”マンゴーの森”表紙 |
この冊子、「マンゴーの森~親子で綴るアフリカの日々」は、わたしたちが帰国後しばらくして、わたしの従兄がバンギでの思い出のためにわたしたちが書き綴って来たそれぞれの月刊新聞を一冊にまとめたらどうかとアドバイスをくれ、かれの勤務する印刷会社で印刷してもらったものだ。
当時は、ブログという手段もなかったし、インターネットのメイルで送信するということも一般的ではなかった。
わたしたちは文章も挿絵も手書きで書いて描いて、夫の会社のコピー機でコピーしてもらっていた。
見返してみると。
わたしの「バンギ便り」は、1992年9月から1995年6月まで、第30号で終わっている。
”バンギだより 第7号” (1993年3月1日) |
娘、ユキの「Bonjour だより」は、1992年12月から1995年6月まで、第26号で終わりになっている。
9歳になってすぐの時から11歳6か月までの記録だ。
”Bonjour だより 第1号”(1992年12月初め) |
初回号は、「中央アフリカでの学校<シャルル・ド・ゴール・エコール>について書きます。」と書かれて、娘の通うフレンチスクールのことを紹介している。
わたしは、むすめにはこの便りを半分、強制して書かせたところがあった。
娘は、小学校3年生の1学期を終えてバンギに来ていて、日本人学校も補習校もなければ、日本人の子どもたちは、当時バンギでわが家の姉弟の二人だけだったから、しっかり日本語で考えて日本語で書くという時間を持ってほしかったのだ。
娘には厳しいところもあってかわいそうだったと反省している。(厳しい母でごめんね。)
でも、26号まで書き綴っているところをみると、結構、娘も楽しんで書いていたのではないかと思う。
また、こんな思いでもある。
・・・当時、娘たちのように日本人学校や補習校のない海外で暮らす子どもたちのために、在外日本大使館経由で毎月送付されてきていた補習ワークブックがあった。
その、海外子女教育財が発行する「一日一ページのワークブック」を使用して、娘は(後に息子も)日本の学校カリキュラムを学習していた。そして毎月末に終了テストを郵送するのだが、その封筒の中にも、娘が綴る新聞を入れていた。
そして嬉しいことに子女教育財団が発行する通信新聞に、よく娘の”Bonjourだより”が紹介されていた。そんなことも娘の励みになっていたのだと思う。
さて。息子、コウイチの「ライオンシンブン」は、というと。
1993年5月から1995年6月まで、第22号までしっかり続いている。
かれには一度も無理強いをしたことがない。
わたしが便りを書いて、姉が書いて、自然にぼくも書く、となったのか。
いやいや、夫のプロジェクトの鹿島建設の事務のお姉さんが、娘に[いつも”Bonjourだより”をありがとう。楽しみにしています。」という手紙と共に”ふりかけ”が出張者に託されて送られてきたことがあった。そのときに、ぼくもふりかけがほしい、と言って、自主的に書き始めたことを思い出す。
その時点で、息子は5歳7か月。満足にひらがなも書けなかったのだが、わたしの傍でわたしに質問しながら、たどたどしい字で書き綴っていた光景が懐かしく思い出される。
”ライオンシンブン うるとら7ごう”(1994年2月1日) |
見よう見まねで、鉛筆で挿絵もしっかり入れて、新聞名も自分で「ぼくのは、”ライオンシンブン”にする!」と決めた。しかも、カタカナにこだわったと記憶している。
キリンでもゾウでもなく”ライオン”にしたのは、きっと、ライオンが森でいちばん強い動物だと思ってのことだったろう。
母子三人で月末になると食卓テーブルで書き始めて、月初めに出来上がると、20部くらいだっただろうか、三人の新聞をコピーして、新聞の最後に便り欄の空白を作っていて、そこにメッセージを書き入れて、封筒に宛名と住所を書いて、3つの新聞をつめこんで封をする。
そして、パリ行きのエアフランスが出発する日(週3便だったか。)に空港内にある郵便局まで行って、中央アフリカの美しい大きめのサイズの切手を買ってその場で貼り、封筒を郵便局員に手渡し、局員が航空便の袋に入れるのを見届けてから帰るのだった。
そんな思い出が詰まったこの、「マンゴーの森」。
バンギにはマンゴーの木が並ぶ道はあちこちに見かけたが、決してマンゴーの森は存在しなかった。
それでも、冊子の題をマンゴーの「森」としたのは、わたしたちのバンギでの思い出のいっぱい詰まった「思い出の森」だと思ったからだ。
「マンゴーの森」の裏表紙の絵は、息子がらくがき帳にたくさん描き残した中から選んだ。
”マンゴーの森”裏表紙 par Koithi |
息子の名前、コウイチは、ローマ字綴りの”Koichi”だと、フランス語では「コワシ」と読まれてしまい、かれは工夫して、コウイチと呼ばれるために、”Koithi”(最初の「i」には、点2つ付き!)と書いていた。
マンゴーの実(内部)の色がオレンジだから、表紙もオレンジにしよう、とか。
副題として、「親子で綴るアフリカの日々」を入れたらどうか、とか。
表紙には、わたしがなにか絵を描くのはどうか、とか。
新聞の文字は、そのまま、手書きの文字の新聞を使おう、とか。
そういった細かい、そして心温かいアドバイスをくれて、二百部(だったかな?)印刷をしてくれた北九州の従兄、龍兄にはこれからもずっと、ずーっと感謝し続けたい。
素晴らしい思い出をまとめてくれて、ありがとうございました。