韓国の人たちの愛国心の強さを改めて強く感じ、日本への強い敵対心にやっぱり・・と悲しく思った。
そしてまた、韓国の選手のように「竹島は我々日本の領土」とメッセージを掲げて主張する日本の若者がいるだろうか、という思いも過ぎった。
26、7年も前のことだが、ネパールの首都カトマンズにいたときの話だ。
隣人は韓国の家族だった。
隣、といっても、塀に囲われていて、塀伝いに路地をぐるっと回って隣家の門に行かなければならなかった。
その路地を2歳にならない娘と散歩していて、よく隣家の二人の兄弟に出会っていた。
6歳と4歳くらいの兄弟で、チュンニイくんとチュンスウくんと言った。
娘は、その兄弟たちに出会うと嬉しそうに後を追って、兄弟たちも娘の手を引いて遊んでくれた。
ある時、お兄ちゃんのほうが、「ネパール人か?」と訪ねてきた。
「 Japanese だよ。」
そう言ったとたん、表情が激変した。
ジャパニ、ジャパニ、と叫んで、遊んでもらおうと追う娘を突いて押し倒したり、娘の首を絞めたり、私が娘をかばって引き返していたら小石を投げられたり、年端のいかない子どもたちにすら日本人を憎む心が存在するのか、と愕然としたことがあった。
それから、兄弟たちは路地に現れなくなった。
何日か経って、娘は彼らを慕って路地に出て彼らを求めて隣家の門をくぐり、庭に入っていった。その時、初めて彼らのお母さんに会った。
わたしは、日本人だと知って態度が変わった兄弟たちの親に会うのが怖かった。きっと彼らの両親も日本人を嫌っているのだろうと思った。
母親はとても礼儀正しい優しい女性だった。
そして、その後出会った父親も紳士的な方だった。
その後、彼らとはとても良い交流を持つことができた。
あのときの幼い兄弟は、今では30歳を過ぎたくらいだと思う。
あのサッカー選手とそんなに歳は違わないはずだ。
一昨年の夏の絵本屋で、「木槿の咲く庭」(新潮社)という本を置いた。
木槿の咲く庭~スンティとテヨルの物語 表紙 |
この「木槿の咲く庭」は、朝鮮が日本の統治下に置かれていた時代、1940年の創氏改名の時から終戦、開放までの約6年間のことを、テグに住む金(キム)一家の兄弟、10代のスンヒィとテヨルの目線で交互に記される日記形式で進む物語だ。
作者は、リンダ・スー・パーク。1960年生まれの韓国系アメリカ人2世の女性だ。
彼女が両親から聞いた話や体験を元に生み出された物語で、原書は英語で書かれている。
とても重い題材でありながら、一貫して物語には軽やかな風すら感じられる。
子どもの目線で描かれているということと、朝鮮民族として誇りを持って生きようと諭す両親の存在があったからかもしれない。或いは、韓国系アメリカ人2世の作者が一時代置いたクッションの役目を果たしたのかもしれない。
原題は、上の表紙写真左下に青字で書かれている。
"When my name was Keoko a novel of Korea in World War Ⅱ"
~わたしの名前が清子だったころ 第二次世界大戦中の朝鮮の物語
作者は2作目のこの著書で、2003年度 国連ジェーン・アダムス賞(児童書の平和賞)を受賞している。
厳しい直接的な日本批判の表現は感じないまでも、日本軍の理不尽な要求、態度には目を耳を覆いたくなる。
でも、今に生きる日本人として、日本人が当時、朝鮮半島で行ってきたことを知らなければならないと思う。わたしたちは学校で習わなかったことを、誰からも教えられなかったことを「物語」を通して見なければならないと思う。
「良質の物語」を選んで読みたいし、子どもたちにも読ませたい。
そして、中立の歴史を知って、広い視野を持って、しっかり土台を作って、自分の国を大切にする心を育んでほしい。
もし、間違った史実を主張する人がいたら堂々と訂正できる人、自身の意見をしっかり伝えられる人になりたい。
偏った愛国心ではなく、素直な愛国心は隣国の人たちの愛国心も尊重できるのだと思う。
明日、8月15日は日本では終戦記念日。
隣国では、日本の植民地支配から解放された日として国民の祝日だと聞く。
光を取り戻した日、国権を回復した日、という意味で、”光復節”というのだそうだ。
辛い話だ。
紙は燃やせても、言葉は焼けない。
言葉は封じられても、思いは消せない。
思いを消すために、人を殺すというのか。 (「木槿の咲く庭」より)
お互いを思う気持ちを持てたらなあ。