岩波少年文庫 みどりのゆび |
”みどりのゆび”は、フランスの物語だ。
モーリス・ドリュオンがきれいな言葉で文章を紡ぎ、画家のジャクリーヌ・デュエームがまた美しい挿絵を添える。
少年文庫版に加えて、美しい言葉と美しいカラーの挿絵を堪能できる、”愛蔵版・みどりのゆび”も岩波書店で出版されている。
緑色の箱カバーに入った緑の布地の表装の愛蔵版を手に取ると、岩波書店のひとたちも愛する物語なのだということが伝わってくる。一枚一枚淡い緑色のページをめくると表れるカラーの挿絵たちは、わたしたちをこの物語の世界にいざなってくれる。
上の岩波少年文庫の表紙の中の、立派な鼻ひげのおじさんに隠れるように立っている小さな少年が、この美しい物語の主人公、チトだ。
チトは、”みどりのゆび”という不思議な力を持つ親指を持っていた。
チトがイメージして親指を土に差し込むと瞬く間に緑や花が芽をふくのだ。
その彼の能力を見出し、導く師匠格の庭師が、この表紙に描かれる立派なムスターシュ(口ひげ)を持つおじさんだ。
チトは、人の生きる場として過酷な場所=いちばん潤いの空間を必要とする場所・・・刑務所、貧民街、病室そして戦場に、かれの”みどりのゆび”を使って花を咲かせ、緑の芽を吹かせ、人々の心を蘇らせる。
そこの部分はフランス文学らしく、社会的断面を鋭くえぐってみせる。
そんな社会の矛盾にも素直に疑問を投げかけて真摯に生きるチトの姿に、わたしは同じフランスの物語の”星の王子さま”を重ねてしまうのだ。
この物語を読みながら思い出していたのは、わたしが小学生の時に住んでいた鉄筋アパートが建ち並ぶ社宅の敷地内にひとりで作った”花壇”のことだった。
高度成長期の、当時としてはモダンな北九州の製鉄所の社宅でのことだ。
種から植えて同じ花がまとまってきれいに咲く花壇ではなかった。
わたしが遊んでいるときやピアノレッスンの帰り道の道端や空き地に種が飛んで一輪だけ咲く花を見つけては根っこから引っこ抜いて、わたしだけの花壇に植えなおす、という一輪だけの寄せ集めの、おそらく貧相な花壇だったはずだ。
社宅の、シロツメクサで覆われた敷地内に畳三帖分くらいのスペースをスコップで掘り起こし、周囲を大き目の石ころで囲んだだけのわたしだけの花壇。
4階建ての鉄筋アパートの社宅が建ち並んでいるから、日も当たらない場所だったように思う。
それでも、わたしにはかけがえのない花壇だった。
わたしは飽きもせず、道端や空き地で見つけた一輪だけ頼りなげに、それでもきれいに咲く花をせっせとわたしの花壇に集めて植えなおした。
そしてどの花も水をあげると翌日にはしっかり根を張って元気に花を開いてわたしを楽しませてくれた。
肥料なんてことも思いつかない。母からお米のとぎ汁をもらって水撒きをしていた。
すみれ、パンジー、マーガレット、おしろいばな、ひまわり、ひなげし,コスモス。
名前も知らない花もあった。雑草といわれる花もあった。
一年中,何かの花が咲いていた。
花がしぼんだ後には種ができて、それがまたわたしの宝物だった。
チト少年には愛馬がいた。
物語の最後に、チト少年は地面に親指を突っ込んで間隔を置いて2本の(多分)天まで届く木を生えさせる。
そしてその2本の背の高い木の間に蔓性の植物を絡ませて梯子を作った。
チト少年は愛馬にさよならを告げて梯子を登っていくのだった。
愛馬がブルーの涙を流してチト少年を引き留めるのに、チト少年はどんどん登って行った。
チトのみどりの梯子 |
美しくも悲しい場面だった。
先週、キンシャサで一人の赤ちゃんがたった7ヶ月の生涯を閉じた。
生きて、生きて、という両親の声も届かず、その子は逝ってしまった。
運命に逆らえない、何か大きな「力」が存在するのだな。
そんな思いに駆られながら、わたしは”みどりのゆび”の最後のシーンを思い出していた。
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