初夏のころ、夜の深い眠りについた街を描く画家に会った。
彼女は、その街を ”海に沈む街”(実際の題名は忘れた。)として描いていた。
碧い海の底にたたずむ街には、透明な魚が静かに泳いでいて、深い深い眠りについた街、というイメージが心底湧いてくる絵だった。
昨年冬の絵本屋開店中、知人から、フランスで出版された一冊のかわいらしいイラストが描かれた詩の本をプレゼントされた。
表紙には、”Illustrations de Kimiyo Azuma”と書かれていた。
海に沈む街の画家、東公与(あずま きみよ)さんだ。
”JULIEN”
”L’HIRONDELLE”
”SUR LA LUNE”
この詩の本は、「Amon le petit crocodile」。64篇のとってもかわいらしい詩のうちの一篇を表題にしている。
辞書を引きながら読んでいって、きらきらの星の粉をふりまいたようなきれいな表現にうっとり。その詩にぴったりの絵がさらに詩をきらめくものにしていた。
タイムのハーブの枝を揺り動かして、さ~っと風に消えたかと思った妖精が、見てごらん!タイム色の雲に変えて、飽きもせず雲のなかでタイムの枝持って、けらけらと遊んでいるよ。
「真ん丸かたつむりさん、いったいあなたはどこ行くの?」翼に結んだきれいなレースをなびかせながら、つばめが訊きます。「こどもたちのために、かぼちゃに隠したボンボン(飴玉)をさがしに行くところ。」
月に二羽の小鳥がいるよ。え、小鳥?いるわけないでしょ?いるよ。いるよ。うそじゃないって。月の小鳥たちって、夢の番人なんだって。
上の3枚は、そんな詩に添えられた絵だ。
今年6月に恵比寿の日仏会館で開かれた個展で、パリ在住の画家、東公与(あずま きみよ)さんを初めて紹介された。
入り口に「海に沈む街」(という題だったか・・)の連作が掛かっていて、奥へ進むと日本の童謡や唱歌を題材にした、きれいな色彩の絵(アクリル画?)が目に飛び込んできた。
彼女はこれらのかわいらしい絵たちを絵はがきにして日本に持参し、売り上げを東日本大震災の義援金にしようと計画するも、個展会場での販売は禁止されていたのだそうだ。
そこで、夏の絵本屋で公与さんの10枚セット絵はがきを販売しましょう、と申し出たのだった。わたしの手元に残っていないのでうろ覚えだが、おひなさま、うさぎのダンス、海、お馬のおやこ、あわてんぼうのサンタクロースなどが金や銀のラインを特徴に描かれていて、37セットが完売した。
その売上金は、公与さんの厚意で日本赤十字社を通じて東日本大震災義援金として寄付された。
彼女が描く、「海に沈む街」は、「青い」と書くのか、「碧い」のほうなのか、深いブルーが印象的な絵だった。
わたしは公与さんに、「夜行便でサハラ砂漠上空を飛んだときに眼下に広がっていた光景と重なります。」と話した。
夜中のサハラ砂漠は深くきれいな青紫色の中に横たわり、まるで海の中を飛んでいるように思われた。また、月夜のサハラ砂漠に星の王子さまとテグジュペリがかわいらしい押し問答をしてるのが見えそうで、飛行機からじっと目を凝らして二人の幻影を真剣に探したりもした。
そんな、夜中のサハラ砂漠と、公与さんの「海の底に沈む街」と。
幻想的な深い青は、心が静まり、無音の世界を感じる。
寛子でした。
昔の話ですが、L’éléphant vert(レ・レファン・ベール)という小さな絵本屋さんを、毎年夏休みの期間限定でオープンしていました。多くの方々のお力のおかげで…。 いつかまた絵本屋さんを実現できたらな、そんなことをひっそりと夢みながら、 このブログで絵本に関するたわいもない話を、 現在アフリカのブルキナファソに住む母(2012年~2014年はコンゴ民主共和国からの更新)と、フランスに嫁いだ娘が綴ります。
2011年10月27日木曜日
2011年10月25日火曜日
ゴリ子ちゃん
14645901
夏の絵本屋で、人形作家、内田恵子さんの制作した9体のパペットを預かり、販売した。
ぬいぐるみ人形の中に組み込まれた手袋状のものの中に手を入れて動かすと本当に生き生きと愛くるしい表情をする動物たちだった。彼女は与勇輝のような作風の人形を制作し、多くの個展を開催している方で、今回、初めてパペットたちを制作したと聞く。今春の大震災で被害に遭われた方の癒しになればという思い、パペットとの交流の様子を知りたい、売上金を大震災の義援金にしたいという希望を持っていることを知り、夏の絵本屋で販売することにした。
まず、お孫さんがちょうど童謡♪かたつむり♪を覚えて一緒に遊びますという私の大学の先輩が、色使いもオシャレな「かたつむり」パペットを引き取って行かれた。
それから、夫婦で歯科医院をする友人が、前歯がチーズ好きを物語るいたずらっ子の「ねずみくん」を虫歯で来院する子どもたちの同志(!)に、と連れ帰った。
また、小学校で音楽を教える友人が、賢者の風格の「ふくろう奥さん&2匹の子どもふくろう」パペットを選ばれた。早速、授業に使い、低学年の子どもたちの目がランラン♪と輝いてかわいいのよ~と話してくれた。
そして、威風堂々としてるのになんだか笑いがこみ上げてくる「ゴリラ」パペットが娘たちの養女として引き取られていった。皮のむけるバナナとりんごとブドウのえさ付きで紫色の乳首がかわいく、絶対女の子だと言って”ゴリ子ちゃん”と名づけてかわいがっている。彼らの部屋を訪ねるたび、口にくわえる果物が違っている。
2匹のカラフルな「ヤドカリ」パペットと、さかなちゃんの頭に載せたくなるような「なまず」パペットの3体はまだ引き取り先が決まっていない。
友人が学校や教会のボランティアグループに訊いてみようと預かってくれている。
どなたか有効利用していただけるところがあったら是非教えてください。
パペットの大きさは、ゴリ子ちゃんはヨン様が持つ豪華な花束くらい・・・生後10か月くらいの人間の赤ちゃんくらいかな。
ほかのパペットたちは野球のグローブくらいか、ちょっと大きいくらいだ。
子どもたちは、ぬいぐるみが動いた瞬間にもう命あるものとして心から感動してくれて、こちらにも幸せが伝わってくる。
小さい頃、着ぐるみのファンタジックな劇団、「木馬座」の舞台を観に行ったのを思い出す。
たしか、題目は”ヘンデルとグレーテル”。お菓子の家が欲しかったけど、恐ろしい魔法使いのおばあさんのものと知った途端、不気味なお菓子に見えてきたものだ。劇が終わって舞台に上がって着ぐるみたちと握手するとき、異様なほどの顔と目の大きさに圧倒された。初めてディズニーランドでミッキーマウスに頭をなでられた時に大泣きした我が息子ほどではなかったけれど、宇宙人に出会ったときもこんなかなあ~と思うほど心はぶっ飛んでいた。
さて、パペット人形の細部にまでこだわって制作されたのを重々承知で、価格は気持ちででお願いしますという作者の言葉をそのままに三千五百円から七千円の幅で購入していただき、先日やっと日本赤十字社東日本大震災義援金として送金を済ませた。行動の遅い我が身を情けなく思う。ごめんなさい。
内田恵子さん、夢を与えてくださりありがとうございました。
パペットたちの末永い幸せな人生を心から祈ります。
母の寛子でした。
2011年10月24日月曜日
バンギのある日
母です。
夫がアフリカ出張の時に、ある方から、「中央アフリカ共和国を検索して、アフリカどまんなか→バンギのある日、と進むと奥さんの手記が読めますねえ。」と言われたそうだ。
1992年7月から1995年7月まで家族と過ごした中央アフリカ共和国、バンギでの思い出を書いてほしいと、滞在時たいへんお世話になった鹿島建設の所長さんから依頼され、帰国後2年ほど経って当時の普段の一日を思い出して書いたのが、まだ残っていたのだ。確かわたしはパソコンで送信することを知らず原稿用紙に書いて郵送したはず。
”バンギのある日”と題してパソコンに文章を入れてくれ、所長さんがホームページの載せてくれた、なつかしい手記だ。
読み返したら、あの頃のことがありありと思い出された。
4歳から7歳までを過ごした息子は、ボーイのフランソワおじさんに憧れ、一時期、パイロットになる夢を変更。
「フランスワおじさんのようなお手伝いさんになる!」と目を輝かせて言っていたっけ・・・本当に良いおじさんだったな。
帰国の時、わたしたちの持っていたキイボードを売ってくれと言ってきたおじさん。なのに、わたしは大きいほうのキイボードではなく、ちょっと小さいほうをおじさんにあげたんだ。大きいほうをあげればよかった。
帰国して何年か経ったころ、フランソワおじさんが亡くなった、と風の便りで聞いた時、家族でフランソワおじさんを偲んで悲しんだ。
いつも優しく子どもたちの送り迎えをしてくれた運転手のポールも感謝するひとりだ。よくエンコする赤いルノーで子どもたちを安全に運んでくれた。娘は、フランス大使のお嬢さんと約束してフランス大使公邸に行く時、おんぼろ車が恥ずかしいのか、こっそり父親のランドクルーザーで行っていいかお願いしていたことを思い出す。
娘はFacebookでフランス大使のお嬢さんからメイルが届き、フレンチスクールの仲間と次々に繋がったそうだ。
我らが運転手ポールは誠実な人柄から日本大使館、閉館後は石油会社の運転手として働いている、といつだったか手紙をくれた。
毎晩、蚊帳を吊ったベッドに寝た子どもたちと読み聞かせで楽しんだことも懐かしい思い出だ。
ああやって一日の出来事を鮮明を覚えていたのも、毎月発行していた通信があったからこそだろう。
わたしの通信は「バンギ便り」。
娘は「Bonjour便り」。
字を満足に書けなかった息子も、絶対書きたい!、と言って、「ライオン新聞」を書いていた。
それらの通信を日本に毎月送るのは私たちの大きな楽しみだったと、今あらためて思う。
帰国して翌年だったか、印刷会社に勤務する従兄が、思い出をまとめておくといいよ、と言って、母子3人の3年分の通信を一冊にして、「マンゴーの森」という本にしてくれた。
アフリカの生活から早16年。娘はフランスへ嫁ぎ、息子はパイロットでもお手伝いさんでもなく、今春、商船会社に入社。
もう一度アフリカへ行きたい!と思っていたら、コンゴ行きの話が転がり込み、10月4日出発だ、と思っていたら、なんとがっかり。
いまだ出発できないでいる。
寝室には準備万端整った大きなスーツケースがふたつ、並んだまま。
中央アフリカ共和国と、コンゴ民主共和国。
アフリカ大陸のど真ん中、赤道直下で上下に国境を接する国同士だ。
夫がアフリカ出張の時に、ある方から、「中央アフリカ共和国を検索して、アフリカどまんなか→バンギのある日、と進むと奥さんの手記が読めますねえ。」と言われたそうだ。
1992年7月から1995年7月まで家族と過ごした中央アフリカ共和国、バンギでの思い出を書いてほしいと、滞在時たいへんお世話になった鹿島建設の所長さんから依頼され、帰国後2年ほど経って当時の普段の一日を思い出して書いたのが、まだ残っていたのだ。確かわたしはパソコンで送信することを知らず原稿用紙に書いて郵送したはず。
”バンギのある日”と題してパソコンに文章を入れてくれ、所長さんがホームページの載せてくれた、なつかしい手記だ。
読み返したら、あの頃のことがありありと思い出された。
4歳から7歳までを過ごした息子は、ボーイのフランソワおじさんに憧れ、一時期、パイロットになる夢を変更。
「フランスワおじさんのようなお手伝いさんになる!」と目を輝かせて言っていたっけ・・・本当に良いおじさんだったな。
帰国の時、わたしたちの持っていたキイボードを売ってくれと言ってきたおじさん。なのに、わたしは大きいほうのキイボードではなく、ちょっと小さいほうをおじさんにあげたんだ。大きいほうをあげればよかった。
帰国して何年か経ったころ、フランソワおじさんが亡くなった、と風の便りで聞いた時、家族でフランソワおじさんを偲んで悲しんだ。
いつも優しく子どもたちの送り迎えをしてくれた運転手のポールも感謝するひとりだ。よくエンコする赤いルノーで子どもたちを安全に運んでくれた。娘は、フランス大使のお嬢さんと約束してフランス大使公邸に行く時、おんぼろ車が恥ずかしいのか、こっそり父親のランドクルーザーで行っていいかお願いしていたことを思い出す。
娘はFacebookでフランス大使のお嬢さんからメイルが届き、フレンチスクールの仲間と次々に繋がったそうだ。
我らが運転手ポールは誠実な人柄から日本大使館、閉館後は石油会社の運転手として働いている、といつだったか手紙をくれた。
毎晩、蚊帳を吊ったベッドに寝た子どもたちと読み聞かせで楽しんだことも懐かしい思い出だ。
ああやって一日の出来事を鮮明を覚えていたのも、毎月発行していた通信があったからこそだろう。
わたしの通信は「バンギ便り」。
娘は「Bonjour便り」。
字を満足に書けなかった息子も、絶対書きたい!、と言って、「ライオン新聞」を書いていた。
それらの通信を日本に毎月送るのは私たちの大きな楽しみだったと、今あらためて思う。
帰国して翌年だったか、印刷会社に勤務する従兄が、思い出をまとめておくといいよ、と言って、母子3人の3年分の通信を一冊にして、「マンゴーの森」という本にしてくれた。
アフリカの生活から早16年。娘はフランスへ嫁ぎ、息子はパイロットでもお手伝いさんでもなく、今春、商船会社に入社。
もう一度アフリカへ行きたい!と思っていたら、コンゴ行きの話が転がり込み、10月4日出発だ、と思っていたら、なんとがっかり。
いまだ出発できないでいる。
寝室には準備万端整った大きなスーツケースがふたつ、並んだまま。
中央アフリカ共和国と、コンゴ民主共和国。
アフリカ大陸のど真ん中、赤道直下で上下に国境を接する国同士だ。
2011年10月20日木曜日
夕焼け空はいいなあ
母の寛子です。
東京はもう夕方5時過ぎたら暗く、冬はそこまで来ていることを実感します。
冬至の頃なんて4時半にはもう真っ暗です。
九州では夕方6時前に暗い、ということはなかったように思うのだけど。
わたしは夕焼け空が大好き。
夕焼けを美しく描く絵本といってまず思い出すのが、「赤い目のドラゴン」(岩波書店)。
かわいがっていたドラゴンが目を真っ赤にして夕焼け空を飛んで去ってゆくあのオレンジ色のページをめくる度、今でもこみ上げてくるものがあります。
いせひでこ作「絵描き」(理論社・・絶版かな)にも忘れられない夕焼けのページがあります。
絵描きが白いキャンパスに夕焼け空を描き、それを背負って「今日は夕焼け空を切り取って帰ろう・・」と、夕焼け空が四角くぽっかりと切り取られている、そんなページに小学生だった頃の自分を重ねます。
アフリカ、サバンナの大地に呑み込まれるように沈んでゆく真っ赤な夕日を描いた「だれかがほしをみていた」(アスクミュージック)。
だんだん夜の勢力が勝って、夕焼け色から紫色に変化してゆく絶妙な場面を描いた「ぼくのだいすきなケニアの村(BL出版)。
どちらもわたしたち家族にとって懐かしい胸キュンのアフリカの夕焼けの光景です。
谷川俊太郎の写真詩集「ゆう/夕」(アリス館)もいいです。
夕暮れ時に眺める町並みの光景はとてつもなく懐かしく、人間たちを愛おしく感じます。
ひとつひとつの灯りにどんな家族がどんな広がりを作っているんだろう。
悲喜こもごもの物語を感じます。
夕焼け空はいいなあ。
小さい頃の思い出が胸に広がりなんとも懐かしくなる。
でも、独りでいるのがどうにもやりきれない気持ちになるのもこの時間だ。
そんなときは何にも考えずに外にふらりと出て、散歩するのもいいかもしれない。
東京はもう夕方5時過ぎたら暗く、冬はそこまで来ていることを実感します。
冬至の頃なんて4時半にはもう真っ暗です。
九州では夕方6時前に暗い、ということはなかったように思うのだけど。
わたしは夕焼け空が大好き。
夕焼けを美しく描く絵本といってまず思い出すのが、「赤い目のドラゴン」(岩波書店)。
かわいがっていたドラゴンが目を真っ赤にして夕焼け空を飛んで去ってゆくあのオレンジ色のページをめくる度、今でもこみ上げてくるものがあります。
いせひでこ作「絵描き」(理論社・・絶版かな)にも忘れられない夕焼けのページがあります。
絵描きが白いキャンパスに夕焼け空を描き、それを背負って「今日は夕焼け空を切り取って帰ろう・・」と、夕焼け空が四角くぽっかりと切り取られている、そんなページに小学生だった頃の自分を重ねます。
アフリカ、サバンナの大地に呑み込まれるように沈んでゆく真っ赤な夕日を描いた「だれかがほしをみていた」(アスクミュージック)。
だんだん夜の勢力が勝って、夕焼け色から紫色に変化してゆく絶妙な場面を描いた「ぼくのだいすきなケニアの村(BL出版)。
どちらもわたしたち家族にとって懐かしい胸キュンのアフリカの夕焼けの光景です。
谷川俊太郎の写真詩集「ゆう/夕」(アリス館)もいいです。
夕暮れ時に眺める町並みの光景はとてつもなく懐かしく、人間たちを愛おしく感じます。
ひとつひとつの灯りにどんな家族がどんな広がりを作っているんだろう。
悲喜こもごもの物語を感じます。
夕焼け空はいいなあ。
小さい頃の思い出が胸に広がりなんとも懐かしくなる。
でも、独りでいるのがどうにもやりきれない気持ちになるのもこの時間だ。
そんなときは何にも考えずに外にふらりと出て、散歩するのもいいかもしれない。
2011年10月18日火曜日
夏の絵本屋が遠くへ
こんにちは。あっという間に10月も半ば過ぎ。
ミラクルゴブサタしました。
夏の絵本屋を閉じた後、娘の南仏アンティーブ市役所での入籍式に合わせて10日間ほど日本を留守にしました。
入籍式の9月17日は晴天。空の青と地中海の青の中で、娘の薄桃色の着物が映えてとってもきれいでした。
娘は5歳の頃から絵本「ゼラルダと人喰い鬼」(評論社)が大のお気に入りでした。
料理が大得意の小さな女の子ゼラルダは、お父さんが丹精込めて作った農作物や酪農品をひとりで町の市場に売りに向かっていました。そこへ、お腹を減らした、人間の子どもが大好物の人喰い鬼が通りかかりました。
ゼラルダを食べるつもりがあまりの空腹に気絶し、気がついたらゼラルダに介抱され、おまけにゼラルダが作ったご馳走に完全ノックアウトされ、ゼラルダを父親と共に彼の城に住み込みで招き入れたのでした。
ゼラルダの作る料理を毎日食べるうちに、子ども喰い鬼から足を洗い、いつの間にやら柔らかい人相になり、ついには二人に愛が芽生え結婚するのでした。
そして何人もの子どもたちに恵まれ幸せに暮らしましたとさ!・・・という話。
以前にも書きましたが、「この絵本がわたしを料理好きへ導いた。」と明言する娘。
その娘が身長192センチの体の大きな、そして食べるの大好きな(特に和食とプリンとアイスクリームが大好物の)フランス青年と並んで写真に納まるのを見て、「ああ~娘はゼラルダの物語を実現したなあ~」と密かに思うのでした。
ゼラルダと夫と子どもたちの描かれる、この物語の最後のページをご覧ください。
美しい母親になったゼラルダと、にこやかな夫と、かわいらしい子どもたちに囲まれた幸せな一家に出会えますよ。
(絵本の作者トミー・ウンゲラーのブラック・ユーモアも忘れずにお楽しみください。)
ミラクルゴブサタしました。
夏の絵本屋を閉じた後、娘の南仏アンティーブ市役所での入籍式に合わせて10日間ほど日本を留守にしました。
入籍式の9月17日は晴天。空の青と地中海の青の中で、娘の薄桃色の着物が映えてとってもきれいでした。
娘は5歳の頃から絵本「ゼラルダと人喰い鬼」(評論社)が大のお気に入りでした。
料理が大得意の小さな女の子ゼラルダは、お父さんが丹精込めて作った農作物や酪農品をひとりで町の市場に売りに向かっていました。そこへ、お腹を減らした、人間の子どもが大好物の人喰い鬼が通りかかりました。
ゼラルダを食べるつもりがあまりの空腹に気絶し、気がついたらゼラルダに介抱され、おまけにゼラルダが作ったご馳走に完全ノックアウトされ、ゼラルダを父親と共に彼の城に住み込みで招き入れたのでした。
ゼラルダの作る料理を毎日食べるうちに、子ども喰い鬼から足を洗い、いつの間にやら柔らかい人相になり、ついには二人に愛が芽生え結婚するのでした。
そして何人もの子どもたちに恵まれ幸せに暮らしましたとさ!・・・という話。
以前にも書きましたが、「この絵本がわたしを料理好きへ導いた。」と明言する娘。
その娘が身長192センチの体の大きな、そして食べるの大好きな(特に和食とプリンとアイスクリームが大好物の)フランス青年と並んで写真に納まるのを見て、「ああ~娘はゼラルダの物語を実現したなあ~」と密かに思うのでした。
ゼラルダと夫と子どもたちの描かれる、この物語の最後のページをご覧ください。
美しい母親になったゼラルダと、にこやかな夫と、かわいらしい子どもたちに囲まれた幸せな一家に出会えますよ。
(絵本の作者トミー・ウンゲラーのブラック・ユーモアも忘れずにお楽しみください。)
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