2018年3月6日火曜日

雪山讃歌

雪に輝く北アルプス(雪山写真のHPより)
南仏Antibesからアルプスを望む(2015年2月、本人撮影)

雪よ岩よわれらが宿り
おれたちゃ町には住めないからに
おれたちゃ町には住めないからに

シールはずしてパイプの煙
輝く尾根に春風そよぐ
輝く尾根に春風そよぐ

けむい小屋でも黄金(こがね)の御殿
早く行こうよ谷間の小屋へ
早く行こうよ谷間の小屋へ

テントの中でも月見はできる
雨が降ったらぬれればいいさ
雨が降ったらぬれればいいさ

吹雪の日にはほんとにつらい
アイゼンつけるに手がこごえるよ
アイゼンつけるに手がこごえるよ

荒れて狂うは吹雪かなだれ
おれたちゃそんなものおそれはせぬぞ
おれたちゃそんなものおそれはせぬぞ

雪の間に間にきらきら光る
明日は登ろよあの頂(いただき)
明日は登ろよあの頂(いただき)

朝日に輝く新雪踏んで
今日も行こうよあの山越えて
今日も行こうよあの山越えて

山よさよならごきげんよろしゅう
また来る時にも笑っておくれ
また来る時にも笑っておくれ



2月最後の日曜日のこと。夫の母校のある鳥取の工芸展が目黒のギャラリーで開催されているというので、二人で中目黒の駅に降り立った。
信号を渡っていると、チャイムが街中に響いてきた。
懐かしいこのメロディーは何の曲だったかな?
「オーマイダーリン、オーマイダーリン」という詞がふっと頭に浮かんだ。
そして、なぜだか雪を被って真っ白の山々の景色も浮かんできた。
はて?
ますます混乱してきた。
雪山の景色は、平昌オリンピックで感動をもらっていた選手たちの活躍と重なったのかな。
そして。突然、♬ユキヨ イワヨ ワレラガヤドリ♬ の歌詞が口についてきた。
ああ、そうだ!「雪山讃歌」だ。

あらためて詩として読むと山を愛する山男たちの心情が浮かび上がってくる。
調べると、メロディーは、アメリカ民謡。1849年あたりのゴールドラッシュに沸いたアメリカで働く男の娘、クレメンタインが過って川に落ちて亡くなるという悲しい話らしい。
その歌を京大山岳部の部員たちが愛唱歌にしていて、ある冬の数日、山の悪天候で足止めに合った部員たちが嬬恋村の温泉宿で、主将の西堀栄三郎を中心に独自の詞を付けようということでできた「雪山讃歌」なのだそうだ。
西堀栄三郎は後に第一次南極観測越冬隊長となっている。
タロとジロの物語で知られる「南極大陸」としてテレビドラマ化され、西堀さんをモデルにした役を香川照之が熱演したらしい。(原作は、北村泰一著「南極越冬隊 タロとジロの真実」)

「南極大陸 タロとジロの真実」北村泰一著(小学館文庫)


冒頭に「雪山讃歌」の詩(詞ではなく、あえて”詩”と書きたい。)を載せてみた。
しみじみと良い詩だなあと思う。

どうしてこの”いとしのクレメンタイン”が京大山岳部の愛唱歌になったのか。
愛しのクレメンタインが川に落ちて亡くなったということと、部員仲間が山で滑落死したことを重ねているのだとも聞いた。
ゴールドラッシュに沸くアメリカ新大陸で労働者として生活した荒くれ男たちと、「俺たちゃ、街には住めないからに」、吹雪も雪崩にも「俺たちゃ、そんなもの恐れはせぬぞ」と詩にした山男たちと。
同じ心意気みたいなものを感じてしまう。

平昌オリンピックで「限界なんて忘れよう」と力を出し切って雄姿を見せてくれた選手たちの姿とも重なってしまう。

「雪山讃歌」が誕生した鹿沢温泉には、この歌碑が立っているのだそうだ。
また、嬬恋村では正午を告げる防災無線のチャイムにも「雪山讃歌」のメロディ―が使用されているとも知った。

でも、どうして中目黒の街に「雪山讃歌」のメロディーが流れてきたのだろう。

山(と言っても険しい山ではなかっただろうけど)に登ることが大好きだった父がよく歌っていたなあ。と書いたが、わが父は今年95歳になり、元気に独り暮らしをしている。この前も、電話先で、この歌をリクエストしたら、しっかり、時々間違えて(!)歌ってくれた。

アルプスの山々 ”猫の頭”の愛称で知られる猫の耳のような山も見える。(2018年2月娘の夫撮影)

「雪山讃歌」の歌のすばらしさを思い出させてくれたことに、ありがとう。

2018年2月14日水曜日

かまくらへのあこがれ

秋田乳頭温泉 かまくらの街路灯~友人のFacebookより

九州で雪が積もったと日曜日のニュースで伝えていた。
わたしの故郷、北九州市の八幡でも雪は積もるんだけどな。
ただ、数十センチも積もらないだけ。
平昌オリンピックに出場したフリースタイルモーグルの村田愛里咲選手は福岡県北九州市出身だとテレビで何度も紹介されていたが、きっと雪のない地方から冬のオリンピック選手が誕生したことが珍しかったのだろう。
雪が降らないことはない。ただ、たくさんの積雪がないだけのこと。

わたしの小さい頃は、冬になると雪だるまを毎年こしらえて楽しんでいた。
でも、かまくらを作るほどたくさんの雪は積もらなかった。
だから、かまくらへのあこがれは強い。

雪国の子どもたちがかまくらの中で餅を焼いたり、みかんを食べたりしているのを見るたび羨ましく思ったし、かまくらの中に神棚があるのも神聖な感じがして、ますますあこがれが膨らんだものだ。

冒頭の写真は、友人がFacebookに載せていたもの。
静かで美しい光景だ。秋田の乳頭温泉の光景ということだ。
小さなかまくらが並んで、中に灯りがちらちらと燃えて、雪道をほんのり照らしてる。

友人からのこの写真を見て思い出した絵本がある。
荒井良二作の「きょうというひ」だ。


絵本「きょうというひ」荒井良二作(BL出版)

銀色を背景にして雪の結晶が舞い降り、その中で温かくロウソクの火が燃えている。


きのうのよる ゆきが ふりました
あさひが ゆきをてらして きょうというひの はじまりです・・・


おんなのこはセーターと帽子とマフラーを編んで、雪の原に出かけます。
そして、ロウソクが入るくらいの小さないえを作ります。
せっせ、せっせと。
たくさん、たくさん。

女の子は小さないえのひとつひとつにロウソクを入れて、火を灯します。


おんなのこのロウソクのいえ

きえないように きえないように
きえないように きえないように

女の子の小さな祈りが聴こえてくるようだ。


雪の原のちいさなかまくらにたくさん灯ったロウソクたち

きょうというひの ちいさな いのりが きえないように
きえないように 


おんなのこの祈りで染まっていく夕暮れ時。
ロウソクの火と夕焼け空が混じり合ってなんとも言えない朱色に染まっていく。
響きの美しい「灯ともしごろ」~ひともしごろ~ということばが美しく再現される。
たくさんのロウソクの灯りで。

おんなのこの小さな祈りがひろがっていく。


・・・よるに また ゆきがふりました


音ひとつ聞こえてこない、静かな絵本だ。
今日はバレンタインデー。
平和でありますように。

2018年1月31日水曜日

寒い日のお楽しみ~2冊の絵本とともに

毎日、寒い日が続いている。
赤道直下のキンシャサから帰国して久しぶりの冬だから、ますます寒さが身に応える。ヒートテック下着を2枚重ね着しているのに、寒い寒い!

でもなぁ。
50年前のわたしの故郷、北九州の八幡の冬はもっともっと寒かったな。
冬の朝、土の中に埋まっている宝石の原石のようにキラキラと輝く霜柱を踏みながらサクサクという感触を楽しみながら登校していたし。

洗濯物を干したまま朝を迎えた時は、洗濯ものたちに”つらら”がぶら下がっていた。(当時は、脱水機付きの洗濯機なんてなかったしな。)

そして、何よりの楽しみは、冬の夜バケツに水を入れてベランダに出して寝ると、朝には、しっかり全面に氷が張っていた。2、3センチの厚さはあったはず。

それから、手袋にそっと雪の一粒を受けて、小さな六角形の雪の結晶を観たりもした。
家に帰りつくと、ストーブの前に陣取って、母の温かい手でかじかんだ耳たぶを覆って温めてもらったな。


今冬、いちばんの冷え込みになると天気予報で聞いて、よし、氷を作ろう!と、夜、プラスチック容器に水を張ってベランダに出しておいた。



しかし、この通り!
なんとがっかり! 氷は半面にやっと数ミリ程度張っただけだった。


その時、思い出した写真絵本がある。
「ひとしずくの水~A DROP OF WATER」(あすなろ書房)だ。

写真絵本「ひとしずくの水」(あすなろ書房)ウォルター・ウィック写真

”水”のいろいろな状態の瞬間を撮ったこの写真絵本は、まさにわたしの宝物だ。

水がぽたりと静かに滴る瞬間。

水がしぶきを上げて落ちる瞬間。

王様の冠になった! 

わたしは、幼稚園で毎月配本されていた絵本の中に、雨が地面に跳ねる一瞬を王冠のように描く絵を見て、わあ!雨って跳ねたときに王冠みたいになるんだ!と感動して以来、雨が地面に着地する瞬間を幾度となく観察してきたが、この絵本の写真家が本当に水が冠のようになった一瞬を映像としてとらえていることに深く深く感動してしまった。

表面張力、毛管現象、蒸気、気化、液化。
霜、露。
くもの巣にくっついた露のしずくの美しいこと!

水滴ビーズのネックレス!

そして、氷、雪。
雪の結晶の美しさといったらなかった!
自然が作った、二つと同じ結晶はないという摩訶不思議さにはまいったな。

写真絵本「ひとしずくの水」より


こんな美しい自然からのプレゼントに魅了されて、雪の結晶を撮り続けた写真家がいた。
それを知ったのは、絵本「雪の写真家 ベントレー」(BL出版)を通してだった。

絵本「雪の写真家 ベントレー」(BL出版)J.B.マーティン作 M.アゼアリアン絵

150年以上も前にアメリカの豪雪地帯に生まれたベントレーは、最初は、手書きで根気よく雪の結晶を描き続け、両親にカメラを買ってもらってからは顕微鏡写真を工夫に工夫を重ねて撮り続け、庭で幻燈会を開いて皆に雪の結晶の美しさを観てもらって楽しむのだった。
小さな村で暮らすひとりの農夫が自然の美しさに魅了されて、皆にも観てもらいたいと写真を多く撮りためて、ついにべントレーは世界的にも雪の専門家として認められて、写真集が出版された。
写真集が完成してわずか1か月後に亡くなったベントレーの記念碑が村の真ん中に建っているという。

  ”雪を愛したベントレー”
  ジェリコが生んだ
  世界的な雪の専門家

作者のジャクリーン・ブリッグズ・マーティンは、ベントレーについて、
”誰も気づかなかった美をみつけ、それを他の人にも見せたいと願ったウィリーの夢と努力、そしてお金ではなく雪の美しさこそ『宝物』であるという信念が、私の心を強く動かしたのです。”と語っている。

メアリー・アゼアリアンによる木版画の挿し絵がこの絵本の魅力を倍増している。
また、この絵本は1999年度のコールデコット賞を受賞している。

  ”Sense of Wonder”

この気持ちを忘れずに生きてゆきたい。



















2017年12月19日火曜日

NHKカルチャーラジオ 「大人が味わうスウェーデン児童文学」

10月から3か月間、スウェーデン語翻訳家の菱木晃子さんの案内で、「大人が味わうスウェーデン児童文学」という講座が始まった。
”大人が味わう”、という言葉からも分かるように、菱木晃子さんの解説がなんとも温かく、人生を幾分たりとも長めに生きてきたわたしたちだからこそより深く理解できるでしょう~という視点がうれしく、おもしろい。

カルチャーラジオのテキスト
まずは、スウェーデンの児童文学の下地になっている、北欧神話、民話から入っていった。

そして、「ニルスのふしぎな旅」。
この物語が生まれた興味深い背景を知り、また改めて読んでみたい!、と強く思った。
漫画家、文筆家のヤマザキマリさんも愛してやまない「ニルスのふしぎな旅」。
この物語の魅力を別な角度から知ったように思う。

さらに、絵本「三人のおばさん」を通して見る、絵本作家、エルサ・ベスコフさんの生い立ち、教育観。かのじょも幸せな満ち足りた子ども時代を過ごしたからこそ、美しく物語を創作することのできた絵本作家だったのだ。

次に、待ちに待った我らがアストリッド・リンドグレーンさんの登場。
「長くつ下のピッピ」、「さすらいの孤児ラスムス」、「はるかな国の兄弟」の三作品を通して解説される。
菱木晃子さんも語るように、リンドグレーン作品には、大きく二つのグループに分けられると思う。
一つは、現実の場所を舞台にして、子どもたちの冒険や日常生活を明るく快活に描いたもの。もう一つは、空想の世界で物悲しくも壮大で神秘的に描いたもの。
どの物語の中にも、リンドグレーンさんの子どもたちへのまなざしの優しいことをひしと感じる。
リンドグレーンさんは、「あそんであそんで、あそび死にしないのが不思議なくらいあそんだ子ども時代だった。」と表現(菱木晃子さん訳のすばらしいこと!)するくらい、大人に見守られながら幸せな子ども時代を送り、それがどんなにか人生を送る中で大切なことだったのか、に思い至る、と言っている。

最後の月は、1980年代後半から約20年間にわたるスウェーデン児童文学の第三次黄金期だと菱木晃子さんが位置づける、ポスト・リンドグレーン時代の幕開けに出版された物語について語られる。
リンドグレーン作品を読んで育った世代が作家となり、また、スウェーデンにおける家族形態の変化も見られる中で発表されていった作品の数々。
この時代のうねりの中にもしっかりと受け継がれている、子どもたちへの温かいまなざしとエールが感じられると解説されている。
菱木さんのいう、「子どもの人格を尊重し、一人ひとりの個性を大切にしようとする」スウェーデン人の考え方。べスコフ、リンドグレーンから繋がっていく精神を感じる。

その中で、先週は、「ステフィとネッリの物語」が取り上げられた。
スウェーデン第2の都市、イェーテボリのユダヤ人家庭に育ったアニカ・トールによる物語だ。
第二次世界大戦前、ウィーンからイェーテボリ沖の小さな島に引き取られたユダヤ人姉妹が主人公で、1996年にアニカ・トールのデビュー作として、まず「海の島」が出版されている。
ステフィは12歳、ネッリは7歳。その後さらに彼女たちの物語は3冊編まれ、1999年に四部作「ステフィとネッリの物語」が完結する。
こんな出来事が第二次大戦中にスウェーデンの小さな島で起こっていたなんて。
かれらが過ごした6年間のスウェーデンの島での生活は、思春期にあたるステフィと、まだ幼く人生の大半を気持ちの上ではスウェーデン人として生きたネッリの、それぞれの成長物語でもある。
菱木さんは、「10代から、その親の時代、そして、第二次世界大戦を経験した世代、と三代にわたる幅広い読書層を獲得した。」と語っている。(著者自身の脚本で、スウェーデン国内ではテレビドラマにもなったそうだ。)
最後は、慣れ親しんだスウェーデンの島を離れて、実父と共にアメリカに行く決心をした姉妹が、島の人々と別れ出帆する場面で終わる。
辛い別れがあってこそ、次の舞台へ移れるんだという現実にわたしも共に向き合って、かれらの幸せを心から願ってページを閉じたことを思い出す。

菱木晃子さん案内の講座もあと2回を残すのみ。
最後は、スウェーデン児童文学の第三次黄金期の男性作家ウルフ・スタルクの二つの作品を取り上げるそうだ。
最期まで、目が(耳が!)離せない。
わたしは菱木さんの訳が大好きだったが、かのじょの温かい語り口に、ますます大ファンになってしまった!
いつか、いつか、お会いできますように。
楽しい、「大人が味わうスウェーデン児童文学」世界へのご案内をありがとうございました。

2017年10月23日月曜日

物語 ”ちいさな国で”

1990年代のブルンジが舞台になった物語を読んだ。


著者は、ガエル・ファイユ。
1982年にブルンジ共和国でフランス人の父と、ルワンダ難民の母との間に生まれ、2009年にフランスへ移住。ミュージシャンとして活躍しながら、本書で作家デビュー。このデビュー作で、高校生が選ぶゴングール賞、FNAC小説賞を受賞している。

コンゴ民主共和国の東側に、北からウガンダ、ルワンダ、ブルンジと3つの小国が並ぶ。
その南端の、タンガニーカ湖に面し、反対側にはタンザニアと国境を接する小国、ブルンジ共和国が舞台になっている。

ブルンジで政変が起こったのが1993年で、11歳の主人公ギャビーは、父親(母親とは別居している)と妹と3人で首都のブジュンブラの、とある袋道にある一軒家に住んでいて、いたずら仲間や近所の人々(その袋道の隣人のギリシャ人女性から主人公は読書の楽しみを教えてもらう。)と幸せに暮らしていたが、政変を境に生活は少しずつ崩れていく。

1994年、隣国ルワンダでツチ族の大虐殺が始まった。
行方不明になっていた母親が変わり果てた姿で帰ってきた。

そして、ブジュンブラも紛争状態となり、物語の中では、主人公兄妹は二人だけでフランスへ発つ。

20年の年月を経て、主人公のギャビーは懐かしいブジュンブラの袋道に帰ってくる。
いたずら仲間だったアルマンと再会し、地区の一杯飲み屋で旧交を温めるが、お互いに古傷には触れない。優しい時間。
ギャビーは旧友に、読書の楽しみをおしえてくれた女性の残した蔵書を引き取るためにブジュンブラに帰ってきたことを告白する。
そして、旧友と再会した飲み屋で、さらに衝撃的な再会を果たすのだ。
その場面でこの物語は幕を下ろす。

この物語は、母親がツチ族ではあるが、ブルンジ共和国で過ごした幸せな少年時代を過ごした少年の思い起こす話が骨格として進むだけに、ツチ族の大虐殺後に起きる、人々の心の精神崩壊の悲惨さがとてもショッキングにあぶり出される。

当時のルワンダに住み、大人のツチ族自身の女性が隠遁生活を綴った、「生かされて」という本を思い出した。日本で2006年10月に初版が発行された本だ。




この「ちいさな国で」。
著者、ガエル・ファイユの自伝的小説とされる。
美しい詩的な表現力は、袋道の隣人、ギリシャ人女性の蔵書で培ったものなのだろう。
主人公がブジュンブラの住み慣れた袋道を出発するときに、女性が、時間がないからと、彼女の本のページを破って一篇の詩を渡す。わたしの思い出に、ここに書かれている言葉を胸にとどめておいて、いつかこの詩の意味がわかるはず、と。

訳者のあとがきで、著者が持つ、文体の独特なリズム感~アフリカならではのユニークな表現や喩えを、心地よいリズムを刻みながら淀みなく繰り返される見事な文章に、フランス本国で大人気の、かれのラッパー&スラマーとしての本領発揮だと大絶賛している。

平和だった少年時代の思い出話があって、それ故に、大虐殺がもたらす陰が凄みを与える。
余韻の残る物語だ。
2017年6月、日本で初版発行。早川書房から。

2017年9月19日火曜日

アーサー・ビナード ”ここが家だ”~ベン・ジャーンの第五福竜丸

先週の土曜日、赤羽の青猫書房でのアーサー・ビナードさんの講演に参加した。
かれは50歳くらい?のアメリカ人。来日して日本語を習得し、今では、執筆も日本語で行っている。いわむらかずお著の”14匹ねずみ一家シリーズ”の英訳もしているのだそうだ。

わたしは、アーサー・ビナードさん、と聞いて、ベン・ジャーンさんの絵とともに著した”ここが家だ”を懐かしく思い出した。


”ここが家だ”~ベン・ジャーンの第五福竜丸 表紙

わたしが最後に開いた、2011年の夏の絵本屋~”センス・オブ・ワンダー”を囲んで、の時に取り上げた書籍のうちの一冊だった。
2011年3月11日の東北大震災で、まだまだ混乱状態の続く日本に暮らし、未来を支える子どもたちと共に自然の現象に身を置き、目を凝らし、不思議だなあ、きれいだなあ、と感動する心を持って生きていきたい。そんな絵本や、物語、詩集を選書してみようと思っての、「2011年・夏の絵本屋」だった。

”ここが家だ”は、画家ベン・ジャーンさんが描いた、第五福竜丸のビキニ環礁での水爆実験被ばく前後の乗組員の一連の絵と共に、かれらの記録を記した物語だ。
ビキニ環礁で超極秘裏に行われたアメリカによる水爆実験。
世界中で、Happy dragon という名で知られる悲劇の第五福竜丸の乗組員たちにふりかかった思いもしない出来事。
現在、どこかの町でこの船が展示されて、水爆の恐ろしさをひそかに伝えていると聞く。

わたしは、ずっと、この第五福竜丸の乗組員の悲劇、不運を、悲しみを持って見てきた。
でも。
アーサー・ビナードさんは、かれらは、勇敢なすばらしい行動を示した人たちだったのだ、と言い切った。
確かに、漁業操業中に期せずして被ばくした乗組員たちは、悲劇の不運な人たちではあったが、かれらはそれだけで終わらなかったのだ、と。

世界一を誇るアメリカの軍隊!水爆実験も超極秘裏に進められ決行され、終結される予定だった。
その、実験の海域で操業していた第五福竜丸。船長の久保田さんはじめ乗組員たちは、西に太陽のように光るものを見たのだった。
西に昇る太陽はない、とすぐに異変を察知した久保田さんは、第二次大戦中、スパイとしての任務も併せ持って漁船の操業に従事していたという経験の持ち主だったのだ。
ぴかっと光って嵐のような天候に激変したことにさらに異様なものを感じた久保田さんは、とにかく、アメリカの無線機器のレーダーに第五福竜丸の存在を感知させたら一貫の終わりだと直感。大戦中、スパイの任務も併せ持って操業していた漁船が、無線レーダーから突然消え、消息を絶つという異様な経験を何度もしていた。とにかく、アメリカ軍がビキニ環礁海域に日本の漁船がいるとレーダーが感知することを回避すること。そのために日本に第五福竜丸から無線を発信してこの異変を知らせることを禁止し、万が一、アメリカ軍が第五福竜丸の存在を感知して尾行が始まり、これで最後だと思ったときにのみ海上保安庁に交信する、これは最後の発信になる、と覚悟した。
乗組員は、嵐のように吹き荒れる海に瓶を入れ、いくつもサンプルを集めたとも聞く。
そして、すぐに母港の焼津に向かって最短の航海コースを取るとそれこそアメリカ軍の思うつぼだ、ともかく、ビキニ環礁海域から早く逃れることだと決断し、コースを真北に取り、アメリカ軍の無線海域からの脱出を図った。
そして、第五福竜丸が焼津港に近づいたとき、折しも、焼津港は捕獲した漁船の水揚げ最盛時刻だと知った久保田船長は、沖で待機し、その時間を避けて入港。
航海途中で、すでに乗組員たちは体調に異変をきたしていた。
入港後、船長はじめ乗組員たちは、海上保安庁にすぐにビキニ環礁で見たことを知らせ、サンプルを渡し、病院へ搬送された。

乗組員たちは、その後、悲惨な状態で亡くなった。
しかし、かれらの取った行動が、アメリカの水爆実験の悪行を世に知らしめたのだった。
水爆は、広島や長崎の原爆の比ではないものすごい威力を持っているという。

アーサー・ビナードさんは、幼い頃、自宅にあったベン・ジャーンさんの描く第五福竜丸の画集を傍に育ったのだそうだ。ビナードさんの父親の蔵書だったとか。
そうして、ベン・ジャーンさんの絵と共に、第五福竜丸の乗組員たちのことを描いてみようと思ったのだった。

アーサー・ビナードさんは、世界で最初に原爆投下された広島に家族と共に住み、世界の原子力を使った地球上の悪行を見つめている。

彼は言った。
世の中に出回る情報は、すべて操作されている、と。
政府、企業などの都合の良いように変えられ、表現方法でいかようにでも変えられるのだと。
第五福竜丸の被ばくについても、日本政府は、乗組員たちが取った勇気ある行動、残したデータを封印?し、アメリカの悪行をおおっぴらには暴いていないし、批難さえもしていない。

個人個人がしっかり見る目を持って生きて行かなければと改めて思った講演だった。

センス・オブ・ワンダー。
不思議だなあ、どうしてだろう、きれいだなあ、おかしいぞ。
心を持って生きていきたい。

2017年7月31日月曜日

星の王子さまと、サハラ砂漠~サンテグジュペリ命日に寄せて

 「星の王子さま」に初めて出会ったのは、わたしが10歳の時だった。

小さいながらも、挿し絵の下手さぐあいに親しみを覚え、内容をどこまで理解していたのか疑問だが、繰り返し読んで楽しんだ物語だった。
何度読んでもつかみどころのない、不思議な想いで読み終えていたのを覚えている。それでも、読み返していた。
フランスのアントワーヌ・ド・サンテグジュペリ作の物語だ。
岩波書店の、内藤濯さん訳のテグジュペリさんの「星の王子さま」の本が、我が家には愛蔵版も含めて数冊、ある。
もうじき還暦を迎えるこの歳になっても、いまだ読み返しているのだった。


星の王子さま (岩波書店)


大人になったある時、序文に見つけたフレーズがわたしの心に響いた。

”おとなはだれもはじめは子どもだった。しかし、そのことを忘れずにいるおとなは、いくらもいない。”

訳者の内藤濯さんは、この序文の冒頭部分に感動して訳に取りかかったと聞いた。
濯さん、70歳のときだったそうだ。

わたしが仲間たちと開いていた夏だけの絵本屋で、この序文と、レイチェル・カーソン著「センス・オブ・ワンダー」を礎に、「子どもと、子どもの心を忘れずにいるおとなのために」という思いを胸に、絵本や物語、詩集、写真集を選書して本屋に並べたことを懐かしく思い出す。

話は逸れるが、訳者の濯さんは、「まず、声の言葉があっての文字の言葉である」と言って、言葉の響き、リズム、音楽性を大切にする方だったとも聞く。
「星の王子さま」を日本で出版するにあたり、「この原文の美しいリズムを訳文に活かせるのは内藤のほかにありません。」と、訳者として白羽の矢が立ったのが濯さんだったそうだ。

(シューベルトの子守歌~ねむれねむれ母の胸に~も、なんと濯さんの訳だった!)
(もう一つ。”洗濯”の濯だから、わたしはしばらくの間、”ないとう たく”さんと読んでいた。ところが、”あろう”さんだったことを、大人になって知った。仏語の”Hello!”~アロウ~「やあ、こんにちは!」。わあ、すごい、音が同じだ!目を輝かせた日をこれまた懐かしく思い出す。あろうさん、がペンネームだったのか、あるいは本名で、それが、仏文学者の道を歩むことになったのか??想像を膨らますのだった。)

さて。話をもどして。
濯さんは、仏語の原文を一節ずつ彼自身が読み上げ、それを日本語にしたものをまた声に出し、編集者が書き上げ読み上げる。読み上げるときは、「ふつうの話し方で読んでください。思い入れなどはしないでください。」と注文が付いて、口述で翻訳作業に当たったのだとか。

わたしは、原文で通読したことはないが、サンテグジュペリさんの仏語文は本当に美しい流れ、言葉遣いなのだろうと想像できる。
息子の母校、暁星学園では第一外国語に仏語を選択すると、ある学年になると、「星の王子さま」を教材として読むと聞いて深く納得するのだった。

「星の王子さま」初版は、1943年4月6日、アメリカの出版社からだった。
王子さまとテグジュペリさんが別れて6年後に書かれたものだと設定されている。

その後、1944年7月31日にかれの操縦する飛行機がマルセイユ沖で消息を絶つ。
今日は、テグジュペリさんの命日だ。


わたしは、パリから夜行便でアフリカに向かう度に、または反対にアフリカからパリに向かう夜行便でいつも楽しみにしていたのが、サハラ砂漠上空を飛ぶことだった。
それは、月夜の晩でなければならないのだが。
青い、海の底のような砂漠が静かに横たわる月夜。
じっと見下ろしていると、確かにテグジュペリさんと星の王子さまが話し込んでいる姿が見えてくる。

あ、いたいた!
王子さまぁ!
テグジュペリさぁん!

楽しい想像だった。

もしかしたら、もうこのサハラ砂漠上空を飛ぶことは人生で最後かもしれない、とキンシャサから意気込んで乗り込んだ6月4日のパリに向かう夜行便で。
せっかくの月夜の晩だったのに、わたしの席は機体ど真ん中の席だった。
機体の前列から最後列まで、窓側の席はどこも満席だった。
しかも、機体最後尾の窓も堅く閉じられていた。
サハラ砂漠を見ることも、かれらに再会することもできなかった。
もしかしたら人生ラストチャンスだったかもしれないフライト。

そして、早朝のパリで乗り継いで、娘一家の住む町を目指して降り立ったところが、リヨン・サンテグジュペリ空港だった。
テグジュペリさんの故郷、リヨン。
大きく、空港の窓ガラスの描かれた星の王子さまがわたしを優しく(!)迎えてくれた。

さらに。
帰国して、友人たちとの再会パーティーで隣り合った写真家、大塚雅貴さんが、かばんから出してきたものが、なんと!


写真集「SAHARA」


写真集「SAHARA」!
もちろん、その場で大塚さんに譲ってもらった。
かれが10年、20年?の長い期間をかけて撮りためた、サハラ砂漠のいろいろな表情の写真たち。
国にしたら・・・北は、アルジェリア、リビアからモーリタニア、マリ、ニジェール、・・・、現在では、立ち入ることもできない区域もあるそうだ。



写真集「SAHARA」より


「星の王子さま」。

星の王子さまは、子ども心が残っていたテグジュペリさんの分身だったのかな。
テグジュペリさんの心の葛藤が分身として現れたのかな。
不時着したテグジュペリさんと、小さな星から降り立った王子さまが寓話のように砂漠で出会って、たわいもない対話をする、というだけの、そのまま、ありのままの物語として読んでいいのかな。
二人の最期も不思議な結末だ。
分身だったのか。
星から舞い降りてきた王子さまと二人だけの世界で出会った話なのか。

わたしは、子どもだった頃の心のままに、この物語に添っていたい。


2017年5月25日木曜日

上智大学で開催中の”Africa Week2017”

上智大学「Africa Week」のポスター(馬野晶子氏facebookより)

娘の母校、上智大学で、「Africa Week」と題されて、アフリカを多方面から捉えて見つめてみようという企画が、5月22日から26日まで開催中だという。
なんとうれしい企画だろう!

その中に、「アフリカの子どもたちと文学」と題された企画を見つけた。
残念なことに、この企画は23日の17:00~18:30に開催され、すでに終了している。

「本企画では、アフリカ各地に広がる豊かな民話について、特に絵本を中心に西アフリカの児童文学を紹介します。」と書かれていて、文学部フランス文学科の学生有志によるカメルーンの民間伝承をフランス語で語る(日本語字幕あり)というプログラムも用意されていたのだそうだ。
また、会場では、アフリカの絵本や絵画の展示も行われる(期間中の展示?)と紹介されている。
主催は、上智大学教育イノベーションプログラム。

特に気になったのは、アフリカ文学研究者の村田はるせ氏による「アフリカの絵本ってどんなの?」と題された講演だ。わたしの記憶に間違いがなければ、村瀬氏は西アフリカのベナンの児童文学を中心にアフリカ児童文学を研究しているかただ。
わたしも聴きたかったな。
わたしの名前の”Iroko”~イロコの木も登場するというベナンの物語についても質問したかったな。

"La Perruche, L'iroko et Le chasseur"~「 インコとイロコと狩人」表紙

アフリカのほとんどの部族が独特の書き言葉を持たない中、旧宗主国の言葉である英語やフランス語が公用語として用いられていて、さらに口承文学と言われるアフリカで、どのように絵本や物語が出版されているのか。現状を知りたいと思う。

コンゴ民主共和国の児童文学の出版状況は貧弱なもので、わたしたちがキンシャサ生活を始めた2012年のころはキリスト教の出版社のパウロ社の出版物を見かけたくらいだった。

2012年当時のパウロ出版キンシャサの本屋内

その後、パウロ書店はごみごみした商店街の一画に移転し、売り場面積も縮小してしまったが、地元の人々の住む地域で、小さいながらもいくつかのパウロ書店が活動しているのを見かけてはホッとしたりしている。
また、6月30日通りに面したところに(2014年だったか)大きな本屋も開店した。
”LIVRES POUR LES GRANDS LACS”(湖水地方の本屋、と訳すのか) というコンゴ民主共和国の本屋だ。キンシャサに2店舗、Bukavu、Kinduにそれぞれ1店舗の計4店舗を構えているのだそうだ。
でも、児童文学のことを訊くと、3,4冊を出してきて、漫画っぽいもの、戦争のような戦ものの内容のもので、がっかりしてしまった。
下の写真は、先週、コンゴの地図を探すために訪ねたLes Grands Lacs本屋の店内の様子だ。


”LIBRES POUR LES GRANDS LACS”本屋の店内と店員さんたち

もちろん、ここで、「インコとイロコと狩人」の本のことも尋ねたが、探し当てることはできなかった。

コンゴの国の公用語は旧宗主国がベルギーだから、フランス語だ。
そして、国語として、リンガラ語、スワヒリ語、キコンゴ語、チルバ語の4言語が存在する。
そのどの言語を使って絵本や物語を出版するのか。また、出版費用に見合い庶民の手の届く範囲内での価格設定のこともある。問題は山積みだ。

最後に、お月さまのことに触れてみたい。
日本では、お月さまには「二匹のうさぎが餅をついている」と教えられ、その歌も存在している。
マリ出身のトアレグ族のひとりの女性から、「わたしたちは、お月様には針仕事をしているおばあさんがいる」と聴かされて育ったという話を聞いた。そして、その歌も存在したのだそうだ。
では、コンゴでは。
ウェッツさんという慶応大学日本語プロジェクトで日本語を習得し、日本人以上に尊敬語を上手に操るコンゴ人の若者から聴いたところでは、「お月さまには、お母さんが子どもをかたぐるましている」と考えるのだと言うのだ。
なんと興味深いことだろう。お父さんではなく、お母さんと子ども、と聞いて、ボノボ(ヒトにいちばん近いといわれる霊長類)が母親社会を形成しているということを思い出し、その関連性にひとり勝手に(?)深く感動するのだった。
ただ、この「お月さまの中でお母さんが子どもをかたぐるまする」歌は存在しないということだった。

ウェッツさんが一昨日、キンシャサに長期滞在して日本語プロジェクトで活動する一人の慶応大学の学生と一緒に我が家に遊びに来てくれた。
そのときに、わたしは、日本には「絵描きあそびうた」というのもあるんだよと話した。
この4月に、かるたあそびで日本語を教えるというかれらの授業に参加したので、ひらがなを使っての「絵描きあそびうた」も参考になるかと思ったのだ。さらには、先月読んだかこさとし著の「未来のだるまちゃんへ」という本の中におもしろい絵描きあそびについて、かこさとしさんが触れていたので。
子どもの頃、多くの方が「へのへのもへじ」で顔を描いて遊んだことだろう。
地方によっては、ちょっと違うひらがなが使われていたりして、そこに興味を持ったかこさんは日本全国の絵描きあそびうた収集をライフワークにしていると書かれていた。
あるとき、女子高で講演したときに教えられたのが、「へめへめしこし」だったというのだ。
ちょっと、この4つのひらがなで人の顔を描いてみてほしい。
なんと!お目目ぱっちりのおちょぼ口の女の子の顔が完成しませんか!
そんなあそびを通して、またこれもひとつの日本独特の子ども文化なのですとコンゴの人々に伝えられて、興味を持って文字を覚えてもらえたら、などと思って、日本語プロジェクトで活動するコンゴと日本の若者に話したのだった。

そして、できたら、わたしもこの国に伝わる子どもの文学やあそびや歌を知りたかったな。
もう時間切れだけど。
でもまたいつかきっと。

と、上智大学のAfrican Weekの企画の話から、逸脱してしまったが、アフリカの子ども文化について、これからもわたしは観続けていきたい。
もし、情報がありましたら、ご教示ください。

2017年4月18日火曜日

NHKカルチャーラジオ 「まど・みちおの詩で生命誌をよむ」を読んで

生命誌絵巻(JT生命誌研究館蔵)

わたしたちが昨年末に、キンシャサの治安不安定を受けて一時帰国を余儀なくされたとき、たまたま本屋で見つけたNHKカルチャーラジオ、2017年1月~3月放送予定のテキスト。

「まど・みちおの詩で生命誌をよむ」(中村桂子著)

NHKカルチャーラジオ 2017年1月~3月放送のテキスト

わたしはちょうど、まど・みちおさんの詩「ぞうさん」(こぐま社)が絵本になったものを手にして、そのシンプルさに心沁みていたときだったので、”まど・みちお”という文字に惹きつけられて、このテキストを手に取って、パラパラとページをめくってみた。

第6回の放送分、”つながっていく生きもの~ゲノムと「ぞうさん」”で、まどさんの「ぞうさん」の詩が取り上げられていた。
ふむ?
自然科学の分野である生物学が、まどさんの詩とどのようにつなげられて展開されるのだろう。
生物学、ではなく、生物史、でもなく、「生物誌」ってなんだ?
13回分の講義はプログラム表を確認すると、最初から一度も聴くことはできない。
でも、毎回ラジオを聴いたつもりになって、自分で読んでいこうと思って、テキストを購入してキンシャサまで持ってきたのだった。

この「ぞうさん」の詩が取り上げられる第6回の冒頭部分でまず出てくるまどさんの詩、”空気”。
  
 
 ぼくの胸の中に いま 入ってきたのは いままで ママの胸の中にいた 空気
 
 そしてぼくが いま吐いた空気は もう パパの胸の中に 入っていく

 同じ家に住んでおれば いや 同じ国に住んでおれば 

 いやいや 同じ地球に住んでおれば

 いつかは同じ空気が 入れかわるのだ

 ・・・・・・(中略)

 5月 ぼくの心が いま すきとおりそうに 清々しいのは

 見わたす青葉たちの 吐く息が ぼくらに入り 

 ぼくらを内側から 緑にそめあげてくれているのだ

 ・・・・・(中略)

 一つの地球をめぐる 空気のせせらぎ!

 それはうたっているのか 忘れないで 忘れないで・・と

 すべての生き物が兄弟であることを・・・と


外とのつながりがあって、そして、「すべての生き物は生き物からしか生まれない」ということ。
ゾウはゾウからしか生まれない。
ヒトはヒトからしか生まれない。
でも、ヒトが持っているDNA~ゲノムは、一人ひとりみな違っている、という事実。
そして、ヒトは生まれて死ぬまでの間にさまざまに変化しながら、でも底の底では変わらぬ自分としてつながり、そうやってすべての生きものは38億年もの歴史を持ち続け、連綿と繋がっているという事実。

その相関図がこのブログの最初に掲げた「生命誌絵巻」だというのだ。

人間は生きものであり、自然の一部だ、とまどさんも詩の中で表している。

そして、まどさんは小さな蚤や蟻の目線から大きく大きく視点を広げていって、生きものの舞台を「地球」、そして「宇宙」にまでふくらませて見ている!

「みなさんは 日本の子どもである前に 地球の さらに宇宙の子どもです。」(百歳の言葉)

大きなくくりで、ヒトも含めて生きものとしての繋がりを時空間で考えてみる。
そうしたら、あたえられた人生のちっぽけなこと。
でも、そのひとりひとりのちっぽけな人生が繋がっていって歴史が創られ続いていく。
そう考えると、わたしの人生、友だちの人生、みなの人生をしっかり大切にして繋げていきたい、
と思えてくる。

中村桂子さんは、まどさんの”ぼくがここに”という詩も大きく取り上げている。


 ぼくがここにいるとき ほかのどんなものも 

 ぼくにかさなって ここにいることは できない

 もしも ゾウがここにいるならば そのゾウだけ

 マメがいるならば その一つぶのマメだけしか

 ここにいることはできない

 ああ このちきゅうのうえでは こんなにだいじに

 まもられているのだ

 どんなものが どんなところに いるときにも

 
 その 「いること」こそが なににもまして

 すばらしいこととして


生きものの歴史、38億年のなかで、 今、ここにいること、そのことがすごいこと。
存在することそのことへの賛美、憧れ、畏れをもって生きよう。
そう提唱する生命誌。

また、「生命誌」は、”生きものは長い歴史の中で、唯一無二の個体を生み出すと同時にその個体に老いと死を組み込んだ”ということ、そして、いわゆる障害ということにも触れ、さらりと教えてくれていると感じる。
 
”生命科学が急速に進展され、それらの技術が産業を進歩させていきました。でも、その結果、世の中は、「生きること」を大切にする方向に向かったでしょうか。”
と読者に投げかけ、
”DNAを基盤にする科学を「生きものを生きものとして見る」という新しい見方に繋げたい、ということで「生命誌」という分野を創った。”
この巻の”はじめに”で中村桂子さんは明言している。
 
わたしは、自然科学の分野が人文科学の視点を持って、垣根を取っ払って新しい見方を提示してくれたように感じて、この「生命誌」の捉えかたに魅了された。
大げさに言うと、時空間の中でヒトとしての本来の生き方をも見せてくれるように感じた。

わたしたちが、”時間”と”関係”とを大切に生きることが、「こころ」を働かせることであり、皆でそのような生き方をしていくことが「こころを考える」ことだ、というのが「生命誌」から引き出せる答えです、とも中村桂子さんは結んでいる。

「生命誌」の求めるもの・・・今、ここに子どもたちが、「人間は生きものであり、自然の一部である」
という当たり前のことを、当たり前として育っていくこと、とも言い換えている。

大きな視点と繊細な視点を混ぜ合わせて、長く続いてきた生きものの歴史の流れと、大きな宇宙、空間の中で”自然の一部である生きもの”として生きているわたしたちの存在をもう一度見つめ直
させてくれる科学者であり、同時に哲学者のような視点をも合わせ持つ中村桂子さんグループ(?)の提唱する「生命誌」に触れて本当に良かったと思う。

かのじょのお歳を考えるとわたしの亡き母よりちょっと下くらいのかたか。
子育て期間中は、研究者としての仕事を辞めて子どもと向かい合ってもいらっしゃる。
そういう生き方をしてこられたからこそ、生物科学を普段の生活にまで下ろして考えほぐして見せてくれる柔軟な視点もご自身の中で育まれたのではないか,と想像したりした。
学問と学問の境界域の空白部分こそ研究がなされてその境界線を無くすということは重要な作業だと思えてならない。

この、中村桂子さんの「生命誌」と、まど・みちおさんの「詩の世界」との融合について、3か月にわたる講座内容をわたしなりにまとめて残しておきたいと思いつつも、なかなか書き出せないでいた。

そんな中、わたしの大切な友人で、現在、ALSという病気と向き合うケイコさんが送ってくれた詩が
今朝届いて、その詩がわたしの背中をそっと押してくれた。

最後にその、ヘルマン・ホイヴェルス神父の詩を引用して締めくくりたい。


 「最上のわざ」 ヘルマン・ホイヴェルス著 ”人生の秋に”より

  この世の最上のわざは 何?
 
  楽しい心で年を取り、働きたいけど休み、しゃべりたいけど黙り、
  失望しそうな時に希望し、従順に、平静に、おのれの十字架をになう。

  若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見ても、ねたまず、
  人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、
  弱って、もはや人のために役立たずとも、親切で柔軟であること。

  老いの重荷は神の賜物、古びた心に、これで最後のみがきをかける。
  まことのふるさとへ行くために。

  おのれをこの世につなぐ鎖を少しずつ外していくのは、 真にえらい仕事。
  こうして何もできなくなれば、それを謙虚に承諾するのだ。
  神は、最後にいちばんよい仕事を残してくださる。

  それは、祈りだ。
  手は何もできない。
  けれども、合掌できる。
  愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために。
  全てをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。
  
  『来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ』と。

 
宇宙を感じながら自然の中の生きものの一つとして、人生を全うして次世代にバトンタッチしたいな。
いつか、中村桂子さんのお声をお聞きしながら、お話を伺う機会がおとずれますように。