”みつわちょうに いきたいな”
南フランスの娘の本箱で、こんな題名の絵本を見つけ、娘宅に滞在中に何度も見入ったのだった。
絵本 みつわちょうに いきたいな 表紙 |
「みつわちょう」とは、埼玉県蕨市南町の旧町名、三和町のことだ。
戦後まで、”三和町”と言っていたが、戦後しばらくしての区画整理などで現町名、”南町”になったのだと聞く。
その蕨市南町に、わたしたち家族は、娘が幼稚園年長のときから、中央アフリカで暮らした3年間を挟んで、足掛け約15年間、お世話になった。
娘が蕨市立南小学校に入学したときの担任の先生が、杉山容子先生だった。
容子先生とは、いろんな縁で繋がり続け、娘の住む南フランスまで三回、訪ねてくださっている。
たくさんのプレゼントを持って。
その先生からのプレゼントのひとつが、絵本「みつわちょうに いきたいな」だったのだそうだ。
容子先生は、現在また約20年ぶりで南小学校に戻られて教鞭を取られている。
南町を歩くと、町がきれいに碁盤の目に区割りされていることに気づく。
二世帯住宅に建て替えられたりしているところもあれば、古い戸建てのまま時間が止ったような風情のところもある。
個人住宅が並ぶ中に緑が多く見え、公園がまた多いことから、とても温かみのある雰囲気を感じる南町だ。
さくら公園、椎の木公園、すずかけ公園、いちょう公園、・・・と公園には樹木の名前が付けられている。もちろん、公園に多く植えられる樹木からの命名だと聞く。
確か、いちょう公園だったか。そこには、大きなくじらの遊具が据え付けられていた。
だから、娘たちは”くじら公園”と言っていた。
その公園近くの桜並木沿いに、娘たちの通うプロテスタントの幼稚園、”天使園”があった。
そこの園長先生をはじめとする先生方は、個々人を尊重していろんな経験をさせてくれた。
そんな園の姿勢が大好きだったなあ。
そして、椎の木公園には、枝が二股に分かれている椎の木の大木があって、”長靴下のピッピ”に憧れていた娘は、小さなバッグにおやつを詰め込んで小さな座布団を持って、その大木に登り、すわり心地の良い場所に座布団を置いて、おやつを食べることを楽しみにしていた。
娘の「指定席」は大人の男性の背丈くらいはあったはずだ。
三和町は、戦前、国の住宅公団がモデル地区として区画し建設した最初の戸建て住宅だったのだそうだ。あるまとまり毎に空き地があり、戦時中は共同の畑となり、戦後は子どもたちの遊び場になり、そして公園として整備されていったのだそうだ。
絵本の裏表紙に使われる当時の住宅計画図 |
三和町はもともと湿地帯だったらしく、戦前の幻の東京オリンピックとなった時に整備された、隣市にある戸田のボートコースで掘り起こされた土がトロッコ(当時は土運搬のトロッコ用の鉄道が走っていたのだそうだ。)で三和町まで運び込まれて町が作られていったのだと絵本の最後に付記された町の歴史で知った。
また、町を流れていた用水路の両岸に桜の木が植えられ、戦後はその用水路の上を覆って、桜並木になった。毎年4月初めの桜の満開の時には、さくら祭りが開かれて、花見客で夜遅くまで賑わう。
そんな長閑な緑豊かな南町の歴史を子どもたちにも伝え残し、郷土に愛情を持ち続けて欲しいということから編まれたものが、”みつわちょうに いきたいな”、の絵本なのだなと思った。
表紙に描かれる女の子が、地元の三和稲荷神社で出会った不思議な男の子と一緒に、昔の三和町に入り込むというスタイルでストーリーは展開する。
ページいっぱいに、戦前、戦中,戦後の三和町の住民の人々の日常生活が描かれて、細かいところまで楽しめる。
「向こう三軒両隣」と言った死語になりかけた言葉がふと頭によぎってくる。
戦後、住宅は個々住民に払い下げられ、皆が工面して個人の持ち住宅にしていったのだそうだ。
この絵本は、三和町の変遷が深い愛情を持って本当によく描かれていて、子どもたちも興味津々でページをめくれるなと思う。
この絵本で我が町の歴史を知ると、きっと祖父母、曽祖父、曾祖母の代から住むこの町に愛着を持つことだろう。
絵本の最後のページ 現在の蕨市南町の様子 |
この絵本の最後に、多くの当時の写真と共に、歴史の詳細を記したページも添えられている。
老若男女が愛し続ける三和町,南町で子育て時期を暮らせたことを、わたしたち親子も誇りに思う。
絵本を編む計画を立てて完成させた、”三和町を語り継ぐ会”の存在をうらやましいとも感じる一冊だ。