母です。
夫がアフリカ出張の時に、ある方から、「中央アフリカ共和国を検索して、アフリカどまんなか→バンギのある日、と進むと奥さんの手記が読めますねえ。」と言われたそうだ。
1992年7月から1995年7月まで家族と過ごした中央アフリカ共和国、バンギでの思い出を書いてほしいと、滞在時たいへんお世話になった鹿島建設の所長さんから依頼され、帰国後2年ほど経って当時の普段の一日を思い出して書いたのが、まだ残っていたのだ。確かわたしはパソコンで送信することを知らず原稿用紙に書いて郵送したはず。
”バンギのある日”と題してパソコンに文章を入れてくれ、所長さんがホームページの載せてくれた、なつかしい手記だ。
読み返したら、あの頃のことがありありと思い出された。
4歳から7歳までを過ごした息子は、ボーイのフランソワおじさんに憧れ、一時期、パイロットになる夢を変更。
「フランスワおじさんのようなお手伝いさんになる!」と目を輝かせて言っていたっけ・・・本当に良いおじさんだったな。
帰国の時、わたしたちの持っていたキイボードを売ってくれと言ってきたおじさん。なのに、わたしは大きいほうのキイボードではなく、ちょっと小さいほうをおじさんにあげたんだ。大きいほうをあげればよかった。
帰国して何年か経ったころ、フランソワおじさんが亡くなった、と風の便りで聞いた時、家族でフランソワおじさんを偲んで悲しんだ。
いつも優しく子どもたちの送り迎えをしてくれた運転手のポールも感謝するひとりだ。よくエンコする赤いルノーで子どもたちを安全に運んでくれた。娘は、フランス大使のお嬢さんと約束してフランス大使公邸に行く時、おんぼろ車が恥ずかしいのか、こっそり父親のランドクルーザーで行っていいかお願いしていたことを思い出す。
娘はFacebookでフランス大使のお嬢さんからメイルが届き、フレンチスクールの仲間と次々に繋がったそうだ。
我らが運転手ポールは誠実な人柄から日本大使館、閉館後は石油会社の運転手として働いている、といつだったか手紙をくれた。
毎晩、蚊帳を吊ったベッドに寝た子どもたちと読み聞かせで楽しんだことも懐かしい思い出だ。
ああやって一日の出来事を鮮明を覚えていたのも、毎月発行していた通信があったからこそだろう。
わたしの通信は「バンギ便り」。
娘は「Bonjour便り」。
字を満足に書けなかった息子も、絶対書きたい!、と言って、「ライオン新聞」を書いていた。
それらの通信を日本に毎月送るのは私たちの大きな楽しみだったと、今あらためて思う。
帰国して翌年だったか、印刷会社に勤務する従兄が、思い出をまとめておくといいよ、と言って、母子3人の3年分の通信を一冊にして、「マンゴーの森」という本にしてくれた。
アフリカの生活から早16年。娘はフランスへ嫁ぎ、息子はパイロットでもお手伝いさんでもなく、今春、商船会社に入社。
もう一度アフリカへ行きたい!と思っていたら、コンゴ行きの話が転がり込み、10月4日出発だ、と思っていたら、なんとがっかり。
いまだ出発できないでいる。
寝室には準備万端整った大きなスーツケースがふたつ、並んだまま。
中央アフリカ共和国と、コンゴ民主共和国。
アフリカ大陸のど真ん中、赤道直下で上下に国境を接する国同士だ。
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