラストだ。
ゼラルダや三人組とはまた違った画風で、自由自在に筆を操りわたしたちを楽しませてくれるウンゲラーさんだ。
彼のウイットに富んだいたずら精神もまたこの物語のあちこちに散りばめられていて、わたしたちの心をホコホコっと遊ばせてくれる。

フランスのエスプリを感じさせる絵と”へび”がマッチングするとこんな風になるんだなあ、というウンゲラーさんの奇想天外さ、っていいなあ~。



この物語の表紙の夫人こそ、この物語の主人公クリクターの飼い主であり、準主人公である、ボドさん。
一見、アニメ”アルプスの少女ハイジ”のロッテンマイヤーさんを彷彿とさせる外見だが、救われることにボドさんは、ブラジルで爬虫類の研究をする息子さんからの誕生日プレゼントとして贈られた大蛇をすんなり受け入れるくらいの度量の広い女性なのだった!

クリクターと名づけられた大蛇は、ブラジルからドーナッツ型の箱に入れられて、つまり大蛇を丸めた形の箱でボドさんのお宅に届く。
一応、ボドさんは届いた蛇が毒蛇ではないことを関係機関に問い合わせてから飼育を始めるくだりが、ボドさんの職業、教師に由来していそうなところもまた愉快だ。

ボドさんがクリクターを手塩にかけて育てる場面を、ウンゲラーさん独特のとぼけたセンスで描いていてページを開くたびに楽しめる。


ボドさんに抱かれてミルクを飲むクリクター


クリクターの故郷に似せて作った観葉植物だらけの寝室に、クリクター用の長ーい長いベッド。
クリクターの長い体に合わせてセーターを編むボドさんの編み目製図を載せる台になるクリクター。
出来上がったセーターにも笑ってしまう。

物語の中身は、ウンゲラーさんのセンスで描く楽しくユーモアたっぷりのクリクターとボドさんの生活ぶりだ。

トミー・ウンゲラーさんは、ストラスブルク生まれのフランス人で、のちにアメリカに移住している。

この物語の最後に登場するクリクター公園、ってホントにフランスのどこかの町に実在するように思える。


さて、昨秋、日本に帰ったときに、わたしの大好きな目白の古絵本屋、”貝の小鳥”で太めのリリアン編みの道具を見つけて買ってきた。
これくらい太かったらわたしの大切な楽器、リコーダーのセーター(カバー)を毛糸で編めるかな、と思って。太い金具が8本も付いているのだから。そして、ちょっとボドさんのクリクター用セーターを思い浮かべて。


8本爪のリリアン編み機で編んでみたけど・・・

でも、思った以上に細い筒状のものしかできない。
アルトリコーダーはもちろん、ソプラニーノにも細すぎた。
あーあ、クリクターの赤ちゃんでもいたらな。

ほら!
こんなボドさんとクリクター人形を制作するかたを発見した!



皆さんにとって、平和で愉しいへび年の2013年となりますように!