2013年9月9日月曜日

キンシャサのプランターと、絵本「リネアの小さな庭」の思い出

キンシャサの茄子は灰汁(あく)が強くて美味しくない、とfacebookに愚痴をこぼしたら、それでは日本の茄子を種から植えて自分で育てるしかないよ、と日暮里で動物病院を開院し、本格的な家庭菜園、そして養蜂までしている獣医さんが茄子の種を吟味してはるばるキンシャサまで郵送してくれた.
それが6月中旬だった。
そして半月かかって我が家にかれからの茄子の種が届き、7月に入って庭のプランターに種まきをした。

キンシャサはちょうど乾季の真っ只中で気温が上がらず、しかも南向きのベランダにはお日さまが当たらない時季だった。
(南緯4度のキンシャサは3月下旬の春分の日頃から夏至を過ぎて秋分の頃まで太陽は北側の空を通過するのだ。)

念のために、我が家の家政婦の庭にある家庭菜園にも茄子の種を植えてもらうように頼んだのだった。
彼女は実際、よく家庭菜園で収穫したというチンゲン菜やかき菜のような野菜を運んでくる。
肥料も体に良いものだけを使用しているということだ。


ベランダの左のプランターに茄子の種を植えた7月

我が家のプランターの土にはタバコの葉が混ぜられたものが入れられた。
防虫に聞くといわれる土を夫が買ってきたのだった。
タバコの葉にはニコチンが含まれているのに、食用野菜の栽培に大丈夫なのか心配になり、種の送り主の獣医さんに尋ねたら、OKサインを貰えて安堵したのだった。

ところが、待てども待てども芽は出てこなかった。
家政婦のところの菜園でも、期待に反して茄子は発芽しなかった。

夫は、乾季の間は気温が22、3度まで下がるから茄子の発芽条件は満たされないのではないかと言った。
コンゴ南部の農業地域出身の家政婦は、土がいけない、水はけがよくないのだ、と言った。
でも、家政婦のところの菜園でもとうとう発芽しないまま7月も8月も終わったのだった。

8月末にキンシャサは3ヶ月ちょっとぶりにしっかりした降雨量を持った。
コンゴの人たちはいよいよ雨季に入るぞと言いまわった。
確かに気温も上昇してきた。

そして夫が新しい土を買ってきて、いよいよ茄子の発芽の条件がととのっだぞと言って、心機一転もう一度、茄子の種を植えたのだった。
9月6日のことだ。


9月6日;土を入れ替えて再度、茄子の種を植える

ただいま、午後3時、気温26℃。
今度こそ、茄子の種が発芽しますように。


毎朝、毎夕土の表面が乾かないように水をやっていて、一冊の本についての懐かしい思い出が蘇ってきた。

「リネアの小さな庭」というスウェーデンからの家庭菜園の入門書のようだ絵本だ。

中央アフリカ共和国のバンギに暮らしていた頃、小学校高学年だった娘の愛読書の一冊が、この本だった。



絵本 リネアの小さな庭


”リネアの庭”とは植木鉢や空き缶や空き箱を利用したものを指し、そんな身近なところで植物を育てられるというところに娘は魅力を感じたように思う。

娘は、とくにリネアの果物を育てるページが好きだった。
アフリカには特別、熱帯地方の果物が豊富にあったことも影響しているだろう。

アボカドに目がなかった娘は、リネアが懇切丁寧にアドバイスするアボカド栽培に挑戦したのだった。

アボカドを毎日食べ続け、娘は選りすぐりのアボカドの種を乾かした。
そして、ベランダの発泡スチロールの植木鉢の土に種を置き、いとおしむように土の毛布をアボカドの種の上にそーっと掛けたのだった。

来る日も来る日も、娘はプランターの中と、リネアの本を見続けた。

そして、とうとう発芽。
ぐんぐん芽が伸び、茎に葉っぱもついた。
ところが、リネアのアドバイスは、確か、せっかく伸びた茎を葉っぱごと何十cmか残して切るように、というものだった。
娘は悩みに悩んで、リネアのアドバイスに従った。
本当に切ってよかったのだろうかと少々後悔するような表情が見えたが、娘は大好きなリネアを信じることにしたようだった。

そしてその後も順調に成長していったが、ある日クリスマス休暇のときに、中央アフリカ共和国の北、スーダン国境近くにある川に何百頭もの野生のかばを見に行くことになった。
おりしも、中央アフリカは乾季だった。
道なき道を四輪駆動ジープで進み、サバンナに野宿し、川にごろごろごろーっと平和に昼寝する野生のかばと対面して近くのロッジに1,2泊。それからまた、サバンナに野宿して道なき道をひたすら我が家に戻ってきたのだった。
1週間ほどの旅だった。

帰宅して娘が見た光景は・・・。
プランターの土の上に一本、葉が取れてスックと立つ枯れた茎だったのだった。


それ以来、むすめは二度とアボカドの種を植えようとはしなかった。
それでも、娘にとってリネアのこの本は愛読書の一冊であり続けた。

フランスに嫁いで、わたしは、きっと娘は二冊の本だけは絶対持って行っている、と確信している。
一冊は、このリネアの本。
もう一冊は・・・。
いつか娘自身で紹介してくれることを待つことにしよう。

残念ながら、この絵本ももう一冊の絵本も在庫切れ、重版未定の表示になったままだ。

「リネアの小さな庭」
世界文化社発行
クリスティーナ・ビョルク 文
レーナ・アンデジョン 絵
山梨幹子 訳

2013年9月5日木曜日

小説 「風に立つライオン」

今日は絵本でなく、アフリカを舞台にした物語の話題を。

さだまさし作詞作曲の歌 ”風に立つライオン”がとうとう小説になった。

小説「風に立つライオン」表紙

この”風に立つライオン”は、ケニアに医師として赴任して3年、苦悩しながらも真正面からアフリカの人々と向き合いながら生きる主人公が、ケニアの雄大な風景、人々の様子を織り交ぜながら、日本に残してきた以前の恋人から届いた結婚報告の手紙に対しての返信として綴り送った手紙、という形で書かれた楽曲だ。

さだまさしのコンサートで、アフリカのサバンナに沈む壮大な夕陽の風景がステージ上のスクリーンいっぱいに映し出される中を、アフリカンドラムの響きから静かに入る”風に立つライオン”を聴いたことがある。
間奏部分でひときわ大きく演奏されるバイオリンの”アメイジング・グレイス”がしっくりきて、体じゅうで感動したことを今でもはっきり思い出す。


最近、日本の友人からのメイルで、この歌が小説になったことを知った。
さらに。
3、4年ほど前だったか、さださまさしのコンサートのゲストに招かれた俳優の大沢たかおが、”風に立つライオン”を映画化するときはぜひ主人公を演じさせてほしいとさだまさしに懇願していた場面をわたしは客席から見届けたのだが、そのときのさだまさしとの約束どおりに彼が映画で主人公を演じることが決定したことも知ったのだった。


さて、そうなると早くこの小説を手にしたい、読みたいという想いが募る一方だった。

そして、ついに!
先月、キンシャサを訪れた知人のみやざき中央新聞の編集長夫妻がわたしにサプライズプレゼントだと言って持ってきてくれたのが、なんとこの、小説「風に立つライオン」だった。

しかも!
なんとそれは、歌”風に立つライオン”の青年医師のモデルとなった柴田紘一郎医師のメッセージとサイン入りの本だったのだった。


”風に立つライオン”の青年医師のモデル、柴田紘一郎医師からのメッセージ


柴田紘一郎医師はわたしの母校の長崎大学の医学部を卒業されている。

柴田医師が長崎大学医学部熱帯医学研究所のケニア研究所に赴任されたときのことを知人のさだまさしに語って聞かせ、かれのケニアでの経験談をヒントに創作されたのが、”風に立つライオン”だと聞いたことがあった。

長崎大学医学部、と聞いて懐かしいことがふつふつと蘇ってくる。

わたしは教育学部だったが、乳幼児心理学の講義で、また心理学教室での遊戯治療の手伝いで、しばらく医学部キャンパスに週1回のペースで通っていた時期があった。
教育学部のある本部から裏門を抜け、永井博士の住居跡の如己堂を通り、現在のような赤レンガ建物に復元される前の浦上天主堂の前を通り、緩やかな坂道を上って医学部キャンパスへ通う道は、まさに長崎らしいわたしのお気に入りの散歩コースだった。

また、わたしは夫との結婚が決まってから、いつかのアフリカやアジアでの家族滞在のためにと、長崎大学医学部の熱帯医学研究所の公開講座に参加したこともあった。卒業以来、久しぶりの長崎を楽しんだことも懐かしい思い出だ。


わたしは今回、小説「風に立つライオン」を読んで、長崎大学医学部の熱帯医学研究所がケニアにも研究施設を持っているということを初めて知った。

現在、この歌や小説のモデルとなった柴田医師は宮崎市の病院に勤務されていて、知人夫婦が懇意にしているということだった。

柴田医師からいただいたメッセージにある「安請け合い」も口癖の「ダイジョウブ!」も、小説の主人公の人間性を表現するキーワードであり、彼が繰り返し吐くセリフなのだが、ああ!きっと柴田医師ご本人が、「安請け合いのミスター・ダイジョウブ」なのだろうなあと確信したのだった。


わたしの、何でも引き受けてしまう性質と「きっと、うまくいく!」と唱えて進む信条と合致しているようで、このメッセージを書かれた柴田紘一郎医師に親近感を覚えてしまった。



さだまさしは小説の中で、主人公につながっている知人たちそれぞれに回顧録という形でその青年医師について語らせて、かれの人格、生き様を浮かび上がらせていく。
そして、さだまさしの同名の歌の中のアフリカの世界を、かれが実際に支援活動をしている東北大震災被災地の人々の生きる世界につなげて、小説は完結している。


わたしが学生時代にアルバイトをしていた長崎放送のディレクターが、さだまさしのこんな話をしていたことを思い出す。

「まさしは、人の話を聞くとなんでもかんでも書き留めるんだよ。書くものがないと箸袋にまでぎっしり書いてポケットにしまうんだ。」

きっと、人との交わりを大切にするさだまさしのポケットにはいろんな人から聞いた情報がかれの心根に沁みて醸造されて、しこたまたっぷり、溢れんばかりにストックされているのだろう。


かれのアフリカに対する知識、思い、医学の知識、災害の知識などがたっぷり織り込まれて進むストーリー展開も飽きなかった。

もしかしたら、かれの小説にはロマンがちょっとあり過ぎる、と苦言を呈する人もいるかもしれない。
それはアニメ監督の宮崎駿の作品にも通ずるように感じる。
かれらのロマンを、わたしはすっくり素直に呑みこんで楽しむのも心地よい鑑賞だと思ったりする。

わたしには、知人を通してfacebookでつながった1人のコンゴの若者がいる。
かれは、現在、国費留学生として長崎大学医学部に留学中のコンゴの青年医師だ。
わたしが、さだまさしの歌、”風に立つライオン”が大好き、とメッセージを送ると、その青年は、小田和正の”言葉にできない”、”さようなら”が好きだと返信してきた。
そんなメッセージにかれの優しい人柄を感じた。
かれの手によっても、きっとアフリカと日本との間で心のバトンが引き継がれてゆくのだろう。


ケニア 夕陽の中のマサイ族 (あるサイトより)

この小説に出てくる「ガンバレ! ガンバレ!」という叫び声が読み終わった後も心に響く。

          
”「ガンバレ! ガンバレ!」 それは自分を励ます言葉。”