2014年12月24日水曜日

JOYEUX NOEL ! ” こうさぎたちのクリスマス”

 今日は、クリスマスイブ。
クリスマスの絵本には実に多くのものがあって楽しめる。
先日、絵本屋をはしごしたが、どこもクリスマスプレゼントを求めて、たくさんのお客さんで賑わっていた。

今朝、わたしがふっと思い出したクリスマスの絵本が、この「こうさぎたちのクリスマス」だ。


絵本 ”こうさぎたちのクリスマス” わが家のクリスマスツリーと共に

1979年12月に佑学社から第1刷が発行されている。
我が家に来たのは1991年12月のこと。
エイドリアン・アダムズ作・絵
乾侑美子訳
どのページもシンプルな構図なのだが、色合いがとてもきれいですーっと物語の世界に入っていける。

娘が大好きだったこの絵本。
グレーに雪の白い水玉がバックになった表紙からしておしゃれだし。
”うさぎ”と言ったら復活祭の卵で、この絵本の中のクリスマスツリーの飾りには思った通り(!)この卵が使われているし。
主人公の子うさぎが親から離れて1人暮らしするのが何と!大木の大枝の上にこしらた小さな家なのだから。
娘がこの絵本に夢中になったのは合点がいく。

(娘は小さい頃、木の上が大好きで、木の上の家に住むのが夢だった。幼稚園の頃は、おやつと水筒を小さなカバンに詰めて、ミニ座布団を抱えて、わが家の裏にあったしいの木公園の大木によじ登って枝の上でおやつを食べることが娘の至福の時だった!)


主人公のオーソン家は、春の復活祭のための卵にきれいな絵を描く名人たちだから、クリスマス前なのにもう復活祭ための卵の絵描きを始めている。

オーソンは、村の子ウサギたちと力を合わせて、森から大きなモミの木を運んできて、かれの木の上の家の下にそのモミの木を立てる。
そして、クリスマスのために卵に特別な模様を描き、ほかにも緑色に似合う模様の卵を選んで、オーソンが木の上の家に上り下りするための滑車を使って大きなモミの木に飾りつけていくのだ。
そして、これまた娘がウットリしたことは、オーソンのお母さんが作ってくれたポップコーンを子ウサギたちが糸で繋いで長い長い飾り紐を作る場面だ。
そうやって、卵のオーナメントとポップコーンの飾り紐で大きなモミの木がクリスマスカラーにいろどられていくのだ。

子ウサギたちだけで準備され、大人たちに秘密にしていた森の中のクリスマスパーティーが始まる。
大人たちがそりで集まってきたとき、ライトがぱっと点灯し、モミの木が浮かび上がった!!


どのページも本当に美しい場面が広がるこの絵本に、わが家の子どもたちはたくさんの夢をプレゼントされたのだろうな。

今も、この絵本が手に入りますように。

 JOYEUX NOEL !

 メリー クリスマス !



2014年12月23日火曜日

「パリのおばあさんの物語」に寄せて

手のひらサイズよりちょっと大きめの絵本「パリのおばあさんの物語」が、わたしの手元に来て何年になるだろう。
そう思ってページをめくると。

初版は2008年10月とある。

池袋の書店でこの絵本に出会って店員さんの手書きの推薦文に惹かれて手に取り、即、購入してわが家に連れ帰って。
6年になるのか。
なんだか、もっともっと長い間わたしの手元で、わたしを励まし続けてくれているようにも思える。


絵本 パリのおばあさんの物語


2回目の夏の絵本屋開店に向けて準備していたとき、ドキドキしながら千倉書房に電話して、思いがけずに千倉真理さんと繋がった。
夏の絵本屋で、「パリのおばあさんの物語」の編集者である真理さんに絵本の誕生秘話を講演していただいた2010年8月の暑い日のことをはっきりと思い出す。
予算のない絵本屋なのに真理さんはフレンドリーに応じてくれ、かのじょが編集した絵本たちの入った小ぶりのスーツケースをコロコロと引いて笑顔で現れた日のことを。
かのじょの話を聴いて、かのじょの想いもたっぷり入ったこの絵本がますます輝いたあの日のことを。

あの暑い日の、明るい絵本屋の中で、かのじょが、今夏はご主人の初盆だ、と話されたとき。
そのとき、ふたりの女性が繋がった。

勤務先が同じだったふたりのご主人たちから、それぞれにマダムのことは聴いていたけれど、出会ったのはその日が初めてだったと聞く。
分野は違うけれど奇しくも同じ文筆業で活躍する素敵なマダムたち。
この絵本のおばあさんのように多くのものを抱えながら、かのじょたちはそれぞれに自身の信じる道を歩いて行くのだろう。


真理さんが編集した、岸恵子訳の日本版の絵本「パリのおばあさんの物語」(千倉書房)。
わたしたちの三度の夏の絵本屋と、一度の冬の絵本屋で、この絵本はどれだけ多くの女性たちから支持されたことだろう。
多くの女性たちの(中には中学生の女の子もいたけど。)傍らで、人生の羅針盤、エール本になっていることだろな。


今冬、わたしは、その「パリのおばあさんの物語」を二人の友人の手元に置いてほしいと思ってこの本を二冊買ってきた。
沖縄の友人に郵送したら、翌日、連絡を受けた。
”届きましたー、ちょうどわたしの誕生日に。”

それから、3日前、もうひとりの友人には直接手渡すことができた。
”わぁーうれしい、今日はわたしの誕生日なのよ。”

びっくりうれしい。
この2冊の絵本は、どちらもそれぞれの友人たちの誕生日プレゼントになったのだった。


「パリのおばあさんの物語」 表紙をめくって



「パリのおばあさんの物語」
読むたびに、手に取るたびに、いつも行間に新たな発見をする。
そして、静かに肩に手を置いてそっと励ましてくれる本だ。

それから。
わたしにとって、絵本屋で出会ったたくさんの女性たちを思う本でもある。


2014年11月28日金曜日

指ぬきと、”中国の王女さま”~ 「年とったばあやのお話かご」より

NHKテレビ小説”マッサン”より

毎朝、楽しみに観ているドラマ、マッサン。

主人公は、スコットランドから明治の日本に嫁いできたエリー。
スコットランドにウイスキーの醸造の勉強で留学していたマッサンの帰国の時、エリーも一緒に日本に来たのだ。
わたしは、フランスに嫁いだ娘と重ね合わせて観てしまい、つい感情移入し過ぎてしまうところも。中島みゆきが歌う主題歌からして、毎回うるうるしている始末だ。

その愛しのエリーがいつも肌身離さず首にぶら下げているのが、指ぬきのペンダントだ。
その理由がわかった。
ある年のスコットランドでのクリスマスのホームパーティーで、カットして配られたケーキのエリーのところに銀の指ぬきが、そしてマッサンのケーキには銀貨が入っていた。
指ぬきと銀貨が入ったケーキに当たった二人は将来結婚するという言い伝えがあった・・・。

そんな設定がドラマに隠されているらしい。
また、指ぬきについて調べてみると、紀元前の頃より船の帆の縫製で実用として用いられてきた指ぬきは、19世紀に入りイギリスで貴族女性たちの間で裁縫で使うために発達してきたのだという。
古い指ぬきを見ると装飾過美なものもあるが、指ぬきは欧米では結婚のお守りや女性の幸せをもたらすアイテムと考えられ、身に着ける女性もいるのだそうだ。

ふーむ、なるほど~。
エリーの指ぬきペンダントがますます輝いて見えてきたぞ!!!

いつだったか、裁縫の達人の日本の友人が、指ぬきをかたどったシャネルのピアスをしていたことがあった。
それがとてもかのじょらしくて、すてきねえ、指ぬきピアス!、と褒めると、指ぬきだと分かってくれたの、あなたが初めてよ!、と喜ぶのだった。
うなずける、日本の指ぬきは指輪形式のものだからな。
なんでお寺の鐘をぶら下げてるの?、というコメントもあったそうだ。

でも、日本でも少しずつこのコップ型の指ぬきが浸透してきて、コレクターも増えてきているようだ。


ある夏のわたしたちの絵本屋で、わたしはファージョン作の物語「年とったばあやのお話かご」の横にエッフェル塔の絵が描かれた陶器の指ぬきを数個並べて販売したことを思い出す。

絵本や物語と組み合わせて、関連する小物を並べて売る。
そのことで物語の世界の奥行きが深まると思ってのアイディアだったし、わたし自身も組み合わせを考えて楽しんだ。


ファージョン作 年とったばあやのお話かご


「年とったばあやのお話かご」の本と、指ぬきの組み合わせ。
来店のお客さんたちから、どうしてこの本に指ぬきなのですか?、と何度か質問を受けた。

確かに、ばあやは毎晩、ベッドの傍で子どもたちがこしらえた靴下の穴の繕いをしながら、子どもたちにお話を(しかも!うれしいことに、!奇想天外な夢たっぷりぷりん!の大ぼら話を!!)語るという設定で、この物語の原題は、”The Old Nurse's Stocking Bascket”というし、ばあやの裁縫箱の指ぬきからのグッズか~と考えてもらってもいいのだが。

実は、わたしにはもっと思い入れのある理由があった!
それは・・。

物語「年とったばあやのお話かご」の中の10話目”中国の王女さま”

岩波書店発行のファージョン作品集①の「年とったばあやのお話かご」には、ばあやが語る魅力的な作り話(子どもたちには至福のお話タイムだったろううな!)13話が入っている。
その中の10話目、”中国の王女さま”がまた不思議世界にいざなってくれるばあや独特の作り話で、しかも、ばあやが乳母を務めた中国の王女さまのコンパクトさの描写がすてきなのだ!


”わたしは、わたしのはり箱の中に王女さまの寝台をつくってあげ、わたしのハンカチをふたつに切ってシーツにしてあげました。”というくだりには、わたしが小学生の時に大切にしていた人形を思い出してうっとり!

王女さまの笑い声は、”ガラスの鈴の上に雨のしずくが落ちるような音”がした、とはなんて美しい表現だろう。

”銀のおさじでごはんをあげるとき王女さまはそれだけでおなかがいっぱいになったし、王女さまが、ばあや、のどがかわいたわ、というときは、指ぬきに牛乳を入れてあげたものでしたが、半分ものこしてしまわれるんです。”

ほら、ここ。
わたしのお気に入りの描写。

指ぬきで王女さまに牛乳を飲ませた、なんて!

ただ、この一か所で、わたしはこの物語の本の横に陶器の指ぬきを置くことを思い立ったのだった。


さて。
しばらくたって、先ほどの手芸の達人の友人の指ぬきのコレクションを知り、わたしはアフリカ滞在中、旅先で指ぬきをかのじょのために探した。途中からは、わたし自身のためにも2個ずつ。
南仏アンティーブで、アルプス地方で、トルコ・イスタンブールで、そして南アのケープタウンで。
そうやって、わたしの手元にも集まった指ぬきたち。

我が家の指ぬきたち

指ぬきに描かれる絵を見ていると、訪れた街のことを思い出す。

しかしなあ。
小さなお姫さまのコップに指ぬきを持ってくるとは、そしてその半分ものこしてしまう、と続くファージョンさんの描写には参ってしまうな。

エリーがいつも身に着けている指ぬきのペンダントから、あれこれ考える初冬の夜である。

2014年10月29日水曜日

ことばあそびうた

 今月22日にフランスから娘一家が帰ってきた。
2歳4か月の娘を連れて。

孫娘は、父親とはフランス語で、母親とは日本語で育っている。
どちらも理解できるが、父親の実家にちょくちょく滞在してフランス語をより多く浴びているからだろう、フランス語が優勢!、とみた。
ありがとう!、と言わずに、Merci!と日本の方に言ったときは、「ありがとう、でしょう。」と、母親から訂正が入っている。
母親が、「~でしょう。」と注意をすると、孫娘は”Oui”とフランス語で応える。
そうすると、今度は、「はい、でしょ。」と訂正されている。
が、フランス語では”Oui”一言で済むことが、日本語ではそうはいかない。
いろいろな応え方になるのだなあ、と思わぬ発見をする。


そんな孫娘と、ああもう少ししたら、こんなことばあそびで楽しめるなあ、と思ったのが、この本だ。

「ことばあそびうた」(福音館書店)の本だ。


絵本 ことばあそびうた 見開き表紙

谷川俊太郎さんの言葉遊びが本当に楽しく展開されている一冊だ。
そして、瀬川康男さんの民芸調の版画(?)がまた素朴で楽しめる。

我が家の「ことばあそびうた」に押された蔵書印には、1990年3月12日の日付がある。
娘が幼稚園年長さん、もうじき小学校1年生、といった時期のときに購入されたことになる。

小学校の国語の教科書でもおなじみの”詩”もあるはずだ。
ひらがなばかりが並んだ”詩”だから、意味をしっかり取って読まないとチンプンカンプン!、
というところがこどもたちに受けるのかもしれない。
音読の楽しさもこの絵本で堪能できるだろう。
早口言葉みたいにして読み合うのも楽しい。

思い出すのがこのページだ。

絵本 ことばそびうた より ”うとてとこ”

”うとてとこ”?

なんじゃ、それ?
そう思うなかれ!
”う”、”て”、”こ”。
この三文字と使って遊んているのだ。

てとてとてとて
てがよんほん(と、手の挿絵が!)
てとてとてとてと
らっぱふく

うとうとうとう
うがよんわ(と、いねむりする鵜の挿絵が!)
うとうとうとうと
いねむりだ

ことことことこ
こがよにん
ことことことこと(と、戸をたたく子が!)
とをたたく

あいうえお順に言ってみる。
あとあとあとあ・・・・・
かとかとかとか・・・・
ほとほとほとほ・・・・
わとわとわとわ・・・・

ねとねとねとね
ねがよんひき(と、おくら練るねずみの挿絵とか?)
ねとねとねとねと
おくらねる

ふとふとふとふ
ふがよんこ(と、麩が考え込む挿絵とか?)
ふとふとふとふと
ふときづく

こんなことしてあそんだなあ。
でも、もうちょっと、音読し合ってもっともっと遊べばよかった、
などとも思う。

この本の初版は1973年10月1日。
もう40年近くにもなるロングセラー絵本だ。
日本語のおもしろさ、美しさを存分に楽しんでほしい!!!

2014年9月29日月曜日

マンゴーの森~親子で綴るアフリカの日々~

1992年7月から1995年7月まで、まるっと3年間、家族4人で過ごした中央アフリカ共和国のバンギで、わたしたち母子は毎月それぞれが新聞を発行して、それぞれの日々を綴って、それらをコピーして、家族や友人たちに送って楽しんでいた。


”マンゴーの森”表紙


この冊子、「マンゴーの森~親子で綴るアフリカの日々」は、わたしたちが帰国後しばらくして、わたしの従兄がバンギでの思い出のためにわたしたちが書き綴って来たそれぞれの月刊新聞を一冊にまとめたらどうかとアドバイスをくれ、かれの勤務する印刷会社で印刷してもらったものだ。

当時は、ブログという手段もなかったし、インターネットのメイルで送信するということも一般的ではなかった。
わたしたちは文章も挿絵も手書きで書いて描いて、夫の会社のコピー機でコピーしてもらっていた。

見返してみると。
わたしの「バンギ便り」は、1992年9月から1995年6月まで、第30号で終わっている。

”バンギだより 第7号” (1993年3月1日)



娘、ユキの「Bonjour だより」は、1992年12月から1995年6月まで、第26号で終わりになっている。
9歳になってすぐの時から11歳6か月までの記録だ。

”Bonjour だより 第1号”(1992年12月初め)

初回号は、「中央アフリカでの学校<シャルル・ド・ゴール・エコール>について書きます。」と書かれて、娘の通うフレンチスクールのことを紹介している。

わたしは、むすめにはこの便りを半分、強制して書かせたところがあった。
娘は、小学校3年生の1学期を終えてバンギに来ていて、日本人学校も補習校もなければ、日本人の子どもたちは、当時バンギでわが家の姉弟の二人だけだったから、しっかり日本語で考えて日本語で書くという時間を持ってほしかったのだ。
娘には厳しいところもあってかわいそうだったと反省している。(厳しい母でごめんね。)
でも、26号まで書き綴っているところをみると、結構、娘も楽しんで書いていたのではないかと思う。
また、こんな思いでもある。
・・・当時、娘たちのように日本人学校や補習校のない海外で暮らす子どもたちのために、在外日本大使館経由で毎月送付されてきていた補習ワークブックがあった。
その、海外子女教育財が発行する「一日一ページのワークブック」を使用して、娘は(後に息子も)日本の学校カリキュラムを学習していた。そして毎月末に終了テストを郵送するのだが、その封筒の中にも、娘が綴る新聞を入れていた。
そして嬉しいことに子女教育財団が発行する通信新聞に、よく娘の”Bonjourだより”が紹介されていた。そんなことも娘の励みになっていたのだと思う。


さて。息子、コウイチの「ライオンシンブン」は、というと。
1993年5月から1995年6月まで、第22号までしっかり続いている。
かれには一度も無理強いをしたことがない。
わたしが便りを書いて、姉が書いて、自然にぼくも書く、となったのか。
いやいや、夫のプロジェクトの鹿島建設の事務のお姉さんが、娘に[いつも”Bonjourだより”をありがとう。楽しみにしています。」という手紙と共に”ふりかけ”が出張者に託されて送られてきたことがあった。そのときに、ぼくもふりかけがほしい、と言って、自主的に書き始めたことを思い出す。

その時点で、息子は5歳7か月。満足にひらがなも書けなかったのだが、わたしの傍でわたしに質問しながら、たどたどしい字で書き綴っていた光景が懐かしく思い出される。


”ライオンシンブン うるとら7ごう”(1994年2月1日)

見よう見まねで、鉛筆で挿絵もしっかり入れて、新聞名も自分で「ぼくのは、”ライオンシンブン”にする!」と決めた。しかも、カタカナにこだわったと記憶している。
キリンでもゾウでもなく”ライオン”にしたのは、きっと、ライオンが森でいちばん強い動物だと思ってのことだったろう。

母子三人で月末になると食卓テーブルで書き始めて、月初めに出来上がると、20部くらいだっただろうか、三人の新聞をコピーして、新聞の最後に便り欄の空白を作っていて、そこにメッセージを書き入れて、封筒に宛名と住所を書いて、3つの新聞をつめこんで封をする。
そして、パリ行きのエアフランスが出発する日(週3便だったか。)に空港内にある郵便局まで行って、中央アフリカの美しい大きめのサイズの切手を買ってその場で貼り、封筒を郵便局員に手渡し、局員が航空便の袋に入れるのを見届けてから帰るのだった。


そんな思い出が詰まったこの、「マンゴーの森」。
バンギにはマンゴーの木が並ぶ道はあちこちに見かけたが、決してマンゴーの森は存在しなかった。
それでも、冊子の題をマンゴーの「森」としたのは、わたしたちのバンギでの思い出のいっぱい詰まった「思い出の森」だと思ったからだ。

「マンゴーの森」の裏表紙の絵は、息子がらくがき帳にたくさん描き残した中から選んだ。

”マンゴーの森”裏表紙 par Koithi

息子の名前、コウイチは、ローマ字綴りの”Koichi”だと、フランス語では「コワシ」と読まれてしまい、かれは工夫して、コウイチと呼ばれるために、”Koithi”(最初の「i」には、点2つ付き!)と書いていた。


マンゴーの実(内部)の色がオレンジだから、表紙もオレンジにしよう、とか。
副題として、「親子で綴るアフリカの日々」を入れたらどうか、とか。
表紙には、わたしがなにか絵を描くのはどうか、とか。
新聞の文字は、そのまま、手書きの文字の新聞を使おう、とか。

そういった細かい、そして心温かいアドバイスをくれて、二百部(だったかな?)印刷をしてくれた北九州の従兄、龍兄にはこれからもずっと、ずーっと感謝し続けたい。
素晴らしい思い出をまとめてくれて、ありがとうございました。

2014年8月10日日曜日

母と娘。L’éléphant vert~緑のゾウの絵本屋さん~の思い出。

とてつもなく、お久しぶりです。
娘のYukiです。

まだまだ暑い夏。
夏休み真っ只中ですが、
皆さま、いかがお過ごしですか?

私がフランスに嫁いで、もうじき3年が経とうとしています。
早いものです。
娘も、2歳になりました!

この度、
私の両親が、2年7ヶ月以上に及んだアフリカのコンゴ民主共和国での生活を終え、
無事に日本に帰国致しました。

このブログのサブタイトルにもあるように、
今まで、“アフリカに住む母”と“フランスに住む娘”でブログを綴ってきました。
っと言っても、皆さまご承知の通り…
ほとんどの更新は、母のhiroによるものでしたが…。
とほほ…。

私も、ご紹介したい本や絵本、それらに関する出来事は山ほどあるのです!!!
エベレスト山脈並みにっ。
ご期待くださ~い!!!笑 …笑。


母の日本への帰国に伴い、
サブタイトルも書き換えをしなければ(なんだか、なぜか、寂しいな)…
書き換える前に、ブログを更新したいな…
何を書こう…

っと、悩みましたが(あーだこーだ悩んでいる間に、母は日本に到着してしまいました…!)

この夏休みの時期になると、思い出さずにはいられない、
『夏の絵本屋』の思い出を、写真と共に綴りたいと思います。



この『夏の絵本屋』は、
L’éléphant vert(レ・レファン・ベール)緑のゾウの絵本屋さん
という名前で、
夏休みの期間限定で、母が2009年の夏から東京にオープンした絵本屋さんです。



アキンドとは、全く無縁の生活を送っていた母。

母は絵本が大好きで、私たち姉弟は沢山の絵本に囲まれて育ちました。
父の仕事の関係で、海外への引越しの際も、
夫婦喧嘩をしながらも(家庭内事情の告白!笑)母は沢山の絵本を担いで海を越えてくれました。

そんな母の夢のひとつが、
絵本屋さんを開くこと。



母の夢を知る、どちらかというとボォーっとしている母のことを良く知る、
母の友人の方々の、とてつもなく温かいご協力の下で、
2009年、2010年、2011年と3回に及ぶ夏に、母の夢が叶いました。


2009年、夏。
1回目の『夏の絵本屋』。
社会人だった私は、手伝えることは限られていましたが、
絵本の発注リスト作成や、母の友人方とお菓子作り、お店番など…お手伝いをしました。


店内の内装は、
建築士をめざす、弟の大が付く親友が手がけてくれました。

2009年の内装は、ダンボールで!
(↓写真の奥に写っているのが、将来有望建築士くん。手前は…手伝うどころか足手まとい?な弟…。)

 

絵本屋さんでは、母の大好きな絵本は勿論、
絵本に関する雑貨も販売しました。

雑貨は、さまざまなアーティストさん達の手がけた作品。

子ども用の家具
お人形
フェルトの帽子
ガラスのアクセサリー 
ゾウのペイントされた雑貨
 などなど…

私もちゃっかり、フランスの木のビーズと革を使用して作ったアクセサリーを、
店内の隅っこに置かせてもらいました。

とても親切で面白い気さくで紳士的なムッシュ(そして私の大先輩でもあるのです!)ご夫妻と、これまたかっこ良くて優しい息子さんが営む、銀座にあるお店、『北欧の匠』の
ご協力の下で、エーケルンドのタオルも揃えることができました。
可愛い柄で、良質なスウェーデンのエーケルンドのタオルは、私もお気に入りです!



さまざまなイベントも行いました。

絵本の読み聞かせ
アフリカの楽器、ムビラの演奏会
千倉書房の千倉さんによるトークイベント
ピアニストの先生と大好きなジャンヌ(フランス人で当時88歳!)と私の3人で、ぞうのババールの朗読会 
 などなど…






2年目の夏。
2010年の夏。
やはり内装は、将来有望建築士くんが。

テーマは、レゴ!



店内は、やはり、絵本やアーティストの方々による作品で楽しい空間でした。



(↑この写真の主は、父です。髭が子ども達に人気でした。笑)

ちなみに、このL’éléphant vertの絵は、宇宙人とかタコとか言われもしますが笑、
昔から象が大好きな私が、中学生の時からよく描いていた象の絵です。
授業中にノートに落書き…とか…していた…な。(娘には内緒の事実。)


2011年。
3度目の夏。

この夏は、将来有望建築士くんは多忙のため…
1度目と2度目とのギャップがありすぎでしたが、内装を私が手がけました。
ワインのコルクを使って。
(あぁ~楽しかった!思い出すだけでもワクワクします!)




この夏は、私がフランスで秋に入籍式を控えていたということもあり、
あまりお手伝いはできませんでしたが…
お手伝いの日に、時差ぼけで目覚めたら夕方だった…!とか…
本当に、毎年毎年、いつもいつも、母の心温かい友人方に甘えっぱなしでした。
ごめんなさい。
何よりも、ありがとうございます!

この夏のイベントは、

フィンランド在住の経験があり、翻訳をされたりと、日頃からフィンランドに通じていらっしゃる、上山美保子さんによる、フィンランドについてのトークイベント。
残念ながら、私はフランスにいて、トークイベントに参加できなかったのですが…。
marimekkoのワンピースがとってもお似合いの美保子さんでした!

お人形作家のナンシーさんによる、お人形作りのワークショップも大人気でした!

『夏の絵本屋』最後のイベントは、
母も私も大好きなお二方が、チェロと詩の朗読会をしてくださいました。
とっても素敵な朗読会で、思い出すと、涙が…




『夏の絵本屋』L’éléphant vert(レ・レファン・ベール)緑のゾウの絵本屋さん。
準備は決して楽ではなく、家中に絵本が山積みになり、母は家事放棄寸前(!?笑)のようになっていましたが、
母は、絵本屋さんを振り返っては、いつも、
「あぁ、楽しかった。」
と、目を輝かせて、呟いています。


本当に、楽しい思い出ばかりの詰まった絵本屋さんでした。

多くの方との出会いがあり、
多くの方の温かさに触れた、
色んな方の想いの詰まった『夏の絵本屋』でした。


次回の『夏の絵本屋』は…
いつでしょう。

また『夏の絵本屋』がやってくる夏を、楽しみにしています!
その時は、フランスから、できる限りのお手伝いをしたいな、と、
今から私も楽しみにしているのです。
フランスに嫁いでも、何歳になっても、いつまでたっても、私は絵本好きの母の娘ですから。


本当に、
沢山の方々に足を運んでいただき、
沢山の方々にお世話になり、
ご協力してくださり、
ぴったりな言葉が見つからないくらいに、感謝しています。


ありがとうございました。

これからも、
どうぞよろしくお願いいたします。


またお会いできる日を心待ちに。


Yuki




● このブログは2011年に立ち上げたため、2009年、2010年の『夏の絵本屋』の情報が不足していますが、2011年の『夏の絵本屋』に関する記事など、過去の記事を、↓をクリックしていただくと、ご覧になれます。↓
緑のゾウの絵本屋さんに関する過去の記事

● 全ての写真が手元になく…  書きもれている情報や出来事もあると思います。
もしも、もしも、何かお気づきの点がございましたら(失礼に当たることなどを書いていないといいのですが…)、どうぞご指摘ください!


2014年8月3日日曜日

スイミーと、キンシャサのンブンジ

娘が小学校2年生のときの光村図書出版の国語の教科書に「スイミー」の話が載っていた。

黒い小さな魚のスイミーは、とても賢く泳ぎも得意だった。
かれだけ黒くて、兄弟たちは赤い。
ある日、兄弟たちが大きな魚に食べられてしまい、スイミーひとりぼっちになってしまう。
ひとりぼっちのスイミーは、さまざまな海の生き物たちに出会いながらひとり旅を続ける。
そして、大きな魚におびえながら岩陰で暮らす、兄弟そっくりの赤い小さな魚たちを見つける。
スイミーは、いっしょに泳ごうと誘うのだが、小さな赤い魚たちは出てこない。
スイミーは、皆で集まって大きな魚の形になって泳ごうと発案する。
そして言うのだ。
「ぼくが目になろう!」
と。

黒い小さい賢いスイミーの発案で、大きな魚になった

版画タッチの絵がとても優しくきれいだった。
そして、大きな海の中を放浪するスイミーの旅で出会う海の生き物たちの描写もまた、うっとりするほどきれいだった。

にじいろのゼリーのようなくらげ
水中のブルドーザーみたいないせえび
ドロップみたいな岩から生えている、こんぶやわかめ
風に揺れる、ももいろのやしの木みたいないそぎんちゃく

小学校2年生だったむすめがこの話に夢中になるのが理解できた。
むすめは、フエルトの布の上にちくちくと針でたくさんの赤いビーズで魚の形に留めていき、黒いひとつのビーズで目を置いた。
そのフエルトを魚の形にカットして2枚重ねて中に綿を詰めてスイミーたちのブローチに仕立てて、わたしにプレゼントしてくれた日をなつかしく思い出す。
あのかわいいブローチ、どこに仕舞ったのだろう・・・。


オランダの作家、レオ・レオニ作・絵。
谷川俊太郎訳。
”スイミー”(好学社)


そんなスイミーの話をふつふつと思い出す小さな小鳥たちの集団の出会いを、わたしはキンシャサのゴルフ場でいつも楽しんだ。

茶色の体毛の小鳥たちですずめに似ているのだが、大きさはすずめより3、4割がた小ぶりだった。
キャディに訊くと、ンブンジMVUNZI、リンガラ語ではそう言い、フランス語の名前は知らないと言った。
朝、夕や、乾季の太陽の出ない昼間など、涼しいときに群れになって餌を求めて出てくるのだ、とも教えてくれた。

マダム、ンブンジがいるよ。
わたしがこの小さな鳥たちの集団が好きなのを知っているキャディはいつも教えてくれた。

「(ン)文治」
こんなネーミングをこっそり与えていたりして。


群れを成して行動する小さな鳥、ンブンジ

ンブンジたちがゴルフ場芝生で餌をついばむ

そんなかれらの集団で飛び交う姿を見るたびに思い出すのが「スイミー」の話だった。

小さなスイミーたちが、仲間で大きな魚の形になって大海を泳いで生活したように、ンブンジたちも大きな鳥の形になって大空を飛んでいるように思えたのだ。
本当に小さな小人のような小鳥のンブンジの姿にいつもエールを送った。
「あなたたちも小さな小鳥だけど、大きな鳥になって大空を飛んでスイミーのようにたくましく生きて行くんだよー!」

何度も何度も、プレイの合間にンブンジたちの集団で飛ぶ姿を撮ろうと試したが、いかんせん、夫のお下がりのデジカメではシャッターチャンスがずれて失敗の連続だった。
スイミーたちが大きな魚になって泳いだように、ンブンジたちも大きな鳥になって(!)大空を泳いでいた姿を紹介したかったな。


これが、キンシャサからの最後のブログになります。
キンシャサ時間の8月3日夜便で、キンシャサを発ち、イスタンブール経由で帰国します。
しばらくは、キンシャサ・こぼれ話として少しずつ更新していきたいと思っています。
それでは、キンシャサからさようなら!

2014年7月5日土曜日

絵本”ちいさいおうち”が登場する小説”小さいおうち”

先月下旬、キンシャサ商業地域の、ビルが林立する地域に建つ、このアパートに引っ越した。
太陽も星も月も見えず、緑も見えず、小鳥のさえずりも聴こえないキンシャサの大都会の中で暮らし始めた。
その心境を、絵本”ちいさいおうち”に寄せてブログに書き、そして、それをわたしのフェイスブックでシェアした。

そうしたら、日本の友人が、「飯田橋ギンレイホールで観た映画”小さいおうち”にバートン作の絵本”ちいさなおうち”がちょこっとだけど出てきたよ。」とコメントを寄せてきた。

それが日本の映画だと知り、あれ?その原作の文庫本、確かにキンシャサに持ってきてるぞ、と思い出した!
昨年10月の一時帰国中に本屋で見つけて、絵本のような題名に魅かれて、また、文庫本に掛かった帯に「映画化決定!」とあるのに魅かれて買ったのだった。

早速読んでみた。
オレンジ色の表紙。
フランス窓にたたずむ二人の女性の、ちょっとノスタルジックな雰囲気を持った絵。
この物語のどこに、どんなふうに、バートン作の絵本”ちいさいおうち”が出てきて、どのようにかかわるのだろう?
そんな思いから読み始めた。

そして、ちょっとした感動をもらった。


小説 ”小さいおうち” 中島京子著

物語は、この表紙に描かれるフランス窓を持つ赤い三角屋根の、昭和十年築の洋風の家が舞台。
表紙の女性二人(プラスに一人の男の子)の交流が中心に物語は進む。
そのうちの一人、女中のタキさんが晩年に記憶をノートに綴っていく形で物語は進んでいく。

それだけだったら、市原悦子主演のテレビドラマ”家政婦は見た”とか、松島菜々子主演のテレビドラマ”家政婦のミタ”となんら変わり映えのしない家政婦物語で終わっていただろうが、この物語には幾重にも仕掛けがあって、最後まで予断が許されない展開だった。

物語は、タキさんの手記を読んでいくという形で進み、戦中、戦後を経て、最終章で広がりを持ち、さらに、現代に繋がる思わぬ登場人物が時間差で出て、さらに違う視線から語られ始め、物語は立体感を帯びて、わたしたちの前に浮かび上がってくるのだ。

この小説の中で、バージニア・リー・バートン作の絵本”The Little House”が登場するのは、最終章だ。
この章では、二人の女性(プラス一人の男の子)の生活が描かれる本章にも登場する、美大出身の若い男性がまったく違った形で登場する。
その男性の書斎には、1942年にアメリカで出版された原書”The Little House”がかなり愛読された状態で残されていた、というくだりが出てくる。

最終章は現在の人物が登場して話が進む。
二人の女性も美大出身の男性も亡くなっている。

著名な漫画家になっていた男性が残した紙芝居形式の作品「小さいおうち」に、、バートンの”ちいさいおうち”の影響が色濃く認められる、とか、その紙芝居形式で描かれた16枚の絵には文章がない、そして、絵の中に丸囲みで描かれた登場人物3人きりの”物語”と丸の枠外で描かれる別の”物語”が交わらずに同時に進行するという二つの物語の入れ子構造の描写になっている、とかの説明があったり、フィクションとはいえ、リアルにイメージできて、ああ、この一つの紙芝居の中に二つの物語が同時進行で語られる「小さいおうち」を実際に観てみたい、と思わせる巧みな構成(これこそ、物語中に物語があって”入れ子構造”ではないか!、と感嘆してしまう。)に、どんどんとのめり込んでいった。

この小説には「家政婦」ではなく、「女中」と表現されている。
女中さんとは、住み込みで、若い女性が花嫁修業を兼ねて上流家庭に赴いて働く、立派な職業だったのかもなあ、とこの小説から思ったりもした。昭和初期から戦中までのシンプルモダンを思い浮かべる物語だ。


わたしの”ちいさいおうち”紹介のフェイスブックに、また一人の友人からコメントが入った。

小津安二郎監督の『東京物語』を思い出しました。
「そろそろ帰ろうか。」
「お父さん、もう帰りたいんじゃないですか。」
「いやぁ、おまえが帰りたいんじゃろ。東京も見たし、熱海も見たし。もう、帰るか。」
「そうですなぁ、帰りますか。」


この小説が原作となった映画もぜひ観てみたい。

2014年6月26日木曜日

大型絵本 ちいさいおうち~引越しに寄せて

大型絵本 ちいさいおうち 表紙 (岩波書店)

数日前、キンシャサの住宅地ゴンベGombe地区から、ごちゃごちゃとした商業地区のアパートに引っ越した。
緑広がり、小鳥のさえずりに和まされ、夕日の沈むコンゴ河を眺められた環境から一転し、商店が立ち並び、見渡せば、近代的ビルとはいえない、また植民地時代のものと思われるビルもごっちゃに林立する独特の雰囲気のキンシャサ大都会のど真ん中に移ってきたとき、ふっと思い浮かんだ絵本がこの「ちいさいおうち」だった。

作者は、アメリカのバージニア・リー・バートン。
かのじょは、1942年に長女のためにこの「ちいさいおうち」を描いたのだそうだ。そして、この絵本でコルデコット賞を受賞している。
日本では、1954年に岩波書店から石井桃子の訳で「岩波の子どもの本」シリーズの一巻として発行される。
その後、1965年に原書に近いサイズの大型絵本で発刊されたのだそうだ。

物語の舞台は150年ほど遡った時代のアメリカ。
表紙からも分かるように、緑豊かな自然たっぷりの小高い丘の上に、小さいけれど堅牢に建てられたこの家に、若い夫婦と子どもたちが幸せに住んでいた。
太陽は東から昇り西に沈み、月は満ちて欠け、季節は春から夏、秋、冬とめぐって月日は流れ、”ちいさいおうち”は静かにいろいろな変化を見続けてきた。
はるか遠くの街の灯りを見て、憧れや興味をもって眺めてもいた。

やがて、その街の灯りが徐々に近づいてきて、”ちいさいおうち”の建つ田舎にも開発の波が押し寄せてきて、大きな舗装道路が通り、車が走り、高い建物の建設が始まった。
月日はさらにめぐって、ちいさいおうちは誰からも忘れられたように大都会の真ん中でビルに囲まれてぽつんと残された。

ある日、そんな大都会のど真ん中に見捨てられたように建つその家の前を偶然通りかかった女性が、祖父の祖父の祖父が建てた家だったことを知り、”ちいさいおうち”をまた広い自然の中の丘に移築し、よみがえらせてくれたのだった。


・・・そんな物語だ。
また、作者のバージニア・リー・バートンがバレエダンサーだったせいか、物語の展開が実にリズミカルなのだ。
舞台の上のセッティングのように絵本のどのページにも「ちいさいおうち」を中心に置き、その周りに太陽の一日の動きや月の満ち欠けの周期を、また季節の風景の変化を描くことによって、移り変わる歳月の流れをよどみなくリズミカルに表現している。

移り変わっていく自然の中で、日々の暮らしが営まれ、また世代交代していく家族。
そんな家族を見続け、しっかりと建てられた”ちいさいおうち”は周囲の環境の変化の中で、星も見えず、夜になっても明るく騒音に満ちた都会の中で誰からも見向きもされなくなり、ただひとりぽつんと変化を受容するしか術のなかった”ちいさいおうち”の気持ちに、今さらながら思い至ってしまう。

でもよかった!
また、新しい家族が”ちいさいおうち”に命を吹き込んでくれたのだ。

この絵本の表紙に描かれる空の青さのブルー、幸せ満ちた目のように描かれた”ちいさなおうち”の窓、生命の息吹が上がっているような煙突のけむり、りんごの(と思われる)木に、にこにこお日さまの下でさえずり回る小鳥たち。
”ちいさなおうち”の幸せイコール住人たちの幸せ、なのだろうなあ。


アフリカ大陸の大都会キンシャサのど真ん中に移り住んで、緑豊かな自然から離れ、見えるのはアフリカ独特の高層ビル群だけという地域に身を置いたとき、ふっと思い浮かんだこの物語。
あらためて、”ちいさいおうち”が自然豊かな環境に移築され、家族に住んでもらえるようになってよかったなあと胸撫で下ろすのだった。



キンシャサ住宅街ゴンベ地区のアパートからの風景 緑の向こうはコンゴ河


キンシャサ大都会のアパートからの風景

2014年5月17日土曜日

 南アフリカ共和国からの写真集   ”SOUTH AFRICA”

5月の連休時に、夫婦で訪れた南アフリカ共和国のケープタウンとヨハネスブルグ。

帰りのケープタウン国際空港の本屋で一冊のきれいな写真集を見つけた。
写真家 Gerald Hoberman が著した”SOUTH AFRICA”だ。

南ア・ケープタウンで見つけた写真集 ”SOUTH AFRICA”


この写真集をひっくり返すと。

本の裏には、壁に描かれたンデべレ族の幾何学模様の写真が全面に

これは、南アフリカ共和国北東部のトランスバール地方に居住するンデベレ(Ndebele)族が家壁や塀に描く、鮮やかな色彩を黒ラインで引き締めた独特の幾何学模様だ。


外国の写真集といえば、大型本をイメージするが、この本は、横長で縦13.5cm、横18cmの本で、絵葉書の大サイズだと思えばいいかもしれない。
気軽に手にとってぱらぱらとめくれるサイズがまた嬉しい。


本を開いてすぐ、南アの地図が載っているのを見つける。
そして、その右ページに著者のメッセージ「はじめに」が載せられている。
メッセージ中にかれが旅して訪れた南アの多くの町の名が出てくるのだが、並んで載る南アの地図をなぞりながら読むのもまた興味深い。


南アフリカ共和国地図 ”South Africa”より

そのメッセージを読むと、ああ、この人は南アフリカ共和国をこよなく愛しているのだなあ、ということが伝わってくる。
それもそのはず、著者Gerald Hobermanさんは1943年にケープタウンで生まれている。
1960年後半、写真家になるべくロンドンに渡り、後にスタジオとラボを開設。しかし、家族経営の石炭配達業に加わるために1973年に南アに戻り、1996年に会社を売却するまで会社経営に携わる。

かれはまた、写真家としてだけでなく,出版業、作家業でも世界的な名声を得ているのだそうだ。

1981年に、かれにとって初めての著作となる”The art of Coins and their Photography”という貨幣の写真集を出版し、評判となったようだ。
1994年からは、スタジオを出て、息子のMarcと共に、野生動物の撮影のために世界中の旅を開始する。
かれは実に多くの国の写真集を出版しているが、その中でもケープタウンや南ア国内の写真集をいくつも著しているのに気づく。そこに、かれの祖国,南アを愛する心を感じるのだ。


この本を開くとすぐに目に飛び込むのが、”SOUTH AFRICA  by GERALD HOBERMAN”~ゲラルド・ホバーマンによる南アフリカ~という、この写真集についての解説文だ。

「著者Gerald Horbermanのレンズを通して見る南アは、時代の大きな流れを越えて、不思議で陰謀が渦巻き、なのに光り輝く色彩を放つ場所だ。
畏敬の念と共に,かれはムプマランガMpumalangaの”God's Window”と言われる急斜面に現れる日の出の美しさ、ケープタウンのブドウ畑の秋の色に染まる美しさ、天を突くドラケンズベルグ山脈の美しさを切り取り続けている。ンデベレ(Ndebele)族の家壁、バストー(Basotho)族の室内、フクロウハウスと呼ばれ、たくさんの鏡で神秘的な光の踊る芸術家の部屋~そんな鮮烈な色彩をかれの写真はとらえている。

かれのイメージする祖国は、また、人々が街角でとうもろこしを売り歩く、そして、南ア独特の食料雑貨店で日用品を買う、そしてまた、黒人居住地区で通行人に屋台で香ばしく焼かれた肉を売るといった光景が繰り広げられる場所なのかもしれない。

かれは、興奮と変化の時の流れの中で、祖国の美しさとそこに生きる人々を表現してきた。しかし、かれは変化しないものを見つめ続けてもいる。古い場所、昔からの習慣といった、時間に支配されないように見えるものたちを、だ。
かれの写真たちはかれが愛する祖国、そしてアフリカの突端に位置する祖国をいとおしんで生きてきた人々への贈り物だ。

この本は,ネルソン・マンデラ元大統領の釈放直後に撮られたロッベン(Robben)島の写真のように、60年代後半から70年代前半にかけてのBo-kaapとDistrict Sixから取られた歴史的な価値のある写真も含まれている。」


ケープタウンのブドウ畑 ”South Africa”より

サミーおじさんの雑貨屋 ”South Africa”より

バストー族(Basotho)の家 ”South Africa”より


著者の故郷ケープタウンはまた、アパルトヘイト撤廃のために闘ったネルソン・マンデラ元大統領の故郷でもある。マンデラさんは名門ケープタウン大学で学んだと聞く。
そしてまたマンデラさんが28年も捕らえられていたロッベン島はケープタウンの沖合いにある小島だ。
今回訪れて実感したのは、ケープタウンの町の美しさだ。
テーブルマウンテン、喜望峰を含む国立公園で豊かな自然を保護し、ブドウ畑が広がり、港湾の設備も整った美しい都市だった。
著者はこの写真集で、まずそんなケープタウンの町を色んな写真に切り取って、わたしたちに見せてくれる。


ケープタウン全景 ”South Africa”より


ケープタウンにそびえるテーブル・マウンテン頂上 ”South Africa”より


さらに、南アフリカ共和国の国民の民族の多様性にも驚く。
原住民の黒人も、オランダなどヨーロッパから移住してきた白人も、またその混血の、一見すると太平洋地域からの民族かと見まがう有色人も、共に南ア国民として共存している。
そこに、この国の持つ裏と表があり、オリジナル性も、そして困難さも見え隠れする。


ポート・エリザベスの街並み ”South Africa”より


豊かな動物相、植物相を持つ南アフリカ共和国  ”South Africa”より

著者は「はじめに」のところで、
「偉大な美しさを持ったこの地は、素晴らしい景色,多様性のある文化に富んでいて、動物相,植物相のバラエティ豊かさはほぼ間違いなく比類のないものだと言える。」
と祖国の持つ色んな角度からの美しさ、魅力を紹介している。

そして、
「この本で、我が祖国の美しさを紹介できて、そこに暮らす人々や不思議な魅力を見せる街の魅力を伝えられて、この南端の地を訪れてくれた方たちにすばらしいメモリーをプレゼントすることができたらと思う。」

「わたしが撮ってきた祖国の写真たちの中でもお気に入りのものを選りすぐってこの本を編んでみた。そんな写真たちをみなさんと分かちえることを楽しみにしている。

  Joy shared is joy doubled.   Gerald Hoberman」 

シェアするよろこびは、よろこびを倍にする。

ゲラルドさんの生きる姿勢を表したような言葉だ。


ぶどう収穫を喜ぶ人々 ”South Africa”より


白人として南アに生まれ育ち,祖国として南アを愛し、南アの魅力ある自然や文化や街や人々を写真に表し、さらに世界に飛び出してシャッターを切り続け、多くの著作や写真集を送り出してきたGerald Hobaermanさんは、闘病生活の末、かれの故郷ケープタウンで昨年12月21日に亡くなっている。

ケープタウンの空港の本屋で平積みされていたかれの写真集。
布張りの表紙の写真の美しさとサイズに惹かれて手に取った写真集。

旅先での写真集の出会いも、うれしい。