2012年8月14日火曜日

木槿(むくげ)の咲く庭~隣国を想う

ロンドンオリンピック、男子サッカー3位決定戦、日本ー韓国戦が終了し、韓国の銅メダル獲得が決定した時、韓国の一選手が、「独島は我々の領土」という予め準備されていたメッセージを掲げて、フィールド上を走っている映像を観た。

韓国の人たちの愛国心の強さを改めて強く感じ、日本への強い敵対心にやっぱり・・と悲しく思った。

そしてまた、韓国の選手のように「竹島は我々日本の領土」とメッセージを掲げて主張する日本の若者がいるだろうか、という思いも過ぎった。



26、7年も前のことだが、ネパールの首都カトマンズにいたときの話だ。
隣人は韓国の家族だった。

隣、といっても、塀に囲われていて、塀伝いに路地をぐるっと回って隣家の門に行かなければならなかった。
その路地を2歳にならない娘と散歩していて、よく隣家の二人の兄弟に出会っていた。
6歳と4歳くらいの兄弟で、チュンニイくんとチュンスウくんと言った。
娘は、その兄弟たちに出会うと嬉しそうに後を追って、兄弟たちも娘の手を引いて遊んでくれた。
ある時、お兄ちゃんのほうが、「ネパール人か?」と訪ねてきた。
「 Japanese だよ。」
そう言ったとたん、表情が激変した。
ジャパニ、ジャパニ、と叫んで、遊んでもらおうと追う娘を突いて押し倒したり、娘の首を絞めたり、私が娘をかばって引き返していたら小石を投げられたり、年端のいかない子どもたちにすら日本人を憎む心が存在するのか、と愕然としたことがあった。

それから、兄弟たちは路地に現れなくなった。
何日か経って、娘は彼らを慕って路地に出て彼らを求めて隣家の門をくぐり、庭に入っていった。その時、初めて彼らのお母さんに会った。
わたしは、日本人だと知って態度が変わった兄弟たちの親に会うのが怖かった。きっと彼らの両親も日本人を嫌っているのだろうと思った。
母親はとても礼儀正しい優しい女性だった。
そして、その後出会った父親も紳士的な方だった。
その後、彼らとはとても良い交流を持つことができた。

あのときの幼い兄弟は、今では30歳を過ぎたくらいだと思う。
あのサッカー選手とそんなに歳は違わないはずだ。



一昨年の夏の絵本屋で、「木槿の咲く庭」(新潮社)という本を置いた。


木槿の咲く庭~スンティとテヨルの物語 表紙

 槿(むくげ)は、韓国の国花だそうだ。
この「木槿の咲く庭」は、朝鮮が日本の統治下に置かれていた時代、1940年の創氏改名の時から終戦、開放までの約6年間のことを、テグに住む金(キム)一家の兄弟、10代のスンヒィとテヨルの目線で交互に記される日記形式で進む物語だ。
作者は、リンダ・スー・パーク。1960年生まれの韓国系アメリカ人2世の女性だ。
彼女が両親から聞いた話や体験を元に生み出された物語で、原書は英語で書かれている。

とても重い題材でありながら、一貫して物語には軽やかな風すら感じられる。
子どもの目線で描かれているということと、朝鮮民族として誇りを持って生きようと諭す両親の存在があったからかもしれない。或いは、韓国系アメリカ人2世の作者が一時代置いたクッションの役目を果たしたのかもしれない。

原題は、上の表紙写真左下に青字で書かれている。

"When my name was Keoko   a novel of Korea in World War Ⅱ"
~わたしの名前が清子だったころ  第二次世界大戦中の朝鮮の物語

作者は2作目のこの著書で、2003年度  国連ジェーン・アダムス賞(児童書の平和賞)を受賞している。

厳しい直接的な日本批判の表現は感じないまでも、日本軍の理不尽な要求、態度には目を耳を覆いたくなる。
でも、今に生きる日本人として、日本人が当時、朝鮮半島で行ってきたことを知らなければならないと思う。わたしたちは学校で習わなかったことを、誰からも教えられなかったことを「物語」を通して見なければならないと思う。
「良質の物語」を選んで読みたいし、子どもたちにも読ませたい。

そして、中立の歴史を知って、広い視野を持って、しっかり土台を作って、自分の国を大切にする心を育んでほしい。
もし、間違った史実を主張する人がいたら堂々と訂正できる人、自身の意見をしっかり伝えられる人になりたい。
偏った愛国心ではなく、素直な愛国心は隣国の人たちの愛国心も尊重できるのだと思う。


明日、8月15日は日本では終戦記念日。
隣国では、日本の植民地支配から解放された日として国民の祝日だと聞く。
光を取り戻した日、国権を回復した日、という意味で、”光復節”というのだそうだ。
辛い話だ。


紙は燃やせても、言葉は焼けない。
言葉は封じられても、思いは消せない。
思いを消すために、人を殺すというのか。 (「木槿の咲く庭」より)


お互いを思う気持ちを持てたらなあ。

2012年8月9日木曜日

かさどろぼう

葉っぱの傘 (知人のfacebookから引用)

知人のfacebookで、こんな詩的な写真を見つけた。
タイで撮影されたようだが、出所はよくわからない。

わたしは、なんとも自然な感じで葉っぱの傘を差して歩く男性の、この写真のとりこになってしまった。

この写真からすぐに連想されたのが、絵本「かさどろぼう」(徳間書店)だ。
スリランカのシビル・ウェッタシンハさんの作・絵で、薄緑色のポップな絵の表紙から惹きつけられる絵本だ。
裏表紙の一筆書きのような絵も楽しい。
イギリスの作家・サトクリフの物語の翻訳を手がける猪熊葉子さんの訳も魅力だ。

以前は福武書店から出ていたが、しばらく絶版状態になっていた。そして、徳間書店から復刊され心底ほっとした。


絵本 ”かさどろぼう”の表紙

手元にかさどろぼうの絵本がないから、確かではないが、物語の最初に、葉っぱの傘を差して往来する村の人たちの絵があったように記憶している。まさにこの写真のような人が見開き2ページにいっぱい!という場面だった。(わたしの夢の中の映像かな??だったらお許しください。)

キリママおじさんは、町の人たちが差している傘を見て、村に1本買って帰るのだが、帰り着いて店でコーヒー(セイロン紅茶ではないのね!)を飲んでいる間に傘を誰かに盗まれてしまう。何度買って帰っても、コーヒーを飲んでいる間に傘は無くなってしまう。
盗んでいく者は誰だ?
キリママおじさんは夕焼けの森(モノクロの森にあかね色の夕陽が射すこのページがまたきれい!)に入り込み、とうとうみつけたかさどろぼうの正体は・・・。

森の中の木の枝から枝へ張った蔓植物にカラフルな傘が何十本も掛けられ、一本だけ開いて掛けられた傘にちょこんと座って満足気にニコーっと微笑む森の住人ーアジアだから、おそらくオランウータンの子どもーが描かれたページには思わずこちらもニコーっと微笑み返してしまう。

大らかなキリママおじさんは一本だけ、オランウータンの子どもに傘を残してあげる。
そして、おじさんは村で傘屋を開く。
まったくこの話は、”ぶっそう”なところがかけらもないのだ。

この物語も我が家の子どもたちのお気に入りだった。

力強い筆さばきと、緻密な筆遣いとが同居するシビルさんの絵は独特だ。
キリママおじさんの顔に、日本の奴凧の顔が重なる。

夏の絵本屋では、ガラス作家の廣田理子(ひろたあやこ)さんにお願いして、キリママおじさんのカラフルな傘たちをガラスでイメージしてもらい、ペンダントヘッドやピアスに仕立ててもらった。それらの作品がさらに「かさどろぼう」の世界に連れて行ってくれたように思う。

キンシャサで傘屋さんを見かけたことはない。
今は乾季だから雨は本当に一滴も降らないから、傘の「カ」の字も見かけないし、一年のうちそんな季節が半分もあるのでは商売上がったりだろう。
雨季が始まると、路上に傘売りの人が現れるけれど。

外見を重視する(?)キンシャサの人たちには、素朴な葉っぱの傘なんて考えられない、かな、多分。

2012年8月8日水曜日

タイからのゾウさん


タイ土産のチョコレートの箱
キンシャサの大学で日本語教師をしている慶応大学の学生のボー くんが、夏休みを利用してタイに行ってきた。
お土産です、と言って我が家に持ってきてくれたのが、(上の写真の)箱蓋にゾウの絵が描かれたアーモンドナッツ入りミルクチョコレートだった。
足には”足輪”が、牙にも”牙輪(!)”がはめられて、背中には、タイシルクと思われる布が掛けられている。おしゃれな母娘ゾウかな。タイ王国らしいゾウさんたちだ。

夏の絵本屋さんの名前がゾウだったなと思って選びました、とボーくん。
とっても嬉しかった。

そして、開けてみて感動の極みに!!
15頭ものチビゾウのチョコレートがズラリ~!!、と並んで入っていたのだ。


開けてびっくりタマテバコ~♪

どうしても食べたくなって一個、パクリ!
そうしたら、夫からもパクリ!と食べられてしまった。(あーもったいない・・)


ところで、アジアゾウとアフリカゾウの違いは??

アフリカゾウの耳に比べて、アジアゾウの耳のほうが小さいのだそうだ。
ディズニーの物語「ダンボ」は耳が大きすぎて、仲間たちにいじめられる話だったが、アフリカゾウの耳も大きいのだ。
フランスの絵本、「ぞうのババール」のババールたちも耳が大きい。
アフリカのサバンナに住むゾウたちだ。
娘の描くゾウさんマークも耳が大きいはず。
(と思ったら、フレアー耳になっていた。でもまあ、大きい耳だということにしよう。)

ゾウさんを主人公にした絵本には、「ぞうのババール」(評論社)のシリーズと、「ぐるんぱのようちえん」(福音館)があるなあとか、絵本のことに考えが移っていく。


中央アフリカにいるとき、南西部のコンゴ共和国国境近くのジャングルまで5日間の行程で象を見に行ったことがあった。
バヤンガ、という地域だった。
ジャングルに大きな塩沼地帯が広がっていて、そこへ塩を求めて200頭もの象が集まってきていた。
その沼地に出るまで、徒歩でジャングルをくぐり抜け、小川を渡った。その小川を渡るために出発前に工事用長靴を買って行ったのだが、前日の雨で増水した小川には長靴は”無用の長(!)物”だった。わたしは運転手のジャックおじさんに、娘は夫に、息子は冨永さん(現コンゴ民大使)におんぶされて渡った。
そして、遂にジャングルに広がる沼地にたくさんの象が群らがる光景が目に飛び込んできた時には大感動だった。
子どもたちは覚えているだろうか。

沼地入り口に高さ10mくらいの木製のやぐらが組まれていて、上ってみると、アメリカ人女性がひとりでノートと双眼鏡を手に、象の観察をしていた。
よくもまあ、こんなジャングルの真ん中に独りで棲み付いて象の生態観察を続ける若い女性がいるものだ、と驚いた。
彼女の夫はゴリラの研究者で、国境を越えたコンゴ共和国のジャングルに入ってこれまた独りでゴリラの生態観察を続けていると言っていた。
1993年のことだ。
彼ら夫婦は無線で連絡を取り合っていると言っていた。
中アとコンゴ共和国国境にはジャングルが立ちはだかり往来不可能らしく、二人が出会うにはそれぞれが首都に出て飛行機に乗ってパリ経由だかカメルーン経由でどちらかに行くしかないのだと聞いて、開いた口がふさがらなかった。
そんなにも二人が肩入れする象とゴリラの魅力、っていったい何なのだ??不思議でならなかった。

外見からしてアメリカ人らしい彼女は、象観察やぐらから200mくらいのところに小屋を建てて住み着いていた。独りで、夜は真っ暗なジャングルで、時には象が踏み込んで(多分、大蛇も?!)来るという環境の中で、日がな一日象の観察を続けているのだ。
夫との交信に使う無線機のある小屋も案内してくれた。敷地内には彼女が自身でパンを焼くという大きな石窯が作られていた。自給自足のサバイバル生活だった。
あれから、20年近く。
彼女たち夫婦は、今、どこでどんな活躍をしているのだろう。


ゾウさん型のチョコを頬張りながら、またもやあれこれと思いをめぐらすキンシャサの夜。


人形作家のナンシーさんが作ってプレゼントしてくれた、”みどりのゾウさん”。
東京の自宅に残してきたけど、元気でいるかなあ~。

またいつかの夏に、みどりのゾウさんと共にたくさんのお客さまをお迎えして絵本談議に花を咲かせる日が来ることを、遠く日本を思って楽しく空想している。

2012年8月2日木曜日

赤い目のドラゴン

キノボリトカゲ

これは、キノボリトカゲというのだそうだ。国語辞典によると、琉球諸島に生息するトカゲだそうだ。
わたしのいるコンゴ・キンシャサでもこんなトカゲにあちこちで出会う。

そんな時、決まって思い出すのが、絵本「赤い目のドラゴン」(リンドグレーン作・岩波書店)だ。
1人の女性が(わたしはもちろんリンドグレーンさんを重ねる。)幼い頃の思い出を静かに語る、という形で進む物語だ。

ある日、弟とふたりで豚舎で赤い目をした子どもドラゴンに出会う。このドラゴンは変なものを食べ、いたずらをしたり、すねたりして、「わたしたち」に可愛がられて暮らすのだが、いつものように一日が終わり、温かいベッドが待っている幸せを思う夕暮れ時に、「わたしたち」のドラゴンが涙を流してさよならをし、きれいな夕焼け空の中に飛んで行ってしまう。

「12月2日の夕方のことでした。」
透き通った北欧の夕暮れの冷たい空気の中にいるような感じがしてくる。
スウェーデンの田舎の夕焼けに染まった景色が大きく描かれ、夕陽に向かって飛んでいくドラゴンを見つめる姉弟の、突然の別れの悲しみを共に感じてしまう。

娘が幼稚園に通園していた時、「この絵本を先生が読んでくれてとっても良かったからお家に持って帰ってお母さんと弟と読みたいと思って借りてきたの」、と持って帰ってきたのがこの絵本との出会いだった。
母子で読んでいって見開き2ページの夕焼けの光景の場面を開いた瞬間、わたしは子どもたちの前で大泣きしてしまった。
ドラゴンとの別れの悲しみを夕焼けの光景がとてもよく表していた。
そしてわたしが小さいとき、家族一緒に夕焼けを見ながらよく散歩した思い出が蘇ってきたのだ。
夕焼けの美しさには、どことなく別れの悲しみを感じてしまう。


絵本 ”赤い目のドラゴン”表紙

1995年、この絵本を持って、家族でスウェーデンを旅したことがあった。
ストックホルムのホテルのフロントで、リンドグレーンさんの描く田舎町に行きたいことを話すと、フロント係の若い二人の女性は、リンドグレーンさんの本の大ファンだという日本の母子を大歓迎してくれた。そのときはリンドグレーンさんは高齢ながらも存命だった。
「彼女はわたしたちの誇り!現在も子ども病院を作ったり、教育に関するご意見番でもあるのよ。」 
”わたしたちの大切なおばあちゃん”といった面持ちで誇らしげに話してくれた。

リンドグレーンさんの出身地は遠いから滞在期間にゆとりがあって車がないと無理だから残念だけど今回の旅では無理だわねえ、と言うことで、ストックホルムから列車で1時間のところにある、”ウップサーラ”の町を推薦してくれた。
その町について何の知識もなく、とにかく訪れてみたのだが、ウップサーラ大学と民族資料館と、普通の住宅街の広がるきれいな町だった。
訪れてみて、フロント係のお姉さんたちが勤務中にもかかわらず、あそこでもない、ここでもない、と地図を広げて、リンドグレーンさんの描く雰囲気に似た町を、わたしたちの旅日程に合わせて選んでくれた、彼女たちの「意図」がとてもよく感じられる町だった。


キンシャサで出会うトカゲくんたちは、そんなことも思い出させてくれる。


「わたしは、そのばん、本をよみませんでした。おふとんをすっぽりかぶって、あかい目をしたみどりいろのわたしたちのドラゴンのことをかんがえてなきました。」
わたしにもそんな晩が幼いときにあったなあ・・となんとなく思い出す静かなフレーズだ。

ずっと、きっと、子どものころの心を持ち続けて物語を織っていったリンドグレーンさん。
アフリカに住んでいると、リンドグレーンさんは、北欧の短い夏しか知らない子どもたちに、南国の太陽の下で生きる動物を物語の中でプレゼントしたかったのかもなあ、と思ってしまう。

わたしの大好きな大切な絵本だ。